きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

ルルドの泉

2013年08月31日 | 健康・養生・鍼灸
 いろいろな種類の宝くじが発売されています。ジャンボ宝くじに限って枚数は少ないけれども毎回買って、もう何年になるでしょうか。3,000円が2~3回当たっただけで、あとは毎回300円の当たりくじを数枚換金する結果で終わるのですが、懲りずにまた買ってしまいます。

 もし5億円が当たったらまさに奇跡ですが・・・、奇跡と呼ぶには毎回出る300人近くの当選者の数は、「もしかしたら自分も!」の期待を抱かせるには充分な数で、ついその誘惑に負けてしまいます。

 フランスの南西部、ピレネー山脈の麓に、カトリック教の奇跡の聖地ルルドがあります。ヨーロッパに何度か出かけた私も、フランスで行ったのはパリだけで、ルルドがどんな場所か分かりませんが、この「ルルドの泉」には奇跡を求めて、世界各地から毎年500万人の巡礼が訪れているそうです。

 1858年にルルドに住む貧しい14歳の少女、ベルナデット・スビルーが村はずれの洞窟で聖母マリアを見たことから始まり、洞窟を掘ってできた泉に病気を癒す力があることが評判となって以来、現在まで巡礼が続いているのです。

 さて、現在までどれだけの奇跡が生まれたのでしょうか?。
それよりも「これは奇跡だ!」と誰が判断しているのでしょうか?。
もちろん奇跡の決定はカトリック当局が行っていて、カトリック当局がカトリック国際医師団が行う最新の診断装置や科学技術を駆使した調査結果などを基に、その「治癒」が奇跡であると認定した数は、1960年~2000年までの40年間で4人だけと言うことです。たった4人だけと思うか、4人もいると思うかは人それぞれですが・・・。

 500万人/年x40年間=2億人の巡礼者の内の4人に「奇跡」が起きた。と言うことは1/5千万 の確率で、この位になると奇跡と呼べるかもしれない。
ところで、1862年以来でルルド聖地当局が正式に奇跡と認定した人は66人と言うことで、つまり近年では奇跡の起きる回数は極端に減ってしまった訳です。

 これは、神様のご利益が少なくなってきたと言うよりは、医学、科学の進歩で、治癒のメカニズムが昔よりは解明されるようになってきて、これまで奇跡と見られていたようなことが、チャンと医学的に説明ができるようになったためらしい。つまり医学的に説明がつくものは奇跡ではない訳です。

ところで、1862年以降で「ルルドの泉に巡礼して病気が治った」と「自己申告」した人の数はというと、実に6,700人にのぼるのだという。つまり、本人が「奇跡的に病気が治った」と思った内の1%(66人)が真の奇跡、すなわち神の恩寵であり、残りの99%は何らかの医学的理由がつけられる治癒(自然回復などを含む)であったと言うのです。医学で治せなくても、治った理由はつけられるというのも変ですね。
  病気になった時の第一選択肢として「ルルドの泉に行こう!、行って神に治してもらおう!」と思う人はまずいないだろう。まず病院に行って、いろいろ高価な治療を受けても治らない人や、医学的にはもう手の施しようがない、手遅れですと現代医学から見放された人達が行う藁をも掴む「神頼み」の結果、6,700人の人たちが「治癒を自覚した」・・・と言うところこそ注目すべきではないでしょうか。
人の治癒のメカニズムは未だ医学的に解明されていないことがあるのですが、
精神生理学とか精神免疫学とかそんな研究も進んでいますので、将来には「奇跡」と言うものは全く無くなってしまうのかも知れませんし、その時には治療の方法も随分と変わっているのでしょう。

 いつまでも健康で美しく生きたいと誰もが思っています。
この科学・技術の進歩した現代でも、奇跡といわれるものが存在しています。
人の心と身体のメカニズムは未だ未知の領域にあり、小宇宙と言われる神秘の世界がそこにはあります。
いつまでも健康で美しくありたいという、希望と目標を持ち、もうすこし自分の身体に関心を向ければ、誰にでも奇跡を起す可能性が生まれるのではないでしょうか・・・それがたとえ小さな奇跡だとしても。
それは宝くじに当たる確率よりは遥かに高い確率で起こるのではないでしょうか。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>
 


思い出探し(6)・本土最後の地上戦

2013年08月15日 | 思い出探し
写真;父の遺品の樺太開拓四十年史より。終戦前の泊居町

 以前読んだ福井晴敏の小説「真夏のオリオン」(映画化された)の中に、米駆逐艦と日本潜水艦が最後の戦闘をしたのが実は8月16日で(戦争は15日で終結していた。)、それを知った両艦が戦闘をやめて、互いに敬意を表しながら別れる(祖国に戻る)シーンがあるが、これはチョッと話が美しすぎる。
情報伝達が混乱していた当時の戦場では、終戦を知らずに戦闘を継続して亡くなった兵士も多かったであろう。

毎年訪れる8月15日は決して「終戦の日」ではない。

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連赤軍の日本国(満州や樺太など)への侵略・占領作戦が開始された。
8月15日の終戦の「玉音放送」後も戦闘は続いており、樺太全島のソ連軍による占領により戦闘が終了したのは8月28日ということである。つまり、終戦後2週間近く戦闘が続いていたことになる。
この戦闘が「第二次世界大戦における、日本本土最後の地上戦」であったと言われている。

 この混乱の中で多くの悲劇が生まれ、あるものは後世に伝えられ、あるものは世に知られることなく埋もれてしまった。
沖縄戦については映画やドラマや小説で後世に伝えられていることは多いと思うが、それに比較して樺太に関してはあまりにも情報が少ないのでは無いだろうか。
真岡郵便電信局で女子交換手9人が自決した悲劇(映画「樺太1945年夏、氷雪の門」樺太終戦記録などがある)、朝鮮人の殺害事件や暴動事件、引揚げ船3隻がソ連潜水艦に撃沈され多くの人が無くなった話など、一部映画化されたものはあるものの、戦闘の状況や当時樺太在住40万人の日本人に起こった様々な出来事はあまり知られていない。

 私の結婚したばかりの父母が新居を構えていた泊居町は間宮海峡に面する樺太西海岸に位置し、当時の人口は12,000人程であり、製紙工場の他、缶詰工場、ビール工場などがあったようだ。赤軍の侵攻後、近隣の町でも朝鮮人労働者の暴動があって警察官や役人などが殺害されたとか、スパイ容疑で連行された朝鮮人が警察署内で射殺されたとか、女性が暴行をうけたとか、混乱の中でいろいろなことがあったようだ。
 当時、樺太に住んでいた一般の日本人の少なからずがピストルなどで準武装していたそうであるから、混乱の中で悲惨な事件が多く起こったと推測される。

 営林署勤務の父も役人の端くれであり、近所の警察官が殺害されたりする中で、身の危険を相当感じたに違いないが、幸いにも危害を加えられることも無く、逆に赤軍が町に入ってきたときには、知り合いの朝鮮人がかくまってくれたりしたそうである。
「自分も若かったから、役人風を吹かせるようなことも無く、近所の朝鮮人たち(製紙工場などで多くの労働者が働いていた)とピンポンをして遊んだりして、分け隔てなく付き合っていたのが幸いしたのだろう。」と後年父はよく話していたが、これも子供達に聞かせるために多少は教訓的に脚色されているようで、実際は生きるか死ぬかの状況下での苦労は想像するに難くない。

 赤軍が町に入って来た時には、どうなる事かと思ったが、腕時計を取られたりの掠奪行為はあったが、危害を加えられるようなことは無かったという。
やってきた赤軍兵士は皆若くて、むしろ彼らの方がビクビクしていたそうである。

 1949年6月に国家行政組織法の施行を以って泊居町は消滅するのであるが、その時すでに父母や祖父母などの一族は樺太を引き揚げており、それぞれの落ち着き先での新たな生活が始まっていたのだった。

ちなみに、この年、昭和24年12月に群馬県沼田市で私は生まれたのです。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

気仙沼ぶらり旅

2013年08月13日 | 気仙沼
 7月13日~15日にかけて、気仙沼中・昭和40年卒の同級会(恩師のあだ名をとって、コッペの会)に出席する機会に、大船渡、陸前高田、気仙沼、陸前階上を歩いてみた。
 震災後も毎年来ているが、いつもはとんぼ返りだったので、今回は被災地を可能な限り歩いてみようと思ったわけである・・・・

第一日目・・・・
横浜から一関へ・・一関から大船渡線で気仙沼へ



一関駅で御当地キャラの「おもっち」の見送りを受ける



太鼓の演奏などもあり、にぎやか・・・!



停車した駅の何箇所かでも、それぞれ太鼓の見送りがあり・・・



なんか、すごいなあと思っていたら、なんと大船渡線開業88周年記念のイベントに遭遇したようで・・・車内でお菓子も配られたりして、ラッキー!!



おもっちは途中の駅までしばらく電車に同乗して愛嬌を振りまいていたが・・・着ぐるみ暑そう



途中の駅で猊鼻渓の「げいびちゃん」?もお出迎え



あっという間に、気仙沼駅に到着、定宿の駅前のホテルに落ち着く・・・



少し休んでから、市内巡回バスにのり、市内を見る。いつもは歩きだけで行けないところも、廻れてとても便利、ただし運行本数が少ない・・・1乗車100円、約40分で一周。第18共徳丸も車内から見れました





市内の状況は道路の嵩上げなどは進んでいるが、全体としては昨年と変わりなく、残念!



取りあえず、お昼は復興屋台村「むらさき市場」で、震災前から何度か行っていた「あさひ寿司」さんでお寿司。



復興スペシャル握り、と生ビール



忘れてならない「もうかの星」・・・もうかサメの心臓の刺身・・・絶品!!



夜の同級会の模様を、チョットだけ・・・翌日は大船渡~陸前高田~陸前階上へ