きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(28)・気仙沼の竹スキー

2010年09月24日 | 思い出探し
チョット年代が遡るが、急に思い出したので、竹スキーのことについて書いてみます。

少年期を過ごした気仙沼の冬の思い出は、田んぼで滑ったスケートと山やちょっとした坂道で遊んだ竹スキーです。特に太平洋に面して北に位置する割には雪が少ない気仙沼では、10~20cmの積雪やそれが押し固められた道路に竹スキーが最適で、よく遊んだのを覚えています。

竹スキーなるものは全国にあるようですが、形態はそれぞれ特徴があって異なるようです。
気仙沼のはちょっと独特で、なかなか良くできていました。今は道路でそんなもので遊んでいたら危険で、禁止されているのでしょうが、まだ車も少ない、馬車で荷物を運んでいたりもした当時は全く問題ではありませんでした。

そもそも気仙沼は漁港で、当時は「東洋一の魚市場」などといわれていたものでした(今でもそう言っているかは分からないが)。
サンマの水揚げもたしか日本一ではなかったかと思います。当然、魚を運搬する入れ物が必要なわけですが、当時の主流は竹篭だったのです。ということで街中には何件かの竹細工屋(竹篭以外にいろいろなものを作っていた)があり、子供達は雪が降ると小銭を手に竹細工屋に出かけていって、その場で竹スキーを作ってもらっていました。「竹スキーください」というと、おじさんたちは「はいよ」と、仕事の手を休めて、すぐにサッサッと作ってくれたものでしたが、その作っているのを眺めるのがまた楽しみでした。

 作り方
1、節の間隔が足の大きさ(長さ)の倍くらいで4~5cm径の青竹を選ぶ。青竹でないと作れません。
2、節の手前と次の節の手前の二箇所を鋸で切断し、つまり片側に節があり、他方に節のない竹筒を作り、これを鉈で縦に二つに割る。
3、節の無い側から1.5~2cm幅となるように、反対側の節から6~10cmのところまで短冊状に斬り割りを入れる。
4、節に近い斬り割りの端の部分を火であぶり(当時は作業場の中のストーブを用いていた)、適当にあぶったら、両端をやけどをしないように雑巾で持ったまま、斬り割りの端の部分で二つに曲げ(これで短冊上の部分が平らになる)そのままの形を保持したまま水にジューッとつけて、冷ます。
5、充分に冷めたら、出来上がり。つま先側に節がついてそり上がった部分と、足で踏まれる平らな部分がついた竹スキーの出来上がり。

 坂の上に2個のスキーを平行に並べ、長靴を履いた片足を載せ、次に慎重に他の足を別のスキーの上に載せたら、すり足で前に進んで、後は滑り降りるに任せます。ショートスキーよりさらに短い、マイクロスキーで、長靴とスキーは固定されていないので、慣れるまでちょっと大変ですが、滑りながらすり足で方向をかえることもできました。
子供達はみな上手でした。
昭和30年代の話です。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(27)・チキンラーメンの味

2010年09月24日 | 思い出探し
西多賀ベッドスクールは仙台市の郊外にあり、病気療養をしながら中学校の授業が受けられる国立の療養所である。

私が入院していた昭和38年当時は肺結核と脊椎カリエスの患者さん(子供達)が多くて、筋ジストロフィーや骨髄炎の患者さんも少数在学していた。
結核が国民病であった時代である。
現在は肺結核やカリエスは少数となり、主体は筋ジストロフィーの生徒に移行しているようだ。

当時のクラスの仲間は皆仲が良かった。
それぞれ親元を離れて、長期療養している身であれば、その辛さや寂しさ、健常者に対するコンプレックスなどを共有していて、不自由な病院生活の中でも、協力し合いながら闘病生活を送っていた。
歩ける子は歩けない子の面倒をよく見たし、特に女の子達はみんな優しくて面倒見が良かった。
所長が父親、婦長さんが母親のような存在で、看護婦さんの中には学校出たての準看護婦さんもいて、自分達と年齢もそんなには変わらず、お姉さんみたいな感じであった。
子供達はけんかをしたり、遊んだり、いたずらしたり、まるで病院全体がが1つの家族のような生活を送っていた。

病院の食事は何処でもそうであるが、通常よりはかなり早い時間に食べることになっている。
特に夕食の時間は早くて、5時ごろからであったろうか。消灯は8時か9時だったと思うが、当然ながらすぐに寝る子はいなくて、消灯後はラジオを聞いたり、病室の子どうしで話をしたり、他の部屋に出かけたり、廊下で鬼ごっこしている子もいたりで、巡回してくる看護婦さんに見つかっては怒られていた。

当然、早く食べた夕飯が寝るまでもつ訳は無い。
お腹が減ってきて、ごそごそ、がさがささせながらベッドの中でお菓子を食べたりしていたが、当時は「日清のチキンラーメン」が発売されてまもなくで、このインスタントラーメンには大分お世話になった。

入院患者のシーツ、パジャマ、衣服などを消毒するために、病棟のリネン室には蒸気や熱湯がいつも準備されていて、お湯を注ぐだけで食べられるインスタントラーメンは恰好の夜食となった。
僕のような寝たきりの子の分は、歩ける子が看護婦さんの目を盗んでは作ってくれた。
丼なんてものは持っていなかった僕は、お絞りを入れておくプラスチック製の丸い透明な容器をもっぱら利用した。
それにはチキンラーメンが丸ごと1つは入らず、いつももがしゃがしゃと半割りにして、半分だけ食べていた。

忍者さながらに、廊下の暗闇にまぎれて、すばやくリネン室からもどってくる友達の手の内の美味しそうなラーメンも、残念ながらプラスチックの容器では、お湯はすぐに冷めてしまって、結果、いつもモソモソしたラーメンを食べるはめになったのだが、薄味の病院食になれた舌には刺激的なしょっぱさのモソモソ・チキンラーメンはいつも物凄く美味しかった。

現在のインスタント・ラーメンは、あの、ただただしょっぱい醤油味のチキンラーメンの味とは雲泥の差であるが、食べるとあの時のあの懐かしい味をいつも思い出してしまう。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>