きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(17)・番外編・カメラ

2010年09月18日 | 思い出探し
このブログには多くの写真を載せていますが、モノクロの私の少年時代の写真については既にネガが散逸してしまっているため、私のアルバムからデジカメで接写して載せています。写真が不鮮明になってしまって申し訳ありません。
モノクロの写真のほとんどは当時父が愛用していたマミヤV6(写真の左側のカメラ)というカメラで撮られたものです。

今回は、連載内容からチョッと離れて、カメラのことについて・・・・。

最近は常にバッグに入れて持ち歩いているポケット型デジカメが私の愛用のカメラである。
子供の時から写真を写すのが好きで、かといって自分で現像したり、トリミングをしたりするほどには熱中していなかったのですが・・・ 初めてカメラをいじったのは小学生の低学年の頃で、父が持っていたMAMIYA6(写真の左側)という完全マニュアル式で蛇腹がついた、6x6版のフィルムを使う古めかしいカメラで、家族の写真や運動会や何かの行事のときに父に借りて良く写真を撮っていました。
 
 私が大学生の時に偶然にも実家で、使われなくなっていたそのカメラを発見し、当時は一眼レフのニコンFがお気に入りだった父から譲り受けましたが、使ったのは風景のモノクロでの撮影に数回だけでした。 
 当時ではもはや骨董品でしたし、バシャンと開く蛇腹が好きだったので、大事に保管し時々手入れはしていましたが、父が亡くなった今では、形見のような気がして処分もできず、相変わらず時々出してはバシャンと蛇腹を開いたりしています。

 最初の一眼レフはコンタックスで、2台目が結婚してから家族写真をとるために買ったオリンパスNEW OM2で、こちらは交換レンズをあれこれ揃えたり、オートワインダーをつけたりと大分お金を掛けました(写真の右側)。このカメラも今では全く手にすることがなくなり、勿体無いないと思いつつお蔵入りの状態です。

 今はデジカメの時代でフィルム代を気にすることなくバシャバシャ手軽に取れて、軽量小型でとても便利で、後でパソコンで遊べるのも良いですね。
さすがに携帯電話で写真を撮る気にはなれませんので、いつも携帯電話とデジカメを持ち歩いています。今使っているのは、富士フィルムのFinePixA800で、値段が安くて、ずんぐりした形状が手に馴染んで、気に入っています。

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思い出探し(16)・青空鼓笛隊

2010年09月18日 | 思い出探し
写真;
青空鼓笛隊の出動、気仙沼市「みなと祭り」にて、1960年(昭和35年)頃

 当時住んでいた気仙沼の新町、福美町周辺の子供達を隊員とした鼓笛隊が活躍していた。
私も4年生から入ったと思うが、毎週末の夜に近所の倉庫の空きスペースや消防団の2階などを使わしてもらって練習をしていた。指導していたのは若い男の人で、熱心に指導に当たっていたが、町内会の皆があれこれ面倒をみてくれていた。

 大太鼓、小太鼓、鉄琴、に縦笛で30~40人の編成だったと記憶しているが、夏の港祭りのパレードでは花形で、暑い中を一生懸命演奏して回った。行進の途中に設けられた休憩所では、ジュースやお菓子が配られたが、とにかく暑くて、汗だくだくだった記憶がある。倉庫内での練習は夏は暑く、冬は寒くて大変だったが、結構まじめに練習に通っていたと思う。

 何時だったか練習の途中に、気仙沼高校の出身で、大洋ホエールズ(現ベイスターズ)に属し、史上最年少(20歳)で対大阪タイガース(現阪神タイガース)戦において完全試合を達成したばかりの島田源太郎投手が訪問してくれて、いろいろな話をしてくれたが、まさに別世界のスターを目の当たりにして興奮した思い出がある。
私が5年生の時と思うので1960年ごろかな。

思い出探し(15)・町内そろって海水浴

2010年09月18日 | 思い出探し


写真;
私10歳 昭和34年撮影。海水浴でのパン食い競争のスナップで近所の人が撮った評判の写真。
手前から2人目のこっち向きでパンに食いつこうとしているのが私。
今時、海水浴に町内で行くこともないだろうし、まして海水浴場でパン食い競争なんてねえ・・・。
子供たちも沢山いたし、思えば良い時代だった。

 引越しした翌年(昭和34年)の夏に、気仙沼の湾口にある大島の小田の浜海水浴場に町内そろって海水浴に出かけた。今では少なくなったが、娯楽の少ない当時は町内そろっての海水浴やハイキング、あるいは町内対抗の運動会などの行事があり、子供だけでなく大人達も子供達と一緒に楽しんでいた。
ほんとに良い時代だった。

 

仕事の忙しかった父もこの日は参加してくれた。
気仙沼に来てから父の病後の回復も順調で胸部手術の後の傷もやっとふさがった頃だと思う。近所の鍼灸師に在宅でお灸を毎日据えてもらっていたのが効いたようだ。
肋骨を数本、片肺を全部摘出した体は人が見たらぎょっとするような傷が痛々しかった。
父は夏の暑いときでも裸になることは無かった。

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思い出探し(14)・北野神社の相撲大会

2010年09月18日 | 思い出探し
写真は仙台にいるころ肺結核で療養中の父を見舞って訪れた国立病院の芝生の上で相撲を取って遊ぶ私と兄。

 気仙沼の家の近くに北野神社があり、夏祭りには夜店が沢山出たり、境内で旅芝居の興行が催されたりしてビックリするほどの賑わいだった。
ここの境内には土を盛ったチャンとした土俵が常時設けられていて、毎年、周辺の町内に住む子供達が出場する奉納・子供相撲大会が催されていた。
「港祭り」でも港に設けられた特設の土俵で、大人の相撲大会も盛大に催されたが、漁師町の気風が相撲人気の元にあるかも知れないが、思えば当時の相撲人気は全国的なものだっのだろう。

 気仙沼に移った翌年に私たち兄弟はこの相撲大会に出場した。
例によって、子供たちが引っ込みじあんにならないようにと思っている母に無理やり引っ張り出されたのである。
兄弟で良く相撲をとってはいたものの、大勢の見物客の前での裸にマワシ一つでの真剣勝負なんて初めてで、土俵の裏でマワシを締めてもらっている時からすごい緊張状態、興奮状態にあったのを思い出す。

 いざ、試合が始ると無我夢中で、大きな体の子供達もいて、きわどい勝負も多くあったが、すばしっこさが幸いしてか、負けず嫌いのせいか、はたまた母の応援のせいか、私は4年生の部で優勝してしまった。 続けて、これに発奮したのか、兄も6年生の部で優勝してしまった。

 子供達の快挙に母の喜びようは並大抵ではなくて、二個の優勝カップと醤油2升とか座布団とかお菓子とかの沢山の賞品を持って家に帰るなり、出張先の父にさっそく電話で知らせたのでした。
 仕事から戻った父にはたいそう誉められましたが、うれしかったのは私たちより両親の方で、父の晩酌もいつもよりすすんでいたようでした。

 気仙沼に引っ越してきて1年、「仙台から転校してきた、おとなしいお坊ちゃん」という周囲の見方もこれを機会に変わって、悪童達との付き合いもグンと増えたのでした。
昭和34年の春のことです。

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