きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(6)・本土最後の地上戦

2013年08月15日 | 思い出探し
写真;父の遺品の樺太開拓四十年史より。終戦前の泊居町

 以前読んだ福井晴敏の小説「真夏のオリオン」(映画化された)の中に、米駆逐艦と日本潜水艦が最後の戦闘をしたのが実は8月16日で(戦争は15日で終結していた。)、それを知った両艦が戦闘をやめて、互いに敬意を表しながら別れる(祖国に戻る)シーンがあるが、これはチョッと話が美しすぎる。
情報伝達が混乱していた当時の戦場では、終戦を知らずに戦闘を継続して亡くなった兵士も多かったであろう。

毎年訪れる8月15日は決して「終戦の日」ではない。

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連赤軍の日本国(満州や樺太など)への侵略・占領作戦が開始された。
8月15日の終戦の「玉音放送」後も戦闘は続いており、樺太全島のソ連軍による占領により戦闘が終了したのは8月28日ということである。つまり、終戦後2週間近く戦闘が続いていたことになる。
この戦闘が「第二次世界大戦における、日本本土最後の地上戦」であったと言われている。

 この混乱の中で多くの悲劇が生まれ、あるものは後世に伝えられ、あるものは世に知られることなく埋もれてしまった。
沖縄戦については映画やドラマや小説で後世に伝えられていることは多いと思うが、それに比較して樺太に関してはあまりにも情報が少ないのでは無いだろうか。
真岡郵便電信局で女子交換手9人が自決した悲劇(映画「樺太1945年夏、氷雪の門」樺太終戦記録などがある)、朝鮮人の殺害事件や暴動事件、引揚げ船3隻がソ連潜水艦に撃沈され多くの人が無くなった話など、一部映画化されたものはあるものの、戦闘の状況や当時樺太在住40万人の日本人に起こった様々な出来事はあまり知られていない。

 私の結婚したばかりの父母が新居を構えていた泊居町は間宮海峡に面する樺太西海岸に位置し、当時の人口は12,000人程であり、製紙工場の他、缶詰工場、ビール工場などがあったようだ。赤軍の侵攻後、近隣の町でも朝鮮人労働者の暴動があって警察官や役人などが殺害されたとか、スパイ容疑で連行された朝鮮人が警察署内で射殺されたとか、女性が暴行をうけたとか、混乱の中でいろいろなことがあったようだ。
 当時、樺太に住んでいた一般の日本人の少なからずがピストルなどで準武装していたそうであるから、混乱の中で悲惨な事件が多く起こったと推測される。

 営林署勤務の父も役人の端くれであり、近所の警察官が殺害されたりする中で、身の危険を相当感じたに違いないが、幸いにも危害を加えられることも無く、逆に赤軍が町に入ってきたときには、知り合いの朝鮮人がかくまってくれたりしたそうである。
「自分も若かったから、役人風を吹かせるようなことも無く、近所の朝鮮人たち(製紙工場などで多くの労働者が働いていた)とピンポンをして遊んだりして、分け隔てなく付き合っていたのが幸いしたのだろう。」と後年父はよく話していたが、これも子供達に聞かせるために多少は教訓的に脚色されているようで、実際は生きるか死ぬかの状況下での苦労は想像するに難くない。

 赤軍が町に入って来た時には、どうなる事かと思ったが、腕時計を取られたりの掠奪行為はあったが、危害を加えられるようなことは無かったという。
やってきた赤軍兵士は皆若くて、むしろ彼らの方がビクビクしていたそうである。

 1949年6月に国家行政組織法の施行を以って泊居町は消滅するのであるが、その時すでに父母や祖父母などの一族は樺太を引き揚げており、それぞれの落ち着き先での新たな生活が始まっていたのだった。

ちなみに、この年、昭和24年12月に群馬県沼田市で私は生まれたのです。

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思い出探し(43)・夜汽車とブドウ酒

2010年10月12日 | 思い出探し
・・・昭和41年頃・・・

高校2年生の春だったと思う。
弘前市で開催された合唱コンクール(確か朝日新聞主催)の東北地方大会に出場した。
仙台から弘前まで夜行列車で行って、到着した日にコンクールに出て、その日のうちにまた列車で仙台に戻ったと記憶している。

鈍行(今の普通列車)の夜行列車で何時間かかったか定かでないが、兎に角長い長い夜を列車で過ごした。
最初は元気一杯で騒いでいた合唱部の仲間も次第に疲れてきて、一向に時間も距離もはかどらなくて、元気がなくなってきた・・・とそんな時、一人の先輩がぶどう酒のビンを取り出してきて・・・当時はまだ今のようにワインなどは流行っていなくて、酒は今で言うポートワイン(赤玉ポートワイン)。
あのやたら甘くて、その割にはアルコール度数が高くて、主に女性が食膳に少し飲むといったものだったが、当時我々一高生は「ぶどう液」と呼んで、何かの集まりの時には飲んでいた。

今思えば、当時は学生に(大学生だけでなく高校生にも)寛大な時代であって、酒なども大っぴらでは無く、なにかの行事で学生が集まった時に悪戯心半分で隠れて飲んでいる分には、大人たちも余りとやかく言わなかった。
酒の上での悪戯や大立ち回りをした先輩達の話が語り次がれていたが、そんな話が長年語り継がれるくらいに、酒の上でのトラブルは実際には無かった訳である。
なにしろ「自重献身」が一高の校訓なのだから・・・!

甘い酒と列車の揺れに身を任せて、床に敷いた新聞紙の上で眠りに着いたと思ったらもう弘前に到着していた。弘前城址の近くに会場があり、桜が満開だったのが印象に残っている。残念ながらというか、当然というか、コンクールの結果は散々だったと記憶している。
成績などにあまり頓着しないのが一高生で、皆での旅の楽しい思い出だけが残っている。

3年生になったある日、仙台駅の近くにある麒麟ビール工場の創設記念か何かのお祭りがあり、ジュースなどが飲めるという情報がクラスに広がって、結果放課後にクラス一同そろって工場見学(見物、冷やかし?)に出かけた。

途中、ビールを注文したら出してくれるかどうか・・・?ということが話題になり、「出してくれるだろう。」「いや、高校生に出してくれるわけが無い」などワイワイ、がやがやの道中だったが、工場を見学したあとの休憩所でウエイトレスのお姉さんに「何にしますか?」と聞かれた最初の奴が勇気をふるって、周りの客の目を気にせずに大声で「ビールくださ~い!」と言ったら、さっとビールが出されて・・・おかげで学生服姿での酒盛りが始ってしまったのは、今考えてもおかしくて楽しい思い出である。

そういえば、気仙沼の母がたまに私の下宿に様子を見に来たときなどにも・・・帰る途中に仙台駅近くのレストランで一緒に食事をするのが常だったのだが・・・母の方から「ビール飲もうか?」などと言い出して、一緒に飲んでいたので、「飲酒は二十歳になってから!」などと杓子定規に扱われる現在からしたら親たちも随分お酒には寛容な時代であったし、また当時の高校生は現在よりは大人に見られ、また大人の扱いを受けていたように思う。
当時でもまだ旧制高校のイメージを引きずっていたせいかも知れない。

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思い出探し(42)・ビートルズがやってきた

2010年10月10日 | 思い出探し
仮装大会でのベトナム戦争反対のアピール。昭和41年頃。


1959年に始ったベトナム戦争は泥沼化し、昭和40年代初頭の日本でも反戦運動が活発化していた。

仙台一高の学校行事は生徒の自主運営に任されており、文化祭、運動会、二高との野球の定期戦、強歩大会、もちろん一女高との合同演奏会なども全て学生の手で運営されていた。

当然、各行事へは高校生の視点から見た世相が反映されることになり、文化祭ともなると弁論部や新聞部など文科系クラブを中心に安保やベトナム戦争についての討論会などが開かれた。

一高名物は「野次」であり、弁論者の発言に間髪をいれずウイットに富んだ痛烈な野次をとばすのだが、その巧みさは今の国会でなされるつまらない誹謗や妨害に近い野卑な野次に較べて格段優れていたと思う。

先輩の文芸・美術評論家の針生一郎を囲んでの「ベトナム戦争」についての講演会が行われたりもしたし、運動会の仮装大会などでもベトナム反戦をテーマにしたものが出たりしたが、同時にヒョッコリひょうたん島や伊賀の影丸なども出てきたり、「ミス一高コンテスト」などというのもあって、結構女子高生達や近所のおばさんたちを喜ばせていたのも、硬軟合わせ持つ一高生らしい卒のなさであった。

昭和41年6月にビートルズが来日した。
当時、男声合唱にのめりこんでいた私は馴染めなかったが、すぐにマッシュルームカットに何故か知らないが戦闘服の数人のグループが私の学年にも登場し、エレキギターを肩に校内を闊歩し始めた。

なにしろ、10年近く後に吉田拓郎が作り、ムッシュかまやつが歌った「ああ、我が良き友よ」に出てくる「下駄を鳴らして奴が来る、腰に手ぬぐいぶら提げて、学生服に沁み込んだ、男の臭いがやってくる・・・」学生や、井上ひさしの「青葉繁れる」に出てくるバンカラ学生の世界に突如現れたビートルズもどきで、半分奇人変人扱いで、学生の多くは見てみぬふりだったが、このビートルズもどきのリーダー格の生徒が顔は不細工だが、学年でトップクラスの成績優秀なやつで、私の仙台での小学校2年生の時の同級生だったのも不思議な縁であり、記憶に残っている。

文化祭(一高祭)の最後には校庭でファイヤーストームが行われるのが慣例で、文化祭で使った角材やベニヤ板を校庭の真ん中に積み上げて、盛大な焚き火を燃やし、周りに輪になって校歌や応援歌を大声で歌った。

今ではこんな焚き火を街中でするのはご法度で、消防署から中止命令を受けそうだが・・・良い時代だった。
歌い踊り汗ダクダクになった最後には、ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」が歌われたが、いかにも青春時代という感じで懐かしい。

我々の世代にはこの「若者たち」の歌と、少し後に創られた映画の「若者たち」・・・山本圭、佐藤オリエ、田中邦衛も若かったなあ・・・がいつまでも心に残る名作なのです。私だけかな?

ついでに、「・・ハッパフミフミ・・」の大橋巨泉の「11PM」が仙台で放送開始になったのが入学した年(確か?)で、皆がなぜかワクワクして、クラス中で話題になっていたのだが、TVも無い私はなんのことか分からず、全く話に乗れなかったのでした。

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思い出探し(41)私の事件簿

2010年10月09日 | 思い出探し
最近、世界のあちこちで大災害(人災もあるが)が起きていて、アイスランドでは火山も噴火して、天候も不順で、こないだまで温暖化を問題にしていたのに、火山に絡んで寒冷化、飢饉、氷河期の到来なども言われて、日本も猛暑・酷暑が続いたり、なにがなんだか分からない状況になっています。
日本でもあちこちでちょこちょこと大雨、土砂崩れ、地震などが起きていて何か気になります。

 地震、雷、火事、おやじといいますが、私もやっぱり地震が怖くて、一番恐ろしかったのは仙台市の西多賀ベッドスクールのベッドに寝たきりの状況で経験した新潟地震だが、チリ地震による津波も50年前の小学生の時に被災地の気仙沼で経験している。
一生のうちに2度の大地震に見舞われたチリの人たちには心よりお悔やみ申し上げます。

さて、今回あらためてこれまで私の身の回りで起きた、あるいは関係があって記憶に強く残っている災害や事故について整理してみました。
昨年還暦を迎えた歳にもなると、結構いろいろなことがあったんだな~というのが実感です。

1954年9月26日(私5歳);台風15号による青函連絡船「洞爺丸」の海難事故

秋田市の親戚の家でこの台風を経験しました。
1954年9月26日22時43分、青森と函館を結ぶ青函連絡船・洞爺丸(3800トン)が台風によって沈没し、1200名ほどの乗客・乗員が亡くなりました。

 当時私は5歳で、仙台に住んでいましたが、当日は脳卒中で倒れた祖父の見舞いのため母と兄(7歳)の3人で秋田市新屋(祖父は王子製紙の社員で当時は新屋の社宅に住んでいました)に行っていました。
当日は台風15号が四国から関西を横断して日本海に抜け、北海道へ向かっていました。
秋田市も夕方から夜半にかけてものすごい嵐となり、風がふくたびに雨戸が内側に反り返ってくるのを皆で必死になって押し戻したり、停電の暗闇のなかで瓦が飛んできて外壁にドンドンぶつかってきたりで、けして頑丈な造りとはいえない2階建ての家が吹き飛ばされて、死んでしまうのではないかと真に思ったものでした。翌日は台風一過の快晴で、道には飛ばされてきた雨戸や瓦やもろもろの残骸が散乱しており、そんな中で「生きてて良かった」という感じで、いとこ達と楽しく遊んだのを覚えています。
5歳だった私が今でも当日のことを鮮明に覚えているのは、この台風の恐ろしさのためで、大分後になって、この台風15号で洞爺丸が沈んだのだということを知りました。怖がりとは思えない私が、台風、特にゴー、ビューといった風音に結構神経質になるのは、その経験がトラウマとなっているからかもしれません。この時洞爺丸以外にも北見丸(70名死亡)、日高丸(56名死亡)、十勝丸(57名死亡)の3隻の貨物船が沈没しています。

1960年5月23日(私11歳);三陸海岸を襲ったチリ地震津波

 宮城県気仙沼市に住んでいてこの津波を経験しました。当日は小学校も休みになり、一日中港の近くの高台から、津波を見物していました。ゴロゴロという海鳴りが不気味でした。自転車であちこち走り回って、翌日海水のため自転車が真っ赤に錆びていて父親に怒られたのを覚えています。

1964年6月16日(私15歳);新潟地震

 宮城県仙台市の国立療養所「西多賀ベッドスクール」に入院して腰椎カリエスの治療を受けていました。寝たきりの状態で震度5を経験しました。ベッドも移動するぼどの激しい揺れで、起きて逃げるわけにもいかず、とても恐ろしかった記憶があります。このときは新潟で起きた地震だとは思われないほど、仙台でも強い揺れを感じました。

1981年10月13日(私32歳);米軍小柴貯油施設の燃料タンク爆発炎上事故

 横須賀市追浜の日産自動車電子研究所に勤務していて、この事故を目撃しました。丁度昼休みに入って、社員食堂に行く途中、ドーンという音がし、食堂の建物のガラス窓が一斉にガチャガチャ音を立てました。向いの岡の裏からすごい炎と真っ黒な煙が、天高く上がりものすごかったのですが、まさかこんな近くに(横浜市金沢区)米軍の燃料貯蔵タンクがあるなんてまったく思っていませんでした。

1988年7月23日(私39歳);潜水艦「なだしお」と釣り船「第一富士丸」の衝突事故

 TVニュースで事故を知り、勤務中でしたが、すぐに勤務していた日産自動車中央研究所の屋上にあがり事故後の状況を目撃しました。遠くに鯨みたいな潜水艦が浮かんでおり、周りに多くの船がうかんでいました。横須賀港北防波堤灯台の3キロのところでの衝突事故で、30名の方が亡くなりました。

1995年1月17日(私46歳);阪神淡路大震災

 当時、日産自動車は日本テレコムとのベンチャーで携帯電話ビジネスを展開しており(ツーカー・デジタルツーカー→現ソフトバンク)、私も研究所から日産本社の支援部隊に転籍したばかりでした。関西は大阪にあるツーカーホン関西のサービスエリアで、当日は社員の安否確認と通信網の被害確認で大変でした。

1995年2月28日(私46歳);オウム真理教・地下鉄サリン事件

 当日は、いつもの通勤と同じで、地下鉄浅草線の東銀座駅で下車してホームに出たときから大騒動で、地上に出ると、沢山のパトカーや救急車が走り回り、空にはヘリコプターが旋回していて、なんなんだ!とびっくりしました。この事件では日産の社員も多く被害を受けました。

これ以降、幸いなことに10年以上、身の回りに大きな災害・事件は起きていません。
これから起きるとすれば、地震でしょうが・・・、あと何回かは、何か経験するでしょうね。

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思い出探し(40)・めぐりあい

2010年10月08日 | 思い出探し
 少し前にもどるが、私が腰椎カリエスで国立西多賀療養所のベッドスクールに入院していた昭和38年の冬だったと記憶しているが、その日宮城県立第一女子高等学校(一女高)合唱部のみなさんの慰問を受けた。

 東北学院大学グリークラブも一緒だったと思うが、ときどきこんな慰問があり、仙台でプロレスの興行があったりすると外人プロレスラー達が慰問に来たり、向いの病棟の壁をスクリーンにして映画会が開かれたり、寝たままバスに乗っての七夕見物があったり、時には東北放送の公開生中継(確か、「昼のリクエスト」とかなんとかいう番組だったと思う)があったりと、年間を通して様々な行事があり、病室で寝たきりの子供たちの慰めになっていた。

 さて、一女高合唱部の演奏はとてもすばらしかったのだが、一生懸命に歌うかわいいお姉さん達の中に、ちょっと周りから浮いた感じで大人びて、綺麗な生徒がいて、恥ずかしながら私の目は演奏の間中ずうっとその生徒にくぎづけになっていたのでした。

 翌年の夏に退院、もとの気仙沼中学3年生に復帰、受験勉強、仙台一高入学なとと忙しい日々が続いて、そんなことがあった事も忘れていたのだが、一高合唱部に所属して毎年定例の一女高との合同演奏会に向けて混声合唱の練習が始ってすぐに、な、な、な、なんと・・・メンバーの中にあの時の美少女を発見したのでした。

 その時、彼女は3年生で、いかにも最上級生という貫禄で、ますます大人びて、思えば病院で見たときは1年生だったのですが、すっかり忘れていたし、勿論当時はもっと年上と思っていたので、とても驚きましたが、中学2年生の眼に映る高校1年生といったら、すごいお姉さんに見えるのも当然だったかも知れません。

 一年生の新入部員には目を向ける事もないし、まして病院慰問のときの患者の中に私がいたことなど知らないだろうし、こちらからそんなことで話しかけることもできないままに、合同演奏会が終わり、彼女は卒業してしまいました。

 ときどき当時を振り返って、なんで声を掛けられなかったのかなあ・・・と、この歳になっても残念に思われるのですが、 一方で、実は当時の一女高合唱部の1年生、つまり私と同学年にはかわいい子が多くて、私の関心はすでにそちらの方にあったといった方が良いのかも知れません・・・と強がりを言ってみたりして。

思い出探し(39)・合唱は楽し!!

2010年10月08日 | 思い出探し
一高一女合同演奏会の記念写真、昭和42年。


高校に入った私は、前年入学していた気仙沼中学校体操部の先輩から、体操部に入るように誘われた。

腰椎カリエスで退院してから1年も経っていない身体では運動はとても無理で、体力的に不安があったため、「マネジャーでも良いから是非入部してくれ」という誘いを涙を呑んでお断りした。

小学校でコーラス部にいたこともあり、音楽が好きだったので、男声合唱なら部活ができるかもしれないと入部した。

楽かなと思っていた合唱部ではあるが、全国合唱コンクールや一高一女合同演奏会、吹奏楽部と合同の定期演奏会、仙塩(仙台市と塩釜市)地区高校合同演奏会などの年中行事が沢山あって、練習は思っていた以上にハードであった。

私の音域はもともとバリトンなのだが、ベースができる生徒が少ないため最初からベースを受け持たされてしまった。

必死で低音域で声を出していたおかげで、当時はやった所謂「低音の魅力」といわれる声になってしまったが、残念ながら青年期以降は小田和正のようなハイトーンの声が人気となってしまい、今の歌謡曲も全体的にキーが上がってしまっていて、気持ちよく歌える曲が無くなってしまったのが残念である。

練習の合間には校庭でソフトボールをして遊んだり、厳しい中にも和気藹々の雰囲気をもった良いクラブだった。

他校の合唱部との交流も盛んだったが、特に宮城第一女子高等学校(一女高)合唱部との交流が盛んで、秋に行われる合同演奏会での混声合唱の練習のため夏休み中もお互いの学校の音楽室を訪問しあって練習を行った。

普段は「エテコウセイ」を自他共にゆるす、ムサクルシイ男子生徒ばかりの生活の中で、女子高生と学校公認で触れ合える貴重な場であるこの合同練習は楽しくて、この時ばかりは先輩たちも「ばんから学生」からにこにこ顔の紳士になってしまうのだった。

一女高合唱部とは年に1~2度「コンパ」を開いた。
いまの「合コン」などというものとは違って、仙台市の野草園の広い芝生の上で、鬼ごっこをしたり、歌を歌ったり、フォークダンスをしたりというもので・・・まさに「青い山脈」の世界だった。

昔のことでもあり、外出は制服着用が当たり前だったが、初夏の日差しの中、緑の芝生の上で、はしゃぐ乙女達の、膝までの長さの紺のスカートがヒラヒラ翻るときや、白いブラウスの胸のふくらみがやたら眩しく感じられる、そんな年頃だった。

昭和40年代初頭のことである。

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思い出探し(38)・下宿屋

2010年10月08日 | 思い出探し
昭和40年代初頭の高校生の(ちょっとお洒落をした時の)一般的スタイル。
学生帽、学生服にトレンチコート。季節は秋。前列が私。


昭和40年4月から気仙沼の両親と別れて仙台での下宿生活が始った。

両親がどのようにして探したのか分からないが、一高のすぐ側に下宿屋を見つけてきて、あまりに近すぎてこれでは学校と下宿屋との往復だけの毎日になってしまうと、口には出せなかったが少し気に入らなかった。

取りあえずという気持ちでここに落ち着いたのだが、結局卒業までの3年間をここで暮らすことになった。

下宿屋とはいっても、本業は化粧品と手芸用品の店で、子供が生まれたばかりの若夫婦がお店を切り盛りし、実質的な一家のリーダーであるおばあさんが手芸教室の先生、晩酌でウイスキーを舐めるのが大好きなおじいさんは奥の部屋で編み機を使って商品のニットをいつも編んでいた。

下宿人は私とお店で働いている小太りのお姉さんの2人きりだった。
3畳1間で朝夜食付きで下宿代は確か9,500円だったと思う。特別奨学生として8,000円の奨学金を受けていたので、親からの仕送りは15,000円ほどだっただろうか。

当時のサラリーマンにとっては大金であり、おまけに翌年には兄も仙台の大学に入ったため、子供2人分の学費と生活費の仕送りは大変だったと思う。子供の教育に熱心だった親にはいくら感謝しても感謝しきれない。

3畳の部屋は大家さんの家の裏に建てられたバラック建ての家(小屋?)で、外便所、外風呂、で不便ではあったが、大家さん一家と普段顔を合わすことが少ないのがかえって気に入っていた。
ただし、トイレの臭いと、エアコンも無い時代での夏の暑さには閉口させられたものだ。

「窓に腰掛、あの人は、暮れてゆく空見つめつつ、白い横顔くもらせて、今日は別れに来たという・・・」、「しけたタバコを回しのみ、欠けた茶碗で酒を飲み、金は無いのに楽しくて、いつも誰かに惚れていた・・・」と森田公一が歌った下宿屋の生活は、あくまで大学生のそれで、高校生の下宿生活は至って謹厳実直で、加えて校訓の「自重以って己を律し、献身以って公に奉ず」を座右の銘とする当時の私は、思ったとおりに下宿屋と学校を往復する毎日となり、一番町や国分町など繁華街にもほとんど出ることが無かった・・・と言ってしまうと嘘になるので、まあ、ほとんど行くことが無かったとしておこう。

勉強とクラブ活動で忙しく毎日を暮らしているうちに、季節はどんどん巡って、高校3年間は駆け足で過ぎていったのだった。



思い出探し(37)・新入生歓迎会

2010年10月07日 | 思い出探し
昭和40年春の事である。
ドーン、ドーン、ドーン、ドーンと鳴り響く大太鼓。
全ての窓を暗幕で覆って真っ暗にした体育館の中には、手ぐすね引いて獲物を待ち構える野獣か悪魔のような上級生達がひしめき合って、ムッとするような人いきれと汗臭さか満ちていた。

一列に並んだ新入生たちは、恐怖に顔を引きつらせてただ黙りこくる者、あるいは緊張を打ち消すために友達とやたらはしゃいでいる者など様々だったが、体育館の片側に設けた入り口から、統制係りの上級生に背中を押されるようにして中へ入っていくときには、皆一様に緊張していた。

反対側に設けた出口との間には、体育館内にうねうねととぐろを巻いた蛇のように、2列に並んだ上級生の造る道が延々と続いていて、というか暗くて先のほうは全く見えないのであるが、この道を通って出口を目指す新入生たちを一様に憂鬱な気分にさせていた。

上級生たちが新入生をすいすいと通してくれるはずも無く、一歩進む毎に大声で何度も自己紹介させられる、挨拶させられる、クラブへのしつこい勧誘、難しい質問や答えにくい質問を受ける、歌を歌わされる、などは序の口で、コズかれるドツかれるといったことの繰り返しで、簡単に言えば「精神的、肉体的いじめ」を延々と受けることになる。これに耐え、あるいは旨く切り抜け、なんとか列の半分ほどまで来たころには、ノドは嗄れ、汗は学生服をしみとおり、頭は体育館全体の喧騒でガンガンして、足元はふらふらで、熱中症の一歩手前の状態となった。これが噂に聞いていた仙台一高伝統の新入生歓迎会。

まあ、どこの高校でも当時は似たような手荒い歓迎会は少なからず行われていたと思うが。現在はどんなものであろうか、もっとハッピーな楽しいお祭り的な歓迎会が主流なのかもしれない。

私の場合は、腰椎カリエスの手術後2~3年間は着けているように医師からいわれていたガッチリしたコルセットを鎧のように身体に着けていた訳で、どついた先輩が手の痛さに顔をしかめるほどで、「なに着てんだ、おまえ?」と言った上級生も、私がなにかの障害を持っているとすぐに気付いて、あまり無茶なことはせずに、比較的すいすいと通してくれた。
おまけに、その時すでに合唱部に入部していたのが幸いし、先輩たちとのやり取りにいいかげんうんざりしてきた頃に、私に気付いた合唱部の先輩がすぐに列から外に引っ張り出してパスさせてくれたのだった。

体育館の外に出てみると、そんなふうにパスした同級生たちが少なからずいて、なんのことはない皆入学早々にどこかのクラブに加入した連中で、つまりはクラブの先輩の有りがたさを身をもって知ることになる仕組みでもあった。

文武両道、質実剛健で「ばんから」で通っていた一高(エテコウとも言う)らしい、手洗い歓迎会であったが、中学生とは違う大人の世界に一歩足を踏み入れたと感じた出来事で、いまはとても懐かしい。

ちなみに、入学して最も気に入ったのは校訓であり、「自重献身」・・・「自重以って己を律し、献身以って公に奉ず」という、若者の志として相応しい、なんとなく明治の香りがするものであるが、以来ずっとこれを座右の銘としてきた。

ところで、50歳を過ぎ、会社を早期定年退職したころからは、私の血肉となってしまった「自重献身」を座右に置く必要も無くなり、代わりに老子の「上善如水」・・・「上善は水の如し」(理想とするのは、留まることなく、しかも悠々として流れる大河の流れのように、ゆったりと自然の流れに任せて生きることである)を座右の銘としている。まさに林住期を生きる今の私にとって相応しく、また斯くありたいと思ってのことである。

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思い出探し(36)・15歳の旅立ち・1Q65

2010年10月07日 | 思い出探し
気仙沼を離れる前に、安波山に登る。
当時は結構高い山のように思っていたが、実は350mほどの山である。
頂からは遠く気仙沼湾と亀山が見晴らせて展望が良い好きな山だった。
昭和40年(1965)、15歳。

療養所(西多賀ベッドスクール)を退院し、もとの中学校に復帰してから8ヶ月があわただしく過ぎて、季節は秋から冬、春とめぐり、仙台一高に合格した私の仙台への旅立ちも目の前に迫っってきた。

小学校3年生の時に父の転勤で仙台から気仙沼に引っ越して6年間、途中1年間は病院暮らしだったが、少年期の思い出はすべてこの土地で生まれ、今も心の中に大切にしまってある。

安波山、亀山、小田の浜、大谷海水浴場、御神明さま、浮見回廊、魚市場、港祭りと花火大会、好きな女の子、観音寺、体操競技、運動会、福美町、大川、岩井崎の潮吹き岩、化粧坂、どろぼう坂、田んぼでのスケート、竹スキー、元朝参り、青空鼓笛隊、ひぐらしの声、凍った通学路、チリ地震津波・・・あれもこれも、すべてが懐かしい。

 これからは、気仙沼の両親や兄と別れて仙台での下宿生活が始ると思うと、寂しいとか、うれしいとか、不安だとかそんな気持ちより、兎に角しっかりやっていこうという気持ちの方が強かったように思う。
一旦親元を離れてしまえば、その後は大学進学、就職という流れの中で、再び両親と暮らすことは無いであろうという思いは強く、これからは一人でしっかり生きていくぞという覚悟でいたことは確かである。

 昨年還暦を迎えた今の私からみても、誉めてやりたいくらいの、抱きしめて「負けるなよ!」と励ましてやりたくなるくらいの覚悟ではあるが、逆に 過ぎ去った60年間を振り返って、むしろ「そんなにムリをするなよ、先は長いぞ~。」、「これからいろいろな事があるぞ~。」と声を掛けたくなるくらいに健気(けなげ)でしっかりした15歳の少年だったと思う。
そんなことを思い返しながらなにか妙に切なく、胸が熱くなってしまうのである。


昨年ほぼ同じ場所から写した気仙沼湾の景色

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思い出探し(35)・幼なじみ

2010年10月05日 | 思い出探し
時代は少し遡るが・・・、
私が仙台で暮らしていた幼稚園から小学校の低学年にかけて、近所のOさん一家とお付き合いがあった。母親どうしがPTAで知り合ったらしく仲が良かった。
Oさんの家には3姉妹がいて長女のK子ちゃんは兄と同い年、二女のN子ちゃんが私と同い年で、2歳下に三女のR子ちゃんがいた。



おしゃまで可愛い当時のK子ちゃんとN子ちゃん

毎日遊んでいた近所の悪童たちとは違って、毎日一緒に遊んでいた訳ではないが、何度かOさん家に泊まりに行ったりした。今思えば父の手術で母が病院に泊まりがけで付き添いに出かけたときに泊まらせてもらっていたようだ。

Oさん家は父上が仙台でガソリンスタンドやゴルフショップ(昭和30年代初頭でゴルフなんかまだまだ一般庶民がやれる娯楽ではなくて、金持ちだけがするものだったが)などを経営している会社のちょっとえらいさんで・・・、当時そんなことは知らなかったが、いずれにしても近所では裕福な家庭だった。
なにしろ映画の映写機(とはいっても裸電球を照明にして手回しでフィルムヲを送るというものだったが)などがあり、夕食の後は子供たちだけで良く映画を見た。
なにしろそんな機械物を扱うのが好きだった兄と私が映写機をセッティングして、ディズニーの漫画やら「のらくろ」などの漫画映画を見て、とても楽しかった思い出がある。
Oさん家のご両親も女の子ばかりのせいか、私たち兄弟をとても可愛がってくれた。
気仙沼に引越しする際にご挨拶に行ったのが最後で、しばらく会わなかったが、私がカリエスで入院中にK子ちゃん(高2)とN子ちゃん(中3)が気仙沼の家に遊びに来たことを後で母から知らされて、会えなかったことがとても残念だった。



昭和39年春~夏頃、気仙沼に遊びに来たとき兄が写した高校2年のK子ちゃんと中学3年のN子ちゃんと母。
大島の小田の浜海水浴場付近と思われる。
あらためて写真を見ると、当時の高校生はやけに大人びて見えますね~。
姉妹お揃いで作ったと思われる、ひざ下までの長さのシンプルなワンピースが良く似合っています。
当時の高校生の私服(チョットおしゃれをした時の)はこんな感じでしたね。
兄は高校の写真部の友人に頼んで、姉のK子ちゃんの写真だけ大きく引き伸ばしてパネルにしたりして。
K子ちゃんが好きだったのかも知れません。

この1年後に私は仙台でK子ちゃんと出会うのですが。
その辺のことはいずれまた・・・。

思い出探し(34)・クラスメートとの再会

2010年10月04日 | 思い出探し
写真;退院直前にベッドスクールの社会見学で自衛隊のキャンプを訪問。歩いて病院の外に出たのはこれが初めてでした。

腰椎カリエスで入院していた西多賀ベッドスクール(西多賀国立療養所)を退院し、夏休みあけの中学3年の2学期から元のクラスに復帰した。

仙台の国立療養所に入院した当初は、治るのだろうか?家に帰れるのだろうか?クラスのみんなと再会できるのだろうか?会えるとしたら何時になるのだろうか?とあれこれ思い悩んだものだが、カリエスという病気にしては極めて短期間で完治できたのはまさに奇跡で・・・友達と再会したときには本当に嬉しかった。

入院中の1年間は通常では経験できないような様々な出来事があったわけだが、それでもいわば隔離された病院の中での生活であり、病気の子供たちと白衣の天使や優しい先生たちに囲まれた特殊な世界で1年間を過ごした後の私にとって、1クラス50名で12クラスというマンモス中学校(団塊の世代はみんなそうだったが)に戻り、真っ黒に日焼けした元気一杯のクラスメート達に迎えられた当初は、懐かしく、嬉しい気持ちの反面、なんとなくしばらくは馴染めなかった。

クラスメート達もコルセットでがっちり固められた、青白い顔をした病気上がりの私には大分気を使ったとみえて、それを感じた私は何となく落ち着かなくて、チョッと惨めで、教室での居心地は必ずしも良くなかった。
外で走り回ることも出来ず、周りの目を気にしながら教室の中で何時も本ばかり読んでいたように思う。今にして思えばなんていやな子だったのだろうと恥ずかしい。
なんとか自分の居場所を見つけ、元の感じに戻ったのは、東京オリンピック(昭和39年)も終わって、その年も暮れようとしているころであった。

当時の関心事はひとえに高校受験のことであり、小学校のころから何故か知らないが決めていた仙台一高の受験に向けての勉強に熱中していた。高2の兄から譲り受けた3畳の個室で夜遅くまで勉強した記憶があるが、深夜放送などを聞き覚えたのもこのころである。
高校、大学、エンジニアとしての会社勤務、その時々でそれなりに勉強はしていたはずであるが、振り返ってみると、病気入院中から中学卒業までのこの期間が一番勉強した時期のように思われてしまう。

病気あがりのくせにやたらと頑張りがきいたようにも思うが、勉強に打ち込めたのは、身体が思うように動かせない状態でもあり、他に打ち込めるものが無かった・・・出来なかった、そんな環境であったからのようにも思われるが、決して砂を噛むような・・・という生活ではなく、なぜか心はやたら熱かったように思われて懐かしいのである。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(33)・ベッドスクールを退院

2010年10月03日 | 思い出探し
昭和39年8月 退院の日、病院の入り口にて。
1年間共に学び、遊び、お世話になった国立療養所西多賀ベッドスクールの仲間達の見送りを受ける・・・右から3人目が私、14歳。

腰椎カリエスの手術後、歩行訓練などを経て、8月中旬に退院する予定となった。
退院前にコルセットを作ることになった。「亀の甲羅ギプス」を作ったときと同じように身体の型を取ってしばらくして出来上がったコルセットは、上は胸から下は骨盤に被る形で臍下までを覆う、金物とプラスチックと皮でできた、ちょうどローマ時代の甲冑のような代物。

肩上のベルトで吊って胸前のヒモをしめると、上体はがっちり固定されて、全く前屈ができなくなってしまう。これを少なくとも2年間は着けていなければならないと聞いて、かなり憂鬱になった。

コルセットはあちこち擦れて最初は痛かったが、すぐに慣れて、筋力の衰えた身体にはかえって安定感があって着け心地はそんなに悪いものではなかったが、暑さだけには参った。
まるまる1年間寝たきりだったので兎に角外に出たくて、東北学院大学セツルメント会の学生さんが造った裏山の遊歩道を、夏の盛りの日を浴びながらよく散歩した記憶がある。

退院の日は担当医や看護婦さん、学校の先生などに挨拶して回り、同級生からは寄せ書きをした立派なアルバムを贈られた。気持ちはすでに帰る家に飛んでいたが、病院に残る同級生達にはなにか悪い気がして、あまりはしゃぐ気分にもなれず、今思えばやけに静かに、サラリとした別れだったように思う。

もらったアルバムは大事に保管してあるが、書かれた寄せ書きの住所に連絡を取ることも無く、あっという間に46年間が過ぎてしまった。

みんな私を覚えていますか・・・。
私は何とか元気でいます・・・。
みんなはお元気ですか・・・。

写真を見ながら何時もそんなことをつぶやいてしまいます。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(32)・待ちに待った歩行訓練

2010年10月02日 | 思い出探し


当時入院していた病棟。2階に病室がありその前のベランダで歩行練習をした。昭和39年・夏

梅雨明けまでにはまだ少し間があった。
手術後もベッドに寝たままの生活が続いていて、ベランダの水滴で曇ったガラス戸を通して見える向い側の病棟と、上の方に少しだけ見える灰色の空と、教室兼病室だけが、僕の見える世界の全てで、ベッドの上だけが生活範囲という、そんな閉塞感の中での生活ももうじき1年になろうとしていた。

「そろそろ歩いてみようか。」医師があまりに唐突にサラッと言うものだから、「エッ、エッ、ホントですか?」、「歩いていいんですか?」とビックリした。
「どんどん歩いていいよ。ただ順序があるから、看護婦さんの指示に従ってね。」と医師。
この瞬間をどれだけ待っていたか、このために一年間の寝たきりの生活にも耐えてきたのです。

すぐにでもベッドを離れたくて、看護婦さんに頼んで、まずはベッドに寝たまま横向きになる練習から開始。
ところが、ギプスごと横向きにさせられたとたん、天井が、部屋がぐるぐる回りだして、いわゆる回転性めまいが襲ってきて、「ダメ、ダメ、ダメだ~。」。
なにしろ1年間天井を見たままの姿勢で寝ていたのだから、三半規管の機能も狂っているし、視覚や体性感覚との同調も巧くできないようで・・・こりゃ、大変なことになってしまった。

3~4日横向き練習をして、これをクリアしてから、今度はベッドの上に胡坐をかいて座る練習開始。
看護婦さんに背中を支えられて座る姿勢を取って、看護婦さんが手を離したとたん、「なんだ、なんだ、この頭の重さは!」、「誰か背中を引っ張ってるの~!?」という感じで、後ろにバタンと倒れてしまう。
単に座ることさえも出来ないとは・・・なんで~!!!???。
思えば腹筋も背筋も何もかもヘナヘナの身体になっているわけで、座位に必要な筋力が全くなくなっていたのでした。
自分の意思で思うように身体が動かせない不思議な感覚、感じたことのない、耐えられない程の自分の体の重さ、というものを始めて経験した。

その数日後、ベッドの上で座れるようになってからあらためて自分の身体を調べてみたら・・・。
身体全体がポニョポニョ、ふにゃふにゃ。
上肢は日常生活で使っていたし、バーベルを使って多少は筋トレしていたので気が付かなかったがその他の各部の筋肉は、いわゆる退行性萎縮状態・・・つまり、使わなければ衰えるということ。
胸は、胸郭が前後から押しつぶされたようにペッタンコ。
かかとは普通は厚い角質層が今は手のひら並みに薄くなって、まるで赤ちゃんの足のよう。
こりゃ全く厄介なことになったもんだ。

身体はフラフラするが、とにかく歩こうと言うことで、まずはベッドにつかまって立つ練習からスタート。
「かかと、痛~い。」、「足首、痛~い。」、「膝、痛~い。」に耐えての血のにじむような・・・実際、かかとや膝は内出血したのだが・・・歩行訓練は主にベランダで、朝から晩まで行って、痛みはあるけれども、寝たきりの生活に較べれば、何もかもが爽快で、歩行距離と体力は日に日に回復していったのだった。


思い出探し(31)・初めての手術

2010年09月30日 | 思い出探し
入院した夏から秋へ、秋から冬へ、季節は巡ってもベッドのなかから見える窓越しの景色からは季節の変化はさほど感じられず、単調な毎日が続いていた。

国立西多賀療養所・ベッドスクールで寝たままの正月を迎えてしばらくして、やっと手術の日取りが決まった。

これまで、ギプスに固定された寝たきりのままで、抗生物質(ストレプトマイシン)の注射とパスを飲むだけの、治療と言うよりはとにかく安静の療養生活が数ヶ月続いて、飽きてきたというより、先行きに不安を覚えていた僕は、これでやっと回復できる、気仙沼に戻れる、という期待が膨らんだ。

ただし、この間に股関節の手術を受けた隣り部屋の女子が手術中にショック死したことがあり、その時は看護婦さんが廊下をばたばた走り回り、また若い看護婦さん達が泣き崩れていたりで・・・そんなことも頭をよぎって、期待と同時に、自分だってもしもということがある訳で、死ぬことがとても怖かった。

手術の前日から、絶食となり、夜には下剤も飲まされて、朝まで何度か下痢をして当日の朝を迎えた。夜が明けると決められた段取りにしたがって作業が進んで、何も考える暇もなくあっという間にストレッチャーに乗せられた。

まず、レントゲン室で腰に局所麻酔を打たれて、なにかクギ状のものをハンマーで打ち込まれた。
それが骨に当たるたびに頭までガンガン衝撃がきて、幸い痛みは感じない。
それが刺さった状態でレントゲン撮影し、何のことは無いこのクギが手術をするときのマーカーになったようだ。

うつ伏せのままストレッチャーで手術室に移動し、手術台にうつ伏せに乗せられて、背中に白い布が被せられて、周りには何人か医師と看護婦さんがいたが、僕には彼らの足しか見えなくて、頭の上にいる婦長さんだけがいつもの優しい声で「大丈夫だからね。怖くないからね・・・大丈夫だからね。」と励ましてくれた。僕はただ「早く、無事に終わりますように。」と祈るだけだった。

手術は局所麻酔で行われたため、一部始終は身体と耳で分かった。
メスで切られた感覚は無かったが、ノミとハンマーのようなもので骨を削っていく作業の時だけは、身体全体への衝撃とカンカン、ガンガン、ゴリゴリの音が聞こえて、辛くて、怖くて、ずっと婦長さんの手を握り締めていた。
腰椎の破壊された部分を削りとって、腰椎の3番と4番を固定するというのが、手術の内容で、何を使って固定したんですか、と後日医師に聞いたら、「豚の骨」といって笑っていた。そんなこと有るはずがないが・・・。

手術は3時間ほどで終わった。終わり近くには麻酔がきれて来て、傷口を縫われる時の痛さは並み大抵ではなかったが、医師は「もうすぐ終わるから、我慢して」と言うだけで、この時間が長かった。
ストレッチャーの上のギプスに戻され、運ばれてそのままベッドに寝かされた時には、痛みもほとんど無く、手術後だけに出される慣例になっていた夕食のお子様ランチ風の特別食もおいしくいただいて、「なあ~んだ手術もたいした事無いなあ・・・。」などと思っていたのはここまでで、元気な僕を見て安心した両親が帰った後の、夜はまさに地獄であった。

鎮痛剤は2時間ほどしか効かず、薬が切れてきたときの痛みは、傷口が裂けてしまったのではと思うほどで、看護婦さんを呼んでも特に何かをしてくれる訳でもなく、医師に来てもらって「出血していないから安心しなさい。」の一言で少しは落ち着いたが、痛みが無くなる訳でもなく、その夜はまんじりすることもなく夜明けを迎えてしまった。
次の日も痛みで身体を動かすことができない状態が続き、食欲も全く無かった。

3日目の朝、目覚めると昨夜までの苦しみがなんだったのかと思うほど、痛みが全く無くなっていた。思わず鼻歌が出るほどうきうきした気分になってしまう自分が不思議だった。この日の朝食はいつもと同じであったが、入院してから一番おいしかった。
1週間後に抜糸をしたが、この時がまた快感で、それまで痛みは無くても、何か重苦しい感じが傷口にあったのが、抜糸される毎に霧散していき、アルコール綿で消毒された時などはサーと涼風が背中を吹きぬける感じだった。
これからまた寝たきりの生活がしばらく続き、梅雨明けの頃から徐々に歩行訓練が始ることになる。

昭和39年2月、14歳。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(30)・ダラスの金曜日

2010年09月28日 | 思い出探し
 入院して4ヶ月ほど過ぎた1963年(昭和38年)11月22日は忘れられない。

 この時、日米間の通信回線が初めて引かれて、日米でテレビの同時中継が可能となった訳であるが、そんなことより、番組の予定を変更して第一番の中継で入ってきたのが「ケネディ大統領暗殺」の報であり、これにはビックリした。

 病院でも、みんなテレビの前から離れられずに、その成り行きを見守ったが、同日狙撃犯のオズワルドが逮捕され、2日後に今度はオズワルドがジャック・ルビーに公衆の面前で射殺されるという、まるで映画を見ているような展開に驚いた。
 その後に続く葬儀の模様なども次々にリアルタイムで報道され、しばらくの間はベッドの上でテレビにクギづけ状態だったのを覚えている。

 その後、事件の顛末を速報的にまとめた「ダラスの金曜日」という本を年が明けてからすぐに買った。
その本にも当時の写真が載っていて、その中でもオズワルド射殺の発砲の瞬間の写真が強く印象に残っている。
撃たれた腹を押さえたオズワルドより、実はオズワルドの隣りで驚きで仰け反って目をむいているFBI(保安官?)がスーツとネクタイにテンガロンハットを被っているということの方に妙な違和感を感じて、アメリカって進んでいるのか遅れているのか、なんか分からない国だなと思ったことが今でも思い出される。