きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(9)・喧嘩独楽と釘刺し

2010年09月16日 | 思い出探し
昭和30年頃の子供たち(悪ガキ達?)の遊びについて・・・

前にも書いたが、家の近くの新寺小路という道の両側には幾つものお寺さんが並んでいて、その墓地での蝉取りやカナブン捕り、お寺の蓮池でのイモリやフナ獲り(何回池に落ちたことか)、ゴムパチンコ、2B弾の爆裂、陣取り、チャンバラ、かくれんぼ、お医者さんごっこ??、凍った道路でのスケート、パッタにメンコなどなど楽しく遊んだ思い出が沢山あるのだが、後にも先にもここ仙台、またはここ東一番町界隈だけでやられていたのかも知れないローカルな遊びが、「喧嘩独楽」と「釘刺」である。

 独楽遊びというと「べーゴマ」が頭に浮かぶのは東京人だろうが、昭和30年前後にこの辺でやられていたのは、もっとダイナミックな独楽遊びであり、路地裏とか軒先でもできるべーゴマと違い、ある程度の広場がないと出来ない遊びであった。危険な遊びでもあり親達にはあまり好評でない遊びでもあった。
 
独楽がまずでかくて重い。
直径10cmを越え、高さ(厚さ)もある白木の独楽を使うところが特徴で、心棒も白木の太いものだった。独楽は近くの木工所で作ってもらっていた。オーダーメイドの遊び道具だなんて今思えば洒落ている。
注文するとその場でコケシなどを作る要領で木工旋盤を使ってシャーっと作ってくれた。
心棒を押し込む時に出る煙や木の焦げる匂いが思い出される。
この独楽を水に漬けたり、親に隠れて糠味噌に漬けたりして湿らせることで独楽本体と心棒を強固に結合させ、また重さと強さを高めてから使用した。

 独楽を回す紐がまた特徴的で、古い日本手ぬぐいやぼろきれを細く裂いて三つ編みにした、手元が太く(握るに適した太さ)で、先に向かって徐々に細くした(先端は糸みたい)、丁度ムチのような形状の紐を自作して使用していた。
紐を巻いた独楽を野球のボールを投げるようにサイドスローやオーバースローで地面に叩きつけるように投げたり、「ガンズキ」といって垂直に落としたりして回すのだが、回すだけでもかなり難しいのに、既に回っている相手の独楽に投げ当てて倒して(回るのを止めて)かつ、自分の独楽が回っていて勝ちとなるゲームであり、この辺はべーゴマと少しにている。変な方向に飛んでいって、人に当たったりして、たまにけが人が出た。また時には衝突した独楽が真っ二つになったりした。
現在であれば危険で学校から禁止命令が出そうである。

 もう一つ危険なのが「釘刺」という遊びで、これは先の尖った適当に細い金属棒を地面に投げ刺して遊ぶ遊びだ。これは狭いスペースでも出来る遊びであるが、地面が固かったり小石が混じっていたりでは旨く刺さらないため、粘土質で湿って柔らかい地面が必要であり、やる場所は限られていた。
家の庭がそんな地面だったので、兄や近所の子とよく遊んだ。ゲームは単純で交代に釘を地面に投げ刺して、自分の刺し跡を直線で結んで、折れ線グラフのようにつないでいくだけのものだが、描かれる自分や相手の線をクロスすると負けになる。みんなのスタート点は共通であるので、相手の通り道をふさぐ様に折れ線を延ばしていくと、当然ながら渦巻き状の円がだんだん大きくなっていくのだが、あいての行く手をふさぐためには、既に出来ている線の出来るだけ近くに刺して相手の線がその隙間を通りにくくするのがポイントとなる。
釘は五寸釘でも良いのだが、より繊細な戦いが好きな兄や私は父親に内緒で、父の事務仕事で使っている千枚通しや大工道具の錐を持ち出して遊んだものである。
父に見つかるようなヘマは決してしなかった。

この遊びは3年生で転校した気仙沼では全くやられていなかった。
なぜか分からないが、勝負遊びとしては仙台では全くはやっていなかったビー玉が流行っていたのである。

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思い出探し(8)・1955仙台・その2

2010年09月16日 | 思い出探し
写真;幼稚園の帽子を被った私と小学生の兄、仙台に来た移動動物園を見に行った時のスナップ

 仙台に引っ越してから間もなく幼稚園に通い始めたが、残念ながら幼稚園での記憶がほとんど無い。
「のうにんようちえん」という名と、「のんのの かみさま ほとけさま・・・・」という歌のワンフレーズだけ記憶にあり、多分園歌だったのだろう。お寺さんが経営していたので、「のんの様」=観音様なのであろうか・・・。

 仏教系の幼稚園であったが、毎年クリスマスには当時仙台に進駐していた米軍の楽隊と白いひげで背のやたら高い本場もんのサンタクロースが一杯のお菓子を持って訪問してきてクリスマス・パーティーが開かれた。 これを鮮明に覚えているのは、多分もらった美味しいお菓子の所為であろう。こういうことは米軍の占領政策の一環で行われたのだろうが、アメリカといおうかキリスト教はやることが戦略的で上手である。なにしろ今でも私の記憶に残っているのだから・・・。

 当時は現在の青葉区、青葉城址がある山と広瀬川の間に広がる台地に進駐軍(米軍)のキャンプがあり、舗装などまだされていない家の近くの道を時々、野砲を引いた米軍のトラックや、戦車までが砂埃を撒き散らしながら走っていた時代である。パトカーは白塗りのジープでお巡りさんは米軍から支給された大型の拳銃をぶら下げていた。

 トラックは走っていたが、馬や牛が引く馬車なども走っており、タクシーは円タクと呼ばれていたが、自転車と人力車を合体させたような「輪タク」も利用されていた。
冬の暖房には仙台近郊で採れる亞炭や薪を使用するストーブや炭や練炭を使用するコタツが使われていた。父の仕事の関係から薪は沢山あったが、薪割りは子供達の仕事で、長い丸太をノコギリで適当な長さに斬ってから、おおきな斧を使っての薪割りはきつかったが、結構おもしろかった。

 近くにあった鐘崎(今は大きな会社になっているが)の笹蒲鉾の工場の通りを挟んだスーパー(そのころは何とよんでいたか?)に街頭テレビが設置されたのは私が小学校に入ってからと記憶しているので、昭和30~32年頃であろうか。新橋の街頭テレビの人の群れが有名だが、仙台の横丁の小さな通りでも同じようなシーンがあったわけで、時は栃錦VS若の花(とちわか時代)であり、プロレスでは力道山が外人に空手チョップを食らわしていたのでした。

思い出探し(7) ・1955仙台

2010年09月16日 | 思い出探し
写真;幼馴染の悪童たち、遊び場だった家の前の石置き場にて

 私が仙台で過ごしたのは3歳(1952年)から小学校3年生の夏休み(1958年)までの6年間で、当時は終戦から10年ほど経過したとはいえ、まだ米国の占領・統治下にあり、市内にも進駐軍のキャンプがあって、家の近所の新寺小路の道を時々米兵を乗せたジープや野砲を引いたカーキ色のトラックが未舗装の道路を砂埃を巻き上げながら走っていた。そればかりか、たまには戦車もキャタピラで地面を削りながら、ゴゴゴゴゴと地響きをたてて走ることもあった。

 私の住んでいた東八番町は駅裏の赤線地帯とは少し離れていて、すぐ側の新寺小路を挟んで両側にお寺が並んでいる静かな町であり、あまり事件らしい事件は起きなかったが、たまにウーウーウーとサイレンを鳴らしながら、米軍支給の不釣合いな大型拳銃を腰に吊った警察官を乗せた白塗りのジープ(パトカー)が走ってくると、外に出て眺めたものである。

通っていた幼稚園はお寺さんの経営だったが、クリスマスには米軍の楽隊とお菓子を背負った背の高い本場もんのサンタクロースがやってきて園内でクリスマスパーティが開かれた。これもGHQの占領政策の一つだったのだろうが、子供達には楽しいひと時だった。

 仙台市の中心部には路面電車が走り、トロリーバス(電気自動車)が走り、タクシーもあったが、自転車と人力車が合体したような「輪タク」も特に夜間などは良く利用された。
 私の住まいも含めて周囲には木造平屋または二階建ての家が多く、大体が大人の背丈より高い板塀で囲まれており、それなりに庭などもあり、花壇や庭木もあったりして、建物は古かったが、住宅事情は現在より良かったような気がする。現在、新寺小路も道幅の広い立派な舗装道路になり、お寺や墓地もそれによって削られて、よく遊んだ蓮池なども姿を消して、一戸建ての家はマンションへと変っている。

 ハエ、アブ、ダニ、ノミ、シラミ、蚊などの虫たちやネズミには手を焼いた。
ちょっとした水溜りにはすぐボウフラが湧いたし、汲み取り式の便所を覗くと蛆虫がクニクニ蠢いていた。蚊帳は夏の必需品だったが、母に教えられた通りにいくら上手に蚊帳の中に入っても、いつも1~2匹の蚊が付いて入って来て往生したものである。ある程度の歳になると子供はみなノミ捕りの名人となった。

 毎晩、天井裏で運動会をするネズミは「ネズミ捕り」で毎晩つかまえてもいなくならなかった。なにしろ鼠算式に増えるのですから・・・。ネズミ捕り器のまま水に漬けて水死させるのはチョッと可哀相だったが、そんなことも言っていられないし・・・。

 年1~2回は天気の良い日に畳を上げて天日に干し、床板の上に敷いた新聞紙の上に殺虫剤を撒いて、乾いた畳を敷き戻す作業も一家総出でやっていたし、たまには市役所(保健所かな?)の消毒班みたいなのが各戸を回っては、小型発動機がついた機械からボボボボボと白い煙を家の中に吹き込んで、家全体を消毒・殺虫していたが、今思えば殺虫剤は今は禁止されているDDTやBHCだった訳で、そんな内で暮らしていたのだからなんと恐ろしい・・・。
まあ、今元気で生きているのだから問題ないと言えば問題ないのだが・・・。

 近所に街頭テレビが設置されたのは私が小学校へ上がる頃だったろうか、昭和30年ごろと思うがはっきりしない、設置されたのは周辺では1番大きな食料品店(今で言うスーパーかな)の前で、この店は蒲鉾を作る工場を併設していて、工場の建て前のときには撒かれる餅や五円玉を必死に拾ったものだが、笹かまぼこなどを手焼きしていて・・・現在の仙台土産「鐘崎の笹蒲鉾」の会社である。

 蓮坊小学校への入学は昭和30年(1955年)であるが、校門の前にはいろいろな物売りがきた。一番多かったのが「針金細工屋」で、ピストルや三輪車などを目の前で作って売っていた。粘土細工用のゴム粘土と型も売りに来た。半割にした型にゴム粘土を詰めて、押し合わせて、型を開いて、はい亀やウサギや大黒様の出来上がり。
「樟脳船」はセルロイド製の小さな船のお尻に樟脳の欠片を乗せて水に浮かべると、ふしぎやふしぎスイスイ、クルクル走りだすというもの。他に「サワガニ」「ヤドカリ」「色つきヒヨコ」「カメ」などの動物などなど、学校帰りの一時を物売りのおじさんを囲んで、キャッキャッ、ワイワイと楽しかった。

 休みの時は母と、父が都合の良いときは両親とともに、近くの公園で遊ぶことが多かった。八木山、野草園、西公園、榴ヶ岡公園、仙台城址、広瀬川の河原、県庁前の広場、夏にはモーターボートをチャーターして松島の桂島に海水浴にも行った。
お弁当を持って出かける場所は沢山あった。七夕祭りや広瀬川での花火大会は今ほど豪華ではなかったが、市民のお祭りで、人出は多かった。そんな家族での楽しみができるようになったのも戦後10年という月日のせいだったかも知れない。 
ちなみに、東京タワーが完成するのは1958年(昭和33年)10月14日であるが、この年の8月には一家は仙台市を離れ、気仙沼市での新しい生活が始っていた。

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思い出探し(5)・母

2010年09月16日 | 思い出探し

母と私(抱かれている)と兄。昭和25年正月か。

母は優しく、美しく、賢く、頑張り屋で、私には理想の母親像として心に残っている。

理想の女性像といって良いかもしれないが、これは私が両親とともに暮らせたのが、私が腰椎カリエスを患い、家から遠く離れたサナトリウムに中学2年生の夏に入院するまでの13年間という短い期間だったこともあり、そのため心の中である意味で理想化されたためでもあろう。

残念なことに、少女時代に患ったリウマチ熱の後遺症で心臓が弱かった母は、正月に子供をつれて帰省した私たち夫婦をいつもと変わらず元気に迎えてくれた翌月に58歳で急死してしまうのであるが、当時33歳の私にとってはまさに人生最大のショックであった。母が死ぬなんてことは全く考えていなかったから・・・。

母は、王子製紙の社員で樺太(おそらく泊居の工場と思うが)の工場に勤めていた祖父の次女として大正14年に生まれた。姉が1人、弟が3人である。当時は社員(ホワイトカラー)と職工(ブルーカラー)とでは厳然とした格差があったようで、母は社員様のお嬢さんとして良い環境で何不自由なく育ったようだ。

仙台市の女学校に内地留学し、卒業後10代で泊居の小学校で代用教員をしていたそうだが、女学校時代の写真には健康的で目の大きい可愛い少女が写っている。祖父も背はそんなに高くはないがガッチリした体をした目の大きな美男子で、なにしろ母の弟の一人が戦後日大の学生だった時に、映画俳優を目指して長谷川一夫に弟子入りしようとしたくらいであり、他の姉、弟も皆美男美女であったから、家系なのであろう。
その血筋は私の兄にも引き継がれて・・・。残念ながら私は父親似だそうで、後年 父の葬儀に参列した父の小学校時代からの友人の方に「父親にそっくりだあ~!。」と何度も言われたのを覚えている。

少女時代はノルディックスキー(距離競技)の選手で、樺太の大会で活躍したほど健康だったが、リウマチ熱を患い、多くの人がそうであるように心臓に後遺症を残したためか、私の記憶にある母は色白で細面のもの静かな人であったが、友達を作るのが上手な明るい人であった。

代用教員をしている時に、戦地から帰還し営林署に勤務していた父と見合い結婚をしたのである。
すぐに敗戦、ソ連の赤軍の侵攻、樺太からの引き上げ、出産と2~3年間に様々なできごとが起きたが、その後も父の仕事の関係での数多くの転居や父の闘病生活や私の闘病生活などなど・・・次々と起こる一家の大事にも一家を守り、苦労ばかりの人生だったと思う。それに報いることもできずに早世してしまい、今でも思い出すたびに心苦しくなるのである。

母についてはこの後の私の生い立ちの記載の中で書いていきたいと思っている。

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