産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(10/19)で堂々の50回を迎えた! 私の書いた「天理~桜井 山の辺の道」(2012.10.6付)から、ちょうど1年が経ったのだ。1年は52週だが、途中で選挙などの特別紙面があったので、今日が50回目になった。過去の記事は、奈良まほろばソムリエの会の公式HPに出ている。
今回の執筆者は辰馬真知子さん(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」広報グループ)である。私と一緒に、このコーナーのスケジュール管理や文字校正などを担当している。彼女はいつも思わぬ角度から「深い奈良」を紹介してくださるので、読むのを楽しみにしている。今回の見出しは「長屋王の父・高市皇子 十市皇女に情熱的な挽歌」だ。では、全文を紹介する。
※トップ写真は宗像神社本殿
高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の第一皇子で、母は筑前の豪族・宗像徳善(むなかたとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)だ。大津皇子は同じく天武の皇子ながら、文武に優れた素質とその悲劇的な最期が語り継がれ、今も人々の心に残る。大津とは対照的に高市のことはあまり知られておらず、地味な存在に見えるかもしれない。
しかし、私はそんな高市皇子が好きだ。このナンバー2的なところにひかれるのだが、柿本人麻呂が万葉集に残した全149句にも及ぶ万葉集最長の壮大な挽歌(巻2-199)や日本書紀の記述からその生涯をうかがい知ると、かなりの実力者であったことがわかる。
壬申の乱では天武の長子として近江から駆けつけ、のちに軍の全権を委ねられ、吉野軍を勝利へと導く重要な役割を果たした。持統朝では太政大臣として政務の中心にいた。
* * *
高市皇子につながる故地を訪ねよう。人麻呂の歌からその宮は香具山山麓、仮葬の地は広陵町百済付近と推測できるが、遺跡は残っていない。しかし高市にゆかりのある神社がある。桜井市外山(とび)の宗像(むなかた)神社だ。
全国にある宗像神社のなかでも、京都御苑内の神社とともに由緒は古い。祭神の宗像三女神は海上交通の神で、高市の母、宗像氏の信奉する神だった。
高市皇子ゆかりの宗像神社=桜井市外山(とび)
壬申の乱では宗像氏の大きな功績があったとされ、のちに宗像神を鳥見(とみ)山中腹に祭ったのが最初と思われる。高市の後裔(こうえい)が代々祭祀(さいし)を司(つかさど)り、衰退した時期がありながらも一族によって守り伝えられた。幕末から明治にかけて綿密な調査が行われ、いにしえの宗像神社が現在の地に復活した。
* * *
高市皇子の子には「悲劇の宰相」と言われる長屋王がいる。父・高市の菩提(ぼだい)を弔うために創建されたと考えられる寺院跡が、桜井市橋本にある青木廃寺だ。ここは今でも古瓦が散見される。
地元住民によって守られている青木廃寺=桜井市橋本
古代瓦研究家として知られる元近畿大学教授・大脇潔氏は、長屋王邸跡(現イトーヨーカドー奈良店)から出土したものと同じ型の瓦が多数出土していることや、高市の子孫である高階(たかしな)氏の銘の入った瓦が見つかっていることから、長屋王が父・高市の冥福を祈って建てた寺と考証している。
青木廃寺周辺
* * *
高市皇子は万葉集に歌を3首残しているが、この3首すべてが年の近い異母姉、十市(とおち)皇女への挽歌だ。十市の短い生涯を惜しみ、会いたいと願う気持ちが切々と詠まれている。
山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく(巻2-158)
奈良市高畑町、新薬師寺門前に小さなお社がある。同地の伝えによると十市の墓であるという。もとは小さな塚だったが、昭和50年代に有志によって整備され、十市を祭神とする「比賣神(ひめみか)社」としてお祭りされるようになった。
私は高畑の集落に入ると、「十市の死をあれほどに嘆いた高市だ、きっとここにお参りしたにちがいない」と思い、比賣神社を目指しながら「十市、会いにきたよ。今行くからね!」と気分はすっかり恋する高市になる。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
私は高市皇子のことも十市皇女のことも、あまりよく知らなかったので、この話は目からウロコだった。平凡社『世界大百科事典』の「高市皇子」によると、
672 年 (天武 1) の壬申 (じんしん) の乱のときには, 天武の招きにより近江大津宮を脱出して, 伊賀の積殖 (つむえ) (現,三重県阿山郡伊賀町柘植) の山口で合流し, 美濃の不破関に遣わされて軍事を総管し, 大いに活躍した。高市皇子は天武の長男だったが,その母が地方豪族出身者だったため, 異母弟の草壁皇子,大津皇子よりはもちろん, 年少の多くの異母弟よりも下位におかれることとなった。 その序列は第 8 位と推定されている。 しかし年長のこともあって重く用いられ, 685 年 1 月には草壁,大津につぐ浄広弍 (じようこうに) の位を授けられた。
ついで 690 年 (持統 4) 7 月には,皇太子草壁皇子の没後をうけて太政大臣に任命され, その年 10 月には藤原宮の地を視察し, 693 年 1 月には浄広壱を授けられたが, 696 年 7 月没した。 《日本書紀》は後皇子尊 (のちのみこのみこと) と記す。 《延喜式》には,その三立 (みたち) 岡墓が大和国広瀬郡にあると記し, 奈良県北葛城郡広陵町に字見立山 (みたてやま) がある。 その生前,678 年異母姉妹十市 (とおち) 皇女の死に際してつくった 3 首の歌, およびその没後,柿本人麻呂が皇子の功績をたたえた長歌と短歌が《万葉集》巻二にある。
いっぽう「十市皇女」には
天武天皇の皇女。 母は額田王。 天智天皇の皇子大友皇子の妃となり, 損野 (かどの) 王をもうけた。 しかし 672 年壬申の乱で夫が父と皇位を争ったときは父方に従った。 後世の伝承では大友皇子方の情報をひそかにフナの腹に入れて父に送っていたとする。 678 年宮中で急死し大和国赤穂に葬られた。 《万葉集》に高市皇子が死を悼む歌があり, 乱後,異母兄の高市皇子と結ばれていたとの説もある。
どちらも、高市が十市の死を悼んで詠んだ万葉歌について触れている。有名な話だったのだ。
50回の節目を迎え、「なら再発見」は順調に原稿が集まってきている。このままだと100回、200回と、回を重ねそうなムードである。月2回更新の豆知識(今奈良.jp)も、順調に読者を獲得している。どこかで1冊の本にまとめたいものである。
なお、お詫びと訂正がある。読者からご指摘いただいたもので、今回の記事の末尾に、このように載せていただいた。
前回の「大和国四所水分神社」で、吉野水分神社の本殿を「国宝」としましたが、正しくは「国指定重要文化財」でした。ご指摘ありがとうございました。
これからも「なら再発見」を、どうぞよろしくお願いいたします!
今回の執筆者は辰馬真知子さん(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」広報グループ)である。私と一緒に、このコーナーのスケジュール管理や文字校正などを担当している。彼女はいつも思わぬ角度から「深い奈良」を紹介してくださるので、読むのを楽しみにしている。今回の見出しは「長屋王の父・高市皇子 十市皇女に情熱的な挽歌」だ。では、全文を紹介する。
※トップ写真は宗像神社本殿
高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の第一皇子で、母は筑前の豪族・宗像徳善(むなかたとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)だ。大津皇子は同じく天武の皇子ながら、文武に優れた素質とその悲劇的な最期が語り継がれ、今も人々の心に残る。大津とは対照的に高市のことはあまり知られておらず、地味な存在に見えるかもしれない。
しかし、私はそんな高市皇子が好きだ。このナンバー2的なところにひかれるのだが、柿本人麻呂が万葉集に残した全149句にも及ぶ万葉集最長の壮大な挽歌(巻2-199)や日本書紀の記述からその生涯をうかがい知ると、かなりの実力者であったことがわかる。
壬申の乱では天武の長子として近江から駆けつけ、のちに軍の全権を委ねられ、吉野軍を勝利へと導く重要な役割を果たした。持統朝では太政大臣として政務の中心にいた。
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高市皇子につながる故地を訪ねよう。人麻呂の歌からその宮は香具山山麓、仮葬の地は広陵町百済付近と推測できるが、遺跡は残っていない。しかし高市にゆかりのある神社がある。桜井市外山(とび)の宗像(むなかた)神社だ。
全国にある宗像神社のなかでも、京都御苑内の神社とともに由緒は古い。祭神の宗像三女神は海上交通の神で、高市の母、宗像氏の信奉する神だった。
高市皇子ゆかりの宗像神社=桜井市外山(とび)
壬申の乱では宗像氏の大きな功績があったとされ、のちに宗像神を鳥見(とみ)山中腹に祭ったのが最初と思われる。高市の後裔(こうえい)が代々祭祀(さいし)を司(つかさど)り、衰退した時期がありながらも一族によって守り伝えられた。幕末から明治にかけて綿密な調査が行われ、いにしえの宗像神社が現在の地に復活した。
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高市皇子の子には「悲劇の宰相」と言われる長屋王がいる。父・高市の菩提(ぼだい)を弔うために創建されたと考えられる寺院跡が、桜井市橋本にある青木廃寺だ。ここは今でも古瓦が散見される。
地元住民によって守られている青木廃寺=桜井市橋本
古代瓦研究家として知られる元近畿大学教授・大脇潔氏は、長屋王邸跡(現イトーヨーカドー奈良店)から出土したものと同じ型の瓦が多数出土していることや、高市の子孫である高階(たかしな)氏の銘の入った瓦が見つかっていることから、長屋王が父・高市の冥福を祈って建てた寺と考証している。
青木廃寺周辺
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高市皇子は万葉集に歌を3首残しているが、この3首すべてが年の近い異母姉、十市(とおち)皇女への挽歌だ。十市の短い生涯を惜しみ、会いたいと願う気持ちが切々と詠まれている。
山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく(巻2-158)
奈良市高畑町、新薬師寺門前に小さなお社がある。同地の伝えによると十市の墓であるという。もとは小さな塚だったが、昭和50年代に有志によって整備され、十市を祭神とする「比賣神(ひめみか)社」としてお祭りされるようになった。
私は高畑の集落に入ると、「十市の死をあれほどに嘆いた高市だ、きっとここにお参りしたにちがいない」と思い、比賣神社を目指しながら「十市、会いにきたよ。今行くからね!」と気分はすっかり恋する高市になる。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
私は高市皇子のことも十市皇女のことも、あまりよく知らなかったので、この話は目からウロコだった。平凡社『世界大百科事典』の「高市皇子」によると、
672 年 (天武 1) の壬申 (じんしん) の乱のときには, 天武の招きにより近江大津宮を脱出して, 伊賀の積殖 (つむえ) (現,三重県阿山郡伊賀町柘植) の山口で合流し, 美濃の不破関に遣わされて軍事を総管し, 大いに活躍した。高市皇子は天武の長男だったが,その母が地方豪族出身者だったため, 異母弟の草壁皇子,大津皇子よりはもちろん, 年少の多くの異母弟よりも下位におかれることとなった。 その序列は第 8 位と推定されている。 しかし年長のこともあって重く用いられ, 685 年 1 月には草壁,大津につぐ浄広弍 (じようこうに) の位を授けられた。
ついで 690 年 (持統 4) 7 月には,皇太子草壁皇子の没後をうけて太政大臣に任命され, その年 10 月には藤原宮の地を視察し, 693 年 1 月には浄広壱を授けられたが, 696 年 7 月没した。 《日本書紀》は後皇子尊 (のちのみこのみこと) と記す。 《延喜式》には,その三立 (みたち) 岡墓が大和国広瀬郡にあると記し, 奈良県北葛城郡広陵町に字見立山 (みたてやま) がある。 その生前,678 年異母姉妹十市 (とおち) 皇女の死に際してつくった 3 首の歌, およびその没後,柿本人麻呂が皇子の功績をたたえた長歌と短歌が《万葉集》巻二にある。
いっぽう「十市皇女」には
天武天皇の皇女。 母は額田王。 天智天皇の皇子大友皇子の妃となり, 損野 (かどの) 王をもうけた。 しかし 672 年壬申の乱で夫が父と皇位を争ったときは父方に従った。 後世の伝承では大友皇子方の情報をひそかにフナの腹に入れて父に送っていたとする。 678 年宮中で急死し大和国赤穂に葬られた。 《万葉集》に高市皇子が死を悼む歌があり, 乱後,異母兄の高市皇子と結ばれていたとの説もある。
どちらも、高市が十市の死を悼んで詠んだ万葉歌について触れている。有名な話だったのだ。
50回の節目を迎え、「なら再発見」は順調に原稿が集まってきている。このままだと100回、200回と、回を重ねそうなムードである。月2回更新の豆知識(今奈良.jp)も、順調に読者を獲得している。どこかで1冊の本にまとめたいものである。
なお、お詫びと訂正がある。読者からご指摘いただいたもので、今回の記事の末尾に、このように載せていただいた。
前回の「大和国四所水分神社」で、吉野水分神社の本殿を「国宝」としましたが、正しくは「国指定重要文化財」でした。ご指摘ありがとうございました。
これからも「なら再発見」を、どうぞよろしくお願いいたします!
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