今日の「田中利典師曰く」は、〈人生は旅である。そしていつか旅は終わる。新しい旅立ちのために…〉(師のブログ 2019.1.30 付)。この頃利典師は、毎日新聞から連載の依頼を受け、数編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)
エッセイは全部で6編。〈文才がないので、あまり日の目を見そうにないものばかりだが…〉と謙遜されるが、なかなかどうして、読み応えのあるものばかりだ。それらを、当ブログで紹介させていただく。今回は、第1弾である。
「人生は旅である。そしていつか旅は終わる。新しい旅立ちのために…」
人生を旅に譬(たと)えることは多い。「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」とは、俳聖芭蕉の辞世の句。芭蕉のように人生を旅に生き、旅に病んだ人間でなくとも、誰にとっても、山有り谷有りの人生は、まさに長い旅路に似ている。
雨風に打たれる場面もある。悲しみにうちひしがれる時もあるし、天国のごとき息をのむ美しい場面や景色に巡り会うこともある。途中下車で、あてもなく時間を過ごすときもあるだろう。はたまた、人の裏切りや、逆にその温かさに涙することさえある。
そして、その人生という長い旅も、いつかは終わる。この世に生まれてきた者で、誰一人死ななかった人などいないのだから…。その旅もまた、終われば終わったで、冥土への旅、来世への旅が始まる。死んでみないと本当のところはわからないが、日本人はそう信じて生きて来た。
そう思えば、今生(こんじょう)の旅の道すがら、それぞれの場面、それぞれの場所を楽しもうではないか。「一期一会」というが、そのときの縁、そのときの出会い、そのときの自分を大切にしていたい。いずれの旅も、つまりは、長い長い魂の旅の、夢の途中なのであるから。
******************
久しぶりの書き下ろしである。少しずつですが、徒然に、いま自分の目の前に映る風景を言葉にしてみようと思います。
追伸 書き下ろしというのは正確ではない。FBのために書いたモノではないからだ。某紙から連載の依頼を受けたことがあり、数編の短編をしたためた。しかし、企画自体が没になり、今日のこれは日の目を見なかった文章なのである。
でもときどきいまも書きためている。文才がないので、あまり日の目を見そうにないものばかりだが…。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)
エッセイは全部で6編。〈文才がないので、あまり日の目を見そうにないものばかりだが…〉と謙遜されるが、なかなかどうして、読み応えのあるものばかりだ。それらを、当ブログで紹介させていただく。今回は、第1弾である。
「人生は旅である。そしていつか旅は終わる。新しい旅立ちのために…」
人生を旅に譬(たと)えることは多い。「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」とは、俳聖芭蕉の辞世の句。芭蕉のように人生を旅に生き、旅に病んだ人間でなくとも、誰にとっても、山有り谷有りの人生は、まさに長い旅路に似ている。
雨風に打たれる場面もある。悲しみにうちひしがれる時もあるし、天国のごとき息をのむ美しい場面や景色に巡り会うこともある。途中下車で、あてもなく時間を過ごすときもあるだろう。はたまた、人の裏切りや、逆にその温かさに涙することさえある。
そして、その人生という長い旅も、いつかは終わる。この世に生まれてきた者で、誰一人死ななかった人などいないのだから…。その旅もまた、終われば終わったで、冥土への旅、来世への旅が始まる。死んでみないと本当のところはわからないが、日本人はそう信じて生きて来た。
そう思えば、今生(こんじょう)の旅の道すがら、それぞれの場面、それぞれの場所を楽しもうではないか。「一期一会」というが、そのときの縁、そのときの出会い、そのときの自分を大切にしていたい。いずれの旅も、つまりは、長い長い魂の旅の、夢の途中なのであるから。
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久しぶりの書き下ろしである。少しずつですが、徒然に、いま自分の目の前に映る風景を言葉にしてみようと思います。
追伸 書き下ろしというのは正確ではない。FBのために書いたモノではないからだ。某紙から連載の依頼を受けたことがあり、数編の短編をしたためた。しかし、企画自体が没になり、今日のこれは日の目を見なかった文章なのである。
でもときどきいまも書きためている。文才がないので、あまり日の目を見そうにないものばかりだが…。