マクロ経済そして自然環境

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景気政策史ー53 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その10穀物法、通貨、不況―2

2013-01-12 13:41:29 | 景気政策史

 

上記、穀物法が不況、通貨とどの様な連関があるかと言う事について1820年代どの様に考えられていたかについて述べたが、その後に於いてどの様にそれが発展したかについて述べる。30年代においては1837年恐慌、~39年恐慌と不況、恐慌状態になるが、其の中でマンチェスターを始め、綿製品工業も痛手を受けるが、綿製品生産高は36年の4120万ポンド(連合王国の粗国民所得の約10%)から37年には3760万ポンドに下落以後多少の変動を経て42年不況で3480万ポンドへと低落した。(自由貿易と保護主義 法政大学出版1985年 杉山忠平編所収 自由貿易と産業資本 熊谷次郎)

後、反穀物法運動の中心ともなる、コブデンも37年恐慌で約2万ポンドの損害を被り、イギリス綿工業資本家の中で第一位の地位を占め、5つの工場を持ち4000機の力織機を持っていたグレッグ商会も37-38年の不況下で200台の織機の破壊を余儀なくされる等々の被害を受けた。

そういった中、マンチェスター商業会議所が1839年12月に開催された特別総会に向けて出された理事会の報告書(イングランド銀行の政策の我が国の商工業界に与える影響に関する報告書)は

“不作が予想された1838年夏に小麦1クオーターの価格は同年初頭よりも20シリング以上騰貴しており、75シリングとなった。スライデイングスケールの穀物法の下では国内穀価が73シリングになると輸入関税はわずか1シリングになるから38年夏以降大量の穀物の輸入がなされ、この一挙大量の輸入に対する支払のために大量の地金が流出した。ところがイングランド銀行は地金流出にも拘らず銀行券の増発を行いその結果1839年1月には約934万ポンドあった地金準備は39年12月には約254万ポンドへと激減した。ここで始めてイングランド銀行は引締政策へと転じたが時宜を逸したこの政策の為に商工業界は大きな損失を被った”としている。

また当時、発券銀行とイングランド銀行の力と責任に関して1840年と1841年に発券銀行特別委員会が持たれた。そこで所謂“通貨論争“も行われたわけであるが、そこに於いてマンチェスターの意見としては金融政策においては“自由裁量”には反対であると言うのは明らかであった。J.B.スミス(マンチェスター商業会議所会長)、コブデンも証言を行い、スミスは“イングランド銀行や他の発券銀行に付き、出来るだけ金属通貨の展開に近づけるのが良い(金と通貨の間に一定のリンクが必用)”とし、1844年のイングランド銀行発券部に近い“国営銀行”を提案した。またコブデンは“市場の力”に代替えする自由裁量は健全では無いとし又通貨を“規制”、“制御”する事はばかばかしく、個人がどのような基準であれ制御し裁量になるような如何なる方策も考えない、又私は其の原則(パーマールール;1830年代イングランド銀行総裁パーマーが表した政策方針で債務の一定比率を金で保有するということ)を侵したイングランド銀行を再び信頼する事は無い“とした。(F.W.Fetter :Development of British Monetary Orthodoxy 1965年 P176)

これらの主張は通貨学派に近いのは明らかであり、1844年銀行法の成立に関与したとされるのは明らかであると思われる。

J.Bスミスは現行穀物法での不規則的な穀物の輸入は突然の金属の流出、それに続く金融混乱に繋がるとし、この状況は、規則的な製造品の輸出により裏打ちされる継続的穀物の輸入によってのみ解決されるとし穀物法廃棄を主張した。この見解はその後6年間(穀物法廃止まで)Economistや反穀物法同盟の機関紙のLeagueで穀物法の廃棄は金融的安定に繋がるとして主張する見解の枠組みとして使われた。(前掲Fetter)、

 

 

 

 

 

 

 

以下次回

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