きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(3)・新米の営林署員、そして徴兵

2010年09月15日 | 思い出探し
私の父の話である

樺太の泊居(とまりおる)に営林署の署員となって帰郷した父は、まだ10代後半の若者であったが、制服に短剣を下げた立派なお役人であり、年齢に関係なく世間ではそれなりの扱いを受けたようだ。

当時、樺太は資源の宝庫であり、漁業が盛んであったほか、炭鉱があり、ピート栽培などの農業も盛んであったようだが、森林が豊かで林業が盛んであり、王子製紙や富士製紙などの製紙工場が幾つもあった。
国有林の管理が営林署の仕事であり、父もデスクワークだけでなく森林伐採の現場にも良く出かけたようだ、というより新米の職員は現場仕事がメインだったのではなかろうか。

父は、「当時は林業だけでなく他の産業でも労働力は朝鮮人労働者に依存していた。強制的に連れて来られた人も多かったと思うが、近くの社宅にも住んでいて日本人とも結構仲良く付き合っていた。自分も若かったから良く朝鮮の若い人とピンポンなどをして遊んだものだ。ほかにもロシア人もいたし、原住民のオロチョン族の人もいて、皆仲良くやっていたよ・・・。」と話していた。ただ、森林伐採の現場はまた違っていて、「労働者はタコ部屋のようなところに押し込められていて、長い丸太を枕に寝ていて、朝はこの丸太を槌でガンガン叩いて起こすんだよ。」といった話をよく聞いた。
子供向けの話半分としても、かなり過酷な労働が強いられていたようだ。

「伐採現場を視察に行くと、いつもヤクザの親分か山賊の首領のような恐ろしげな現場監督に出迎えられ、上座に座らされて、下へも置かぬ歓待を受けた・・・。」といったことも話していたが、二十歳前の若造とはいえ、官吏であり「お役人さま」なのであるから、当時としては当たり前のことだったのかも知れない。

仕事を始めてまもなく二十歳の徴兵検査で甲種合格となった父は、まもなく徴兵され戸籍上のことだと思うが、大阪の福知山連隊(と記憶しているが?)で訓練を受けた後、北支那方面軍の兵士として中国大陸へ送られることになる。
内務班での訓練のこともたまに話してくれたが、「とにかく事あるごとに殴られた、しかも革製のスリッパで殴るなんてまったく人間じゃないよ!」ということで、新兵の人間性を喪失させるための「内地での訓練期間はとにかく酷かった。」ようである。
これに対して前線に派遣されたとたんに上官は皆優しくなって、いじめられることはなかったようだ。「だって下手にいじめたりして、皆の恨みをかっていたら、戦闘中に後ろから撃たれてしまうこともあるからだよ。」という話は子供心に説得力があって、いまでも覚えている。

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