きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(4)・兵役そして帰郷

2010年09月15日 | 思い出探し

父は軍隊での話を子供達に聞かせることは少なかったが・・・。

召集令状に従って、大阪の第八連隊に入隊し、福知山の内務班で教育訓練を受けたと記憶しているが定かではない。祖母の本籍が大阪にあったのかも知れない。

その後、輸送船に乗せられて中国大陸に渡ったようだ。
南京攻略が昭和12年であり、父の部隊が南京城に入ったのは大分後のことと聞いている。
父が二十歳になったのは昭和15年であり、少し調べてみると昭和15年に八路軍(共産軍)の大攻勢があって、その後ゲリラの掃討戦が続いていた頃だから、昭和16,17年頃のことであろうと推測できる。

父も何度かは戦闘を経験したのだろうが、その詳細は一切話したことがない。
良く聞いたのは、父の部隊が南京に到着した際の出来事で、部隊は隊列を組んで整然と行進して入城したのだが、その時一人の中国人が隊列の前を横切りってしまい、その中国人がその場ですぐに取り押さえられて首を撥ねられたのを目にしたという話であった。「中国人をチャンコロと呼んで、日本軍はひどい事をいっぱいしたなあ・・・。」ということも話してくれた。

足の速い父は軽機関銃を受け持たされたが、軽機関銃の担当は戦闘の時は常に部隊の最前面で部隊の進軍を援護射撃しなければならず、重い機関銃を持って先頭を走っては伏せて射撃し、味方が追いついてくるまで頑張って、また走って、伏せて、射撃しての繰り返しは、体力的にキツイし、敵から最も狙われ、狙撃される役割で大変であったこと。

日本軍の軽機関銃はダッダッダッダと射撃の回転速度が遅いが、中国軍はチェコ製の機関銃でタタタタタタと速くて、とても敵わないと思ったこと。

内務班での下士官は全く暴力的で、事あるごとに皮製のスリッパでビンタを食らったが、戦場に来ると態度がまるで変わって、兵を理由無くいたぶる様なことは無くなった、なぜなら「戦場では、恨みを持った味方に戦闘中のドサクサに紛れて背後から撃たれることもあったから。」・・・などである。

なんでも負けず嫌いの父は、幹部候補生試験に合格し、少尉に任官するまでの間に肋膜炎を患って退役することとなるのだが、この時の経緯についてはよく話してくれた。
体調を崩して野戦病院で肋膜炎と診断された父に対し、陸軍の看護婦長さんがこう言ったというのである。「あなたは、母一人子一人なのですね。ここにいなくて良いから、早く故郷に帰りなさい。」と。
この一言で即内地送還が決まったということである。

泣く泣く送還された父は内地の陸軍病院で治療を受けることになるが、父の所属部隊は、その後フィリピン等へ転進し、レイテ島での戦いなどで兵の多くが戦死することになる。
当時の幹部候補生上がりの少尉は消耗品扱いであり、小隊長として戦闘の前面で指揮をとるため、その多くが戦死したという事実がある。
父が繰り返し話したのは「あの婦長さんの情けに命を救われた。陸軍病院の婦長さんにはすごい権限があった。あの婦長さんはどうなったかなあ。」と言うことである。

少尉任官を前にしての内地送還で気落ちし、どの面さげて故郷へ帰るのか・・・と思っていた父を迎えたのは、まだ勝ち戦(と思わされていたとも言えるが)に国民が酔っていた時期でもあり、最前線から帰還した傷病兵に対する周囲の丁重な扱いと歓迎であったそうで、半分は冗談で「若いし、白衣が似合っていたし、あの頃は看護婦さんにもてたなあ・・・。」というのが父の思い出となっていた。

 故郷の樺太へ帰還した父は、営林署に復帰し、その後 王子製紙の社員を父に持ち、仙台市の女学校を卒業後泊居で代用教員をしていた母と結婚することになるのだが、そのあと日を待たずしてロシア軍(赤軍)の樺太侵攻が始るのであった。

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