きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(8)・1955仙台・その2

2010年09月16日 | 思い出探し
写真;幼稚園の帽子を被った私と小学生の兄、仙台に来た移動動物園を見に行った時のスナップ

 仙台に引っ越してから間もなく幼稚園に通い始めたが、残念ながら幼稚園での記憶がほとんど無い。
「のうにんようちえん」という名と、「のんのの かみさま ほとけさま・・・・」という歌のワンフレーズだけ記憶にあり、多分園歌だったのだろう。お寺さんが経営していたので、「のんの様」=観音様なのであろうか・・・。

 仏教系の幼稚園であったが、毎年クリスマスには当時仙台に進駐していた米軍の楽隊と白いひげで背のやたら高い本場もんのサンタクロースが一杯のお菓子を持って訪問してきてクリスマス・パーティーが開かれた。 これを鮮明に覚えているのは、多分もらった美味しいお菓子の所為であろう。こういうことは米軍の占領政策の一環で行われたのだろうが、アメリカといおうかキリスト教はやることが戦略的で上手である。なにしろ今でも私の記憶に残っているのだから・・・。

 当時は現在の青葉区、青葉城址がある山と広瀬川の間に広がる台地に進駐軍(米軍)のキャンプがあり、舗装などまだされていない家の近くの道を時々、野砲を引いた米軍のトラックや、戦車までが砂埃を撒き散らしながら走っていた時代である。パトカーは白塗りのジープでお巡りさんは米軍から支給された大型の拳銃をぶら下げていた。

 トラックは走っていたが、馬や牛が引く馬車なども走っており、タクシーは円タクと呼ばれていたが、自転車と人力車を合体させたような「輪タク」も利用されていた。
冬の暖房には仙台近郊で採れる亞炭や薪を使用するストーブや炭や練炭を使用するコタツが使われていた。父の仕事の関係から薪は沢山あったが、薪割りは子供達の仕事で、長い丸太をノコギリで適当な長さに斬ってから、おおきな斧を使っての薪割りはきつかったが、結構おもしろかった。

 近くにあった鐘崎(今は大きな会社になっているが)の笹蒲鉾の工場の通りを挟んだスーパー(そのころは何とよんでいたか?)に街頭テレビが設置されたのは私が小学校に入ってからと記憶しているので、昭和30~32年頃であろうか。新橋の街頭テレビの人の群れが有名だが、仙台の横丁の小さな通りでも同じようなシーンがあったわけで、時は栃錦VS若の花(とちわか時代)であり、プロレスでは力道山が外人に空手チョップを食らわしていたのでした。

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