写真:
気仙沼港の「お神明様(オシメサンと言っていたが)」を望む(昭和35年頃)。
前方の小山の上の神社と、海にせり出した灯明台と朱色の回廊があったが、そこは私の好きな場所で、子供の時だけでなく大人になってからも気仙沼に来た時には必ず訪れる場所になっている。
私の気仙沼での生活は昭和33年(1958)8月から昭和40年(1965)3月までである。
小学校3年生の夏休みから中学校卒業までであり、途中丸一年間は腰椎カリエスの治療のため仙台にある国立療養所西多賀ベッドスクール(当時、西多賀中学校の分校)で過ごすのであるが、その期間も含めて私の人格形成に最も影響した時期であり、「少年時代」の思い出が一杯詰まった宝箱である。
初めて降り立った気仙沼駅のホームで嗅いで感動した「磯の香り」が、魚網や牡蠣殻や魚の「生臭さ」であることを知るのはすぐのことで、その「臭さ」も鼻につかなくなった頃には、私は気仙沼の子になっていて、友達と山や川や海で遊びほうけていた。
仙台にも山や川や海が近くにあったのだが、気仙沼はそれらがギュッと圧縮された狭いエリアにあるため、子供たちが自然に触れる機会は格段に多かった。
仙台弁も特徴的だが、気仙沼弁もまた特徴があり、面白い方言が沢山あった。両親からは、樺太では標準語が話されていたと聞いたし、確かに仙台にいるときも両親の話す言葉だけでなく私たちの言葉も標準語で、仙台弁丸出しの友達からも不思議がられたのだが、そんな私でも「・・・だっちゃ」とかの仙台弁も話していたと思うのだが・・・気仙沼の友達からは「都会から来たお坊ちゃん」風に見られていた・・・ということを最近、同窓会で昔の同級生からからかい半分に言われてしまった。
当時の気仙沼は「東洋一の魚市場」といわれた大きな魚市場が既にあり、マグロ、鯨などの遠洋漁業の基地であり、丸に「は」の字の大洋漁業の缶詰工場はじめ大小の水産物加工業あり、漁業関係の用具販売の商店あり、漁業・水産関連の人たちが利用したであろう料亭やカフェ、飲み屋も多くあり、映画館も2館あり(現在は一館も残っていない)、両国と男山という2軒の酒造会社あり、船員さん達が泊まる旅館も多くあり、安波山登山、町内対抗運動会、町内での海水浴、港祭り、花火大会、相撲大会、など市民全体が楽しめる年中行事が多くあり、網元や遠洋漁業の船員さんなどの漁業関係者や水産加工、それに関連する流通や商業に従事する人達が裕福なせいか、はたまた一般的に港町特有のものなのかは分からないが、東北の片田舎にしては、暮らす人々の生活は派手で明るかったように思う。
日野照子、千 昌夫、生島ヒロシ、村上弘明、マギー審司・・・など気仙沼出身の芸能人が結構いるのも、そんな土地柄のせいなのかも知れない。
いずれにしても、前に暮らしていた仙台の東八番町界隈の寺町の風情とは全く趣を異にした世界がそこにはあった。
気仙沼での生活については、これからも思い出し出し書いてみたいと思う。
<鍼灸マッサージサロン・セラピット>
気仙沼港の「お神明様(オシメサンと言っていたが)」を望む(昭和35年頃)。
前方の小山の上の神社と、海にせり出した灯明台と朱色の回廊があったが、そこは私の好きな場所で、子供の時だけでなく大人になってからも気仙沼に来た時には必ず訪れる場所になっている。
私の気仙沼での生活は昭和33年(1958)8月から昭和40年(1965)3月までである。
小学校3年生の夏休みから中学校卒業までであり、途中丸一年間は腰椎カリエスの治療のため仙台にある国立療養所西多賀ベッドスクール(当時、西多賀中学校の分校)で過ごすのであるが、その期間も含めて私の人格形成に最も影響した時期であり、「少年時代」の思い出が一杯詰まった宝箱である。
初めて降り立った気仙沼駅のホームで嗅いで感動した「磯の香り」が、魚網や牡蠣殻や魚の「生臭さ」であることを知るのはすぐのことで、その「臭さ」も鼻につかなくなった頃には、私は気仙沼の子になっていて、友達と山や川や海で遊びほうけていた。
仙台にも山や川や海が近くにあったのだが、気仙沼はそれらがギュッと圧縮された狭いエリアにあるため、子供たちが自然に触れる機会は格段に多かった。
仙台弁も特徴的だが、気仙沼弁もまた特徴があり、面白い方言が沢山あった。両親からは、樺太では標準語が話されていたと聞いたし、確かに仙台にいるときも両親の話す言葉だけでなく私たちの言葉も標準語で、仙台弁丸出しの友達からも不思議がられたのだが、そんな私でも「・・・だっちゃ」とかの仙台弁も話していたと思うのだが・・・気仙沼の友達からは「都会から来たお坊ちゃん」風に見られていた・・・ということを最近、同窓会で昔の同級生からからかい半分に言われてしまった。
当時の気仙沼は「東洋一の魚市場」といわれた大きな魚市場が既にあり、マグロ、鯨などの遠洋漁業の基地であり、丸に「は」の字の大洋漁業の缶詰工場はじめ大小の水産物加工業あり、漁業関係の用具販売の商店あり、漁業・水産関連の人たちが利用したであろう料亭やカフェ、飲み屋も多くあり、映画館も2館あり(現在は一館も残っていない)、両国と男山という2軒の酒造会社あり、船員さん達が泊まる旅館も多くあり、安波山登山、町内対抗運動会、町内での海水浴、港祭り、花火大会、相撲大会、など市民全体が楽しめる年中行事が多くあり、網元や遠洋漁業の船員さんなどの漁業関係者や水産加工、それに関連する流通や商業に従事する人達が裕福なせいか、はたまた一般的に港町特有のものなのかは分からないが、東北の片田舎にしては、暮らす人々の生活は派手で明るかったように思う。
日野照子、千 昌夫、生島ヒロシ、村上弘明、マギー審司・・・など気仙沼出身の芸能人が結構いるのも、そんな土地柄のせいなのかも知れない。
いずれにしても、前に暮らしていた仙台の東八番町界隈の寺町の風情とは全く趣を異にした世界がそこにはあった。
気仙沼での生活については、これからも思い出し出し書いてみたいと思う。
<鍼灸マッサージサロン・セラピット>