きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(13)1958~1965・気仙沼

2010年09月17日 | 思い出探し
写真:
気仙沼港の「お神明様(オシメサンと言っていたが)」を望む(昭和35年頃)。
前方の小山の上の神社と、海にせり出した灯明台と朱色の回廊があったが、そこは私の好きな場所で、子供の時だけでなく大人になってからも気仙沼に来た時には必ず訪れる場所になっている。

 私の気仙沼での生活は昭和33年(1958)8月から昭和40年(1965)3月までである。
小学校3年生の夏休みから中学校卒業までであり、途中丸一年間は腰椎カリエスの治療のため仙台にある国立療養所西多賀ベッドスクール(当時、西多賀中学校の分校)で過ごすのであるが、その期間も含めて私の人格形成に最も影響した時期であり、「少年時代」の思い出が一杯詰まった宝箱である。

 初めて降り立った気仙沼駅のホームで嗅いで感動した「磯の香り」が、魚網や牡蠣殻や魚の「生臭さ」であることを知るのはすぐのことで、その「臭さ」も鼻につかなくなった頃には、私は気仙沼の子になっていて、友達と山や川や海で遊びほうけていた。

 仙台にも山や川や海が近くにあったのだが、気仙沼はそれらがギュッと圧縮された狭いエリアにあるため、子供たちが自然に触れる機会は格段に多かった。

 仙台弁も特徴的だが、気仙沼弁もまた特徴があり、面白い方言が沢山あった。両親からは、樺太では標準語が話されていたと聞いたし、確かに仙台にいるときも両親の話す言葉だけでなく私たちの言葉も標準語で、仙台弁丸出しの友達からも不思議がられたのだが、そんな私でも「・・・だっちゃ」とかの仙台弁も話していたと思うのだが・・・気仙沼の友達からは「都会から来たお坊ちゃん」風に見られていた・・・ということを最近、同窓会で昔の同級生からからかい半分に言われてしまった。

 当時の気仙沼は「東洋一の魚市場」といわれた大きな魚市場が既にあり、マグロ、鯨などの遠洋漁業の基地であり、丸に「は」の字の大洋漁業の缶詰工場はじめ大小の水産物加工業あり、漁業関係の用具販売の商店あり、漁業・水産関連の人たちが利用したであろう料亭やカフェ、飲み屋も多くあり、映画館も2館あり(現在は一館も残っていない)、両国と男山という2軒の酒造会社あり、船員さん達が泊まる旅館も多くあり、安波山登山、町内対抗運動会、町内での海水浴、港祭り、花火大会、相撲大会、など市民全体が楽しめる年中行事が多くあり、網元や遠洋漁業の船員さんなどの漁業関係者や水産加工、それに関連する流通や商業に従事する人達が裕福なせいか、はたまた一般的に港町特有のものなのかは分からないが、東北の片田舎にしては、暮らす人々の生活は派手で明るかったように思う。

 日野照子、千 昌夫、生島ヒロシ、村上弘明、マギー審司・・・など気仙沼出身の芸能人が結構いるのも、そんな土地柄のせいなのかも知れない。
 いずれにしても、前に暮らしていた仙台の東八番町界隈の寺町の風情とは全く趣を異にした世界がそこにはあった。

気仙沼での生活については、これからも思い出し出し書いてみたいと思う。

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思い出探し(12)・洞爺丸海難事故の夜

2010年09月17日 | 思い出探し
1954年9月26日22時43分、青森と函館を結ぶ青函連絡船・洞爺丸(3800トン)が台風によって沈没し、1200名ほどの乗客・乗員が亡くなりました。
この海難事故は松本清張作で映画やTVドラマにもなった「飢餓海峡」でも有名です。


 当時私は4歳で、仙台に住んでいましたが、当日は脳卒中で倒れた母方の祖父の見舞いのため母と兄の3人で秋田市(祖父は王子製紙の社員で、当時は社宅に住んでいました)に来ていました。

 当日は台風15号が四国から関西を横断して日本海に抜け、北海道へ向かっていました。秋田市も夕方から夜半にかけてものすごい嵐となり、建物は大きく揺れるし、風がふくたびに風圧で雨戸が内側に反り返ってくるのを皆で必死になって押し戻したり、停電の暗闇のなかで瓦が飛んできて外壁にドンドンぶつかってきたりで、けして頑丈な造りとはいえない木造2階建ての家が今にも吹き飛ばされて、死んでしまうのではないかと真に思ったものでした。

 翌日は台風一過の快晴で、道には飛ばされてきた雨戸や瓦やもろもろの残骸が散乱しており、側の田んぼの稲穂もすっかり倒れてしまっていましたが、そんな中でまさに「生きてて良かった・・・!!!」という感じで、昨夜の恐怖も忘れたように、いとこ達と楽しく遊んだのを覚えています。
大分後になって、この台風15号で青函連絡船の「洞爺丸」が沈んだのだということを聞かされました。


 還暦を迎えた私が今でもこのことを鮮明に覚えているのは、この夜の恐ろしさのためかも知れません・・・けっして怖がりな人間とは思ってない私が、台風、特にゴー、ビューといった風音に今でも結構神経質になるのは、その経験がトラウマとなっているからかもしれません。

 この時洞爺丸以外にも北見丸(70名死亡)、日高丸(56名死亡)、十勝丸(57名死亡)の3隻の貨物船が沈没しています。

思い出探し(11)・父の発病

2010年09月17日 | 思い出探し
私たちが仙台市に住んで間もなく父が肺結核を発病した。
父が34歳、母が29歳、私が5歳の頃であったと記憶する。
写真はその直前頃のもので、私が甘えている父はとても痩せている。

群馬県沼田市の北越製紙㈱林業部の出張所から宮城県仙台市の出張所長として赴任して間もなくで、2~3人の部下を使ってバリバリ仕事をしていた時であったが、肋膜炎で戦地から樺太に送還されてから、樺太の営林署勤務、赤軍の占領と樺太からの引揚げ、取りあえず落ち着いた青森県浅虫での冬の生活、民間会社への入社と続いた様々な疲れが一因であろう。

微熱が続き、コンコンと空咳をし、体がだるく、痰が出るようになって、昼間家で寝ている父をこの時始めて見た。
肺結核と判明し、家から離れた専門の個人経営の診療所に入院したが、経過は思わしくなく、しばらく後に仙台市内の国立病院に入院となった。

2度の手術と3年間ほどの闘病生活が続いたが、このころが我が家のもっとも厳しい時期だったと思うが、私自身はそんなことが分かるはずもなく、また母も子供たちに明るく接して頑張っていたのである。

当時の肺結核は国民病であり、戦中戦後の衛生・栄養面の悪化もあり、多くの人が罹患したわけである。結核は隔離治療されるのだが、それでも家族に結核の人がいるとその家族も罹患する確率が高く、多くの子供が結核の一つであるカリエスに罹患した。
父の肺結核は中学生の時に気仙沼で私が腰椎カリエスを発病する原因ともなるのだが、そんなことになるとは幼い私は夢にも思わなかったのである。

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思い出探し(10)・トムとポチ

2010年09月17日 | 思い出探し
家の飼い犬の名前はトム、近所のお寺の門前に店を構えていた花屋さんの飼い犬の名前がポチ、といっても昭和30年頃のことで、私が物心ついた頃にはトムと一緒に暮らして一緒に遊んでいた。なぜ、あまり一般的ではない「トム」という名をつけたのかは記憶にない。

2匹とも雑種の中型犬で、飼い犬の証拠に鑑札がついた首輪はしていたが、ヒモ付きで連れ歩くことはほとんどなくて、いつも放し飼いが多かった。2匹はとても仲良しで、ポチは私たち一家にも慣れていて、私たちが出かけると何処までも付いて来て困ったこともある。

当時は野犬が多くて、保健所の野犬の捕獲なども日常的に行われていて、捕まえられて車に乗せられて保健所に連れていかれる野良犬たちが可愛そうだったのを記憶している。私も幼稚園の時に野犬にくるぶしのところを噛まれたことがあり、幸い狂犬病や破傷風にはならなかったが・・・。

私が小学校に上がる前後にトムが死んだ。
お寺の境内で苦しんでいるところを近所の人が見つけて知らせてくれたが、家に運び込んだ時にはもう虫の息で、家の皆に見守られながら息を引き取った。野犬狩り用の毒入りダンゴを食べたのではないか・・・ということだったが、とても悲しかった。
お寺の墓地の片隅に埋葬して、お坊さんにお経を上げてもらった。

当時のGHQの政策の1つだったのか、公衆衛生に関る改善策がいろいろと取られた。どの家でもノミやシラミがいて、また蚊も多かったしネズミも毎晩天井裏で運動会をしていた時代である。年に何回かは畳を上げてDDTやBHCなどの殺虫剤の粉末を撒いていたし、時には窓を閉め切った家の中に、入り口から白い煙様の殺虫剤を、ドドドドという感じで吹き込んで丸ごと殺虫することが行われていたが、どの家も次から次にやられていたので、おそらく公的機関が行っていたのであろう。テレビでときどき見る終戦直後のように頭から直接殺虫剤を掛けられるということは無かったが・・・。
DDTやBHCなどの殺虫剤は人体に影響があるため今は使われていないが、いま思えばなにか人体実験されていたようで、いい感じはしないのである。

 夏場の蚊帳も必需品で、なにしろ近所にお寺が沢山あったせいで蚊がものすごく多かった。蚊帳への出入りの仕方を何度も母に教わったが、それでも入ってきた1匹の蚊に何度も安眠を妨げられた。ネズミはネズミ捕りで面白いように取れた。毎晩捕れたが、天井裏の巣からピンク色をした子ネズミを沢山捕ったこともある。

いずれにしてもトムが死んだ後しばらく何も飼わなかったが、もともと動物好きの父母のせいか、ずいぶん後になってからも猫や犬を何匹か飼ったと記憶している。


昭和30年前後の仙台市での話である。