きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(24)・カリエスそして西多賀ベッドスクール

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;当時の国立西多賀療養所の全景。

夏になると毎年思い出す中学時代の苦い思い出・・・その後の私の生き方に大きく影響を与えた、忘れられない事件。

話は、中学校体育連盟主催体操競技の本吉地方大会で個人総合優勝した直後から始る。



中学校2年生の夏である。
ミンミンと蝉の声がうるさい坂道を登って毎朝の体育館通いが続いていた。
仙台市で開催される中体連主催体操競技の県大会が目前に迫っていて、皆汗だくで必死で練習した。
たまにある、父兄や先輩からのスイカの差し入れなどがものすごく美味しかった。

私は、苦手な鉄棒の点数を少しでも上げようと、車輪や前方宙返り降りの技を繰り返し練習していたのだが、何となく身体全体がだるくて、今ひとつ腰に力が入らない状態が地方大会の前からあって、思うように技が上達しないのが気になっていた。
それでも、毎夕練習後に膝をがくがくさせながら坂を降り、家のトイレでしゃがむのも侭ならないほどの大腿部や全身の筋肉痛の方が強くて、腰の重だるさにはそれほど注意が向かなかった。

腰の重だるい感じは日増しに強くなって、座っていても腰がだるくて、家でもついつい横になってしまうことに異常を感じた母の「掛かりつけの内科の先生に一度みてもらいなさい。」の言葉に、すなおに従ったのも、自分でも「これはチョッとおかしいな。」という思いがあったからである。

小学校の時からたびたびお世話になっていた診療所で腰部のレントゲン撮影や血沈などの検査を受けた後、医師から、これも手の怪我などで何度か通ったことのある近所の整形外科で精密検査を受けるよう指示があり、すぐにそちらに行って、同じような検査をしてもらった。
診断結果は「腰椎カリエス(腰部結核性脊椎炎)の疑いがある」と言うもので、「骨が崩れてしまう」病気であるという言葉だけがやけに気になったが、当時は「カリエス」などという病気のことなど知るはずも無く、怪我をした時のように痛いという訳でもなく、数日間家で安静にしている間も、体操部の仲間が顔をみせても、顧問の先生が見舞いに来られても、自分が病気であるということがまだピンとこなくて、ただただじっとしていなければならない身体とイライラする気持ちを持て余していた。

その間、両親は医師や学校の先生などといろいろ相談していたのだろうが、気仙沼からは少し遠い、仙台市にある国立西多賀療養所で精密検査を受けることになった。
両親は、父が結核を患ったこともあり、カリエスがどんな病気かも、治療に長期入院が必要であろうことも考えて、中学校の分校があるこの療養所を選んだものと思う。
両親のこの即断、即決に対しては未だに感謝している。
この療養所は、肺結核やカリエスの子供達が病気療養とともに中学校の授業が受けられる、当時は全国でも希な療養所で、「西多賀ベッドスクール」と呼ばれていたが、一般にはまだあまり知られていなかった。

療養所は、仙台市から秋保街道を下った郊外の緑豊かな山の中にあった。
レントゲン写真を撮ったり、いろいろ検査をうけた結果、医師はさらりと「即、入院しましょう」と言ったた。
ある程度覚悟はしていたものの、「入院」という言葉にかなりショックを受けたのは確かで、両親が医師といろいろ話をしている間、薄暗い廊下の長椅子にすわって待っている間、初めて涙がポロポロこぼれた。
悲しいとか、不安だとかではなく、「なんで僕が病気になるんだ」、「なんで僕なんだ・・・」、とただただ悔しくて流した「悔し涙」だった。

隣りに座った看護婦さんが、私の背中を撫ぜながら、なぐさめや励ましの言葉をかけてくれたが、そんな優しさを感じる余裕は無くて・・・、そんな言葉をかけられることが、また悔しくて・・・私はただ黙って俯いて、涙だけがポロポロこぼれて何時までも止まらなかった。

こんなに涙を流したのは、この時と後年母が亡くなった時だけである。

昭和38年7月、13歳の暑い夏のことだった。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(23)・気仙沼中学校体操部

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;
昭和38年夏、気仙沼中学校体操部、最後列向って左端が2年生の私。痩せているけど、結構腹筋は割れていたのです

 昭和37年(1962年)気仙沼中学校に入学し、すぐに体操部に入部した。
小学生の時から運動は得意な方で、中学でどの部に入ろうか悩んだが、ユニフォームがなんとなくオシャレな感じがして、中学校の出来たばかりの体育館も、世間で良く見るかまぼこ型のそれではなく、正方形の洒落たデザインのコンクリート製の立派なもので、設備や器具も充実していたからだが、当時はオリンピックでも体操競技で日本は大活躍していたりして、「体操日本の将来を担うぞ!」・・・などという大層な思いも多少はあったりして・・・。

 ちなみに、体育館完成の折には、たしかテレビの何かのショー番組の公開録画があり、当時人気があったコメディアンの伴淳三郎(ばんじゅん)などが出演したりして、町全体で祝ったものである。

 新人の練習はきつかった!。
なりたて中学生の体は全然体操用に出来ていなくて、毎日毎日筋トレにあけくれて、それでも夏休み前には、床でのバク転、バク中や鉄棒の基本技もそれなりに出来るようになっていて、手はマメでがちがちで、腹筋も割れてきて、多少は体操選手らしい体になってきていたのでした。
放課後に暗くなるまで練習し、膝をがくがくさせながら坂道を降りて家路に着く毎日で、家ではバタンキューだったが、結構学校の成績は良く、父からは「文武両道が大切」と言われたが、とにかく何につけても負けたくなかったのは確かである。

 2年生の夏に行われた中学校体育連盟本吉地方大会で個人総合優勝するのだが、その直後に「腰椎カリエス」となり、1年間の闘病生活に入ることになってしまうが、この当時はまだ知る由もなかった。

思い出探し(22)・はじめての北海道

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;支笏湖の湖畔にて・・・今見ると、日活映画か児童映画の宣伝用スチール写真みたい・・・「太陽の季節」?・・・みたいな、そんな気分でいたのか、みんなやけに気取ってポーズをとっている。私5年生、兄と従兄弟は中学1年生。昭和34年。

 札幌で開かれた女学校の同窓会に初めて出席する母のお供で、兄と私は生まれて初めて北海道に旅した。気仙沼を出発して、チョッとわき道にそれる形で秋田の脳卒中で自宅療養中の祖父を見舞った。
 祖父に会うのは10年振りくらいだったろうか、片麻痺で言葉が不自由ではあったが、とても喜んでくれた。秋田に住んでいる母方の親戚とも会い、従兄弟たちとも久しぶりに顔を合わせたが、初めて見る顔もあった。

青森までは蒸気機関車の引く列車に乗った。
乗客も少ないため私たち兄弟は車内を独占して遊びまわった。
 手動で開けられる(今では想像できないが)デッキのドアを勝手に開けてちり紙を飛ばし、列車に沿って後方に飛んで来るちり紙を、後ろの開けた窓からもう一人が体を乗り出してキャッチするなどという、今思えば恐ろしい遊びに熱中した。なんかこんなことは鮮明に覚えているから不思議だ。
青森に着く頃には鼻の穴から目の周りまで機関車の出す煤で真っ黒になってしまった。青森からは青函連絡船「十和田丸」に乗って函館へ、そこからまた列車で札幌へ。

 札幌には母の姉が暮らしていて、そこで何日間か泊めてもらった。
母が同窓会にでている間はいとこ達と遊んで過ごした。いとこは兄より年上の女の子(写真に写っている賢そうな美人)と、兄と同い年の男の子がいて、北大のプールで泳いだり(これが緑色をした水の物凄く汚いプールで、良くこんなプールで泳げるなあと思ったのだが)、片平川でヤツメウナギを採ったり(従兄弟が言いだしっぺだったが、結局一匹も捕れなかったのだが)した。



写真で私はなんかおしゃれな服を着ているが、これは母の手作りである。
女学校の家政科だったせいか(と思うのだが)母は和裁、洋裁、編み物が上手で、当時はどの家でもそうだったのかもしれないが、セーターをはじめとして私の着るものの多くは母の手作りだった。もちろん兄のお下がりも多かったのだが。

 同窓会の後の1日、皆で支笏湖まで遊びに行った。
こんな大きな湖を見たのは生まれて初めてだった。「支笏湖はすごく深くて、水も冷たいので、おぼれ死んだら、死体は浮き上がってこないんだそうだ・・・」などと、いとこが遊覧船の中で話したので、想像力の豊かな私は水底に沈んで水面を見上げている死体の群れを想像して、恐ろしくなったものである。
家に帰ってからも、そんな夢を何度かは見たような気がする。

思い出探し(21)・崖から転落

2010年09月20日 | 思い出探し
確か小学校5年生だと思うが、気仙沼の家の前の山で例によって近所の悪童達と遊んでいた時、崖から転落するという事件を起こしてしまった。

 山は段々畑になっていて、夏にはバライチゴ、春にはバッケ(フキノトウ)などが畑の畦に生えて、そんなのを採ったりした場所だが、男の子達にはもっぱらチャンバラなどして駆け回るフィールドとなっていた。

 その日も、山の上の方から皆で速さを競うようにして、段々畑を飛び降り飛び降りしながら駆け下りてきたのだが、私は勢いがつき過ぎて下の狭い道で止まれずそのまま道幅を飛び越してしまった。
 その道は切り立った崖の上にあって、崖の高さは7~8mはあったから、私はもんどりうって落下したわけである。
 前のめりになって崖から落ちる!・・・までは、しっかり目を開いていたようで、崖下が見えたところまでは記憶に残っているが後は目の前は暗転して、そのまま背中からスーと下に落ちる感覚があって、これが結構長い時間に感じられて・・・突然、それまで経験したことがない強さで背中全体をドカンと叩かれて、丸まっていた体が瞬間的に大の字に開かされた感じになって、息が詰まって・・・気絶してしまったようだ。

 どれだけ伸びていたのかは分からないが、目をさますと側に母がいて、兄がいて、周りに近所の人や悪童達がいて、しばらくは状況が分からなかったが。仰向けで寝ている先に崖の縁が見えて・・・あ~落っこっちゃた・・・、と納得した。
 落ちたところは、瓦礫に覆われていて、崖はほとんど垂直で、私は勢い良く前に飛び出したため、そのまま真っ直ぐに地面に落下したようだ。友達は声を掛けても応答しない私を見て、てっきり死んだと思って、青くなって走って母に知らせたらしい。

 幸いにして、しばらく休んでいたら何とか手足も動くようで、母に助けられながら歩いて家に帰った。
 家に帰ってすぐ、着の身着のままで寝かされて、「痛いところは無いか?」「具合はわるくないか」「良く助かった!」とか、一杯心配され、「大丈夫、大丈夫、なんともない・・・」などと言っていたが、しばらく経つうちに、体のあちこちが痛み出してきて、特に左足の脛の部分が痛いので、ズボンをまくってみたら、なんと脛の半分くらいの長さの切り傷ができていて、だらだらと言う感じで血が出ていた。

 こんな状況で医者にも行かないで済んだのは不幸中の幸いで、赤チンを塗って済ませてしまうのが当時は当たり前だったのかもしれないが、一つ間違えば命を落とすか、歩けなくなったかも知れない訳で、今思えば恐ろしい限りである。
「死ぬ・・・!」と思ったのはこれ以降何度かあるのだが、幸いにして生き延びて、昨年還暦を迎えたのである。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(20)・ホンダ・ドリーム号??

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;
昭和35年ごろかな? 気仙沼の自宅兼父の事務所の前で撮影
ここに写っているオートバイは父の愛用したホンダのドリーム号だと思うのだが・・・?

 気仙沼に来てから、父は仕事でオートバイ(確かホンダのドリーム号だったと記憶しているが)を使うようになっていた。乗用車を買うのはさらに3~4年先のことで、それまでは暑い夏も、凍える冬も、もっぱらこのオートバイに乗って出かけていた。冬には体全体に氷が張ったようになって、がたがた震えながら帰って来たものでした。

 肺結核の手術で片肺が無く、腕もまだ良く上がらない体で、山道をこのオートバイでぶっ飛ばしていたのだから感心するというか、呆れてしまう。
 当時は道路だってまともに舗装されていない時代だし、オートバイだってそんなに走っていませんでした。

思い出探し(19)・安波山からの初日の出

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;平成22年7月。同窓会で気仙沼に行き安波山に久しぶりに登る。山頂から市街、気仙沼湾と大島を望む

 

モノクロ写真は昭和40年頃の同じ場所からの風景。一見現在と全く変わらない風景に見えるのだが・・・、2写真を比較して良く見ると湾に面した海岸近くが埋め立てられて、昔に比べて道路が拡幅されたり家が増えているのが分かる。

安波山(あんばやま)は気仙沼市街の北に位置する標高239mの山だ。
山というほどの高さではないが、私が気仙沼に引っ越した昭和30年代半ばには、植林後間もない、子供の背丈程の杉の木に覆われて、道と言える道も無い状態で、子供達には恰好の遊び場所だった。

 夏冬の区別無く、何かにつけてみんなで登って、チャンバラごっこや栗拾い、杉鉄砲での戦争ごっこ、竹スキーやアベック探検(?)・・・と遊んだものだ。また開校記念日や市制記念日など、全校や全市民が登るというような行事もあった。

 気仙沼に引っ越してすぐに近所の子供達に誘われたのは、初日の出を山頂から拝むというものであった。缶詰の空き缶で作ったカンテラに蝋燭をともして、元旦早朝の寒い、暗い、怖い・・・の山登りは、子供達にとってはまさに肝試しでもあった。

 今ではクルマですぐに行けてしまうようだが、当時はちゃんとした登山道がある訳でもなく、獣道みたいな山道をカンテラの薄明かりを頼りに麓から登るのは結構大変だった。途中からは他の道から来た大人たちと合流して少し安心して登れたが・・・。

 山頂に着いてから日の出までの時間を山頂で寒風に吹かれながら待つのがこれまた大変で、今では考えられないが、杉の枯れ枝を集めてきて盛大な焚き火を山頂の広場で始める始末で、杉の枝はめらめらと勢い良く燃え、顔が熱くて側に寄れないほどだったのを覚えている。
 海からの「初日の出」を拝んだのはこれが生まれて初めてだが、その時なにを願ったのかは覚えていない。

 42歳の厄払いの同窓会に参加するため20数年ぶりで気仙沼を訪れた時に、安波山に登ってみようとふと思いたって、福美町から昔の記憶を頼りに登ってみたが、当時子供の背丈ほどだった杉も立派に育って、うっそうとした杉林に覆われた山の何処から登って行けるのかさえ分からず、諦めてしまった。大きく育った杉の木を見て、過ぎ去った年月の長さをあらためて思い知ったのでした。

還暦を過ぎてから毎年おこなわれているクラス会に今年も参加したついでに、天気にも恵まれてやっと安波山の頂上まで登ることができた。
気仙沼湾と大島のバランスの美しさは昔と変わらず、遠景からの町は昔と変わらない風情だったが、良く見れば田圃はずいぶん減ってしまっていた。