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追悼!山の達人・辻谷達雄さん(川上村柏木)

2024年08月30日 | 明風清音(奈良新聞)
今月初旬、辻谷達雄さんがお亡くなりになった。山仕事の達人であり、吉野式林業の後継者、森の語り部でもあった。1つの時代の終わりを感じさせられた。ご著書を再読し、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿した(2024.8.29)。以下に全文を紹介しておく。辻谷さんのご冥福をお祈りいたします。
※トップ写真は辻谷さん。写真は川上村の「水源地のブログ」から拝借した

今月、「山の達人」と呼ばれ親しまれた辻谷達雄さんが、お亡くなりになった。91歳だった。辻谷さんのご著書『山が学校だった』(洋泉社刊)には、

〈1933(昭和8)年、日本三大美林のひとつ、吉野杉の中心地、奈良県吉野郡川上村柏木に生まれる。地元の小・中学校を卒業後、15歳で山仕事に従事する。71年に独立し、林業請負業・ヤマツ産業有限会社を設立、テレビCMを活用したりユニークな経営方針で知られる〉。

訃報に接し、本書を久しぶりに読み返した。印象に残ったところを以下に紹介する。

▼山は自分を鍛える学校だ
川上村と聞くと、役場やホテルのある迫(さこ)の辺りを想像するかも知れないが、辻谷さんのご自宅は、もっと南の「柏木」。修験者の宿として知られる「朝日館」から、さらに山道を奥に登ったところにある。

ここで生まれた辻谷さんは、小六で終戦を迎える。食糧難で、山菜や木の実はもちろん、わなを仕掛けてウサギやヤマドリを獲ったり、ゴムパチンコでハトを撃ったり。川魚も釣ったり、ヤスで突いたり。たくましく生きた辻谷少年は、健康優良児として表彰されたそうだ。

▼進学を諦め山仕事に
辻谷さんは成績が良かったので、師範学校(現在の奈良教育大学)への進学を希望したが、経済的理由で断念。隣の集落(上多古)にある親類の材木商に就職する。1949(昭和24)年のことである。仕事内容は下草刈り、木材の運搬、皮むきなど。酒樽(だる)の材料となる樽丸作りの手伝いもした。

終戦直後は動力があまり入らず、ほとんどの仕事が人力だった。斜面に4㍍の材を縦に敷き詰めて樋(とい)のようにした「修羅」や、橇(そり)のような「木馬(きんま)」を使い、出材した。山から下ろした材を運び出すのには、筏(いかだ)を使った。長さ4㍍の丸太で小さな筏を作り、それを10ほどつなぐ。これで川上村大迫から、吉野町上市まで運んだ。筏は、トラックが普及する1951(昭和26)年頃まで使われていたという。

▼再造林のため苗木を作る
1952(昭和27)年頃から、戦時中に強制伐採された山で再造林が始まり、苗木作りが盛んになった。辻谷さんも、畑にスギやヒノキの苗木を植えて育てた。それを山守(山の管理者)に買ってもらう。その苗は、辻谷さんが雇われ、整地して植えた。成長するにつれて下草刈り、枝打ちするのも辻谷さん。〈他人の山の木を全部自分が育てたことになります〉。

▼テレビCMに大きな反響
営林署から法人化の要請を受け、辻谷さんはヤマツ産業を設立した。当初の仕事は、国有林の請負がほとんどだったが、国有林の赤字が問題となり、経費削減で仕事が減った。しかし作業員は多いときで30人以上を抱えていた。そこでテレビCMを打つことを思いついた。

試しに奈良テレビ放送に問い合わせてみると、30秒のスライド式の静止画にコメントを流すだけだと、週に1日(2回)放送で、月5万円だった。

効果は絶大で、奈良県全域や京都府南部から仕事が舞い込んだ。民有林や森林組合のほか、神社からも「参道の大木を切り倒してほしい」という依頼が来た。テレビのおかげで仕事が増えて対応できなくなり、CMは2年で打ち切った。仕事量はCM前の5倍に増えたという。

▼達っちゃんクラブで20年
辻谷さんは65歳でヤマツ産業をご子息に任せ、翌年の1999(平成11)年、都市住民との交流により村と林業を活性化させたいという思いから、「達っちゃんクラブ」を立ち上げた。年6回程度、山の観察、山菜採り、郷土料理作りなどを行い、2018(平成30)年に活動を終えるまで、20年間で延べ約8300人が参加されたそうだ。

山仕事で村の経済を回すとともに後継者を育て、リタイヤ後は村と林業への貢献に努める。素晴らしい人生でした、合掌。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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