奈良新聞「明風清音」欄に、月1~2回、寄稿している。先週(2024.8.15)掲載されたのは、「読書する余裕ある社会」。ベストセラー街道をひた走る三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を紹介した。
読む前は、端的に「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という疑問に答える本だと思っていたが、そうではなかった。私は〈若い女性のおしゃべりに長々と付き合わされ、「いつ本題に入るのだろう」と不安に思っていた〉と書いたが、これは正直な気持ちだった。
しかし最終章に近づくと、「読書はノイズになった」「半身(はんみ)で働く社会をめざそう」など、興味深い話が登場するので、お楽しみに。では、以下に全文を紹介する。
出版社は、こんなにたくさんのカラフルな「帯」を用意していた!
読書する余裕ある社会
今や16万部を超えるベストセラーとなった三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読んだ。
版元の紹介文には〈「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。(中略)自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿(たど)る〉。
著者の三宅さんは、文芸評論家で、今年で30歳。本書はストレートに「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を書いた本というより、明治以降の働く日本人の読書への向き合い方について紹介した本である。若い女性のおしゃべりに長々と付き合わされ、「いつ本題に入るのだろう」と不安に思っていたところ、最終章(第10章)に近づいて、やっと全貌がつかめた。以下、第9~10章から、本書の要点を紹介する。
▼読書は教養からノイズに
明治時代から昭和の戦後まで、読書は教養だった。オイルショックからバブル期までは娯楽。バブル崩壊後からは、「ノイズ」(余計な情報)になった。
〈現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった〉。ファスト社会にあって読書は「ノイズ込みの知」、情報は「ノイズ抜きの知」。だから読書はできなくても、インターネットはできるのだという。
▼本で他者の文脈に触れる
〈本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。(中略)だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる〉。
〈自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ〉。
▼半身で働く社会へ
〈しかしこの社会の働き方を、全身でなく、「半身(はんみ)」に変えることができたら、どうだろうか。半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。仕事だけではないかもしれない。育児や介護、勉強、プライベートの関係、そういったもので忙しくなるとき、私たちは新しい文脈を知ろうとする余裕がなくなる〉。
〈新しい文脈を知ろうとする余裕がないとき、私たちは知りたい情報だけを知りたくなる。(中略)長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。それはまるで、新しい交友関係を広げるのに疲れたときに似ている〉。
〈日本はヒロイックなまでに「無理して頑張った」話が美談になりがちではないだろうか。高校野球とか、箱根駅伝とか、情熱大陸とか……〉。〈働きながら本が読める社会をつくるために。半身で働こう。それが可能な社会にしよう。本書の結論は、ここにある〉。
「半身で働く社会」、実現は難しそうだが、働き方改革が言われる今、興味深い提案である。 (てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
読む前は、端的に「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という疑問に答える本だと思っていたが、そうではなかった。私は〈若い女性のおしゃべりに長々と付き合わされ、「いつ本題に入るのだろう」と不安に思っていた〉と書いたが、これは正直な気持ちだった。
しかし最終章に近づくと、「読書はノイズになった」「半身(はんみ)で働く社会をめざそう」など、興味深い話が登場するので、お楽しみに。では、以下に全文を紹介する。
出版社は、こんなにたくさんのカラフルな「帯」を用意していた!
読書する余裕ある社会
今や16万部を超えるベストセラーとなった三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読んだ。
版元の紹介文には〈「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。(中略)自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿(たど)る〉。
著者の三宅さんは、文芸評論家で、今年で30歳。本書はストレートに「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を書いた本というより、明治以降の働く日本人の読書への向き合い方について紹介した本である。若い女性のおしゃべりに長々と付き合わされ、「いつ本題に入るのだろう」と不安に思っていたところ、最終章(第10章)に近づいて、やっと全貌がつかめた。以下、第9~10章から、本書の要点を紹介する。
本書に掲載されていた表
▼読書は教養からノイズに
明治時代から昭和の戦後まで、読書は教養だった。オイルショックからバブル期までは娯楽。バブル崩壊後からは、「ノイズ」(余計な情報)になった。
〈現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった〉。ファスト社会にあって読書は「ノイズ込みの知」、情報は「ノイズ抜きの知」。だから読書はできなくても、インターネットはできるのだという。
▼本で他者の文脈に触れる
〈本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。(中略)だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる〉。
〈自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ〉。
▼半身で働く社会へ
〈しかしこの社会の働き方を、全身でなく、「半身(はんみ)」に変えることができたら、どうだろうか。半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。仕事だけではないかもしれない。育児や介護、勉強、プライベートの関係、そういったもので忙しくなるとき、私たちは新しい文脈を知ろうとする余裕がなくなる〉。
〈新しい文脈を知ろうとする余裕がないとき、私たちは知りたい情報だけを知りたくなる。(中略)長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。それはまるで、新しい交友関係を広げるのに疲れたときに似ている〉。
〈日本はヒロイックなまでに「無理して頑張った」話が美談になりがちではないだろうか。高校野球とか、箱根駅伝とか、情熱大陸とか……〉。〈働きながら本が読める社会をつくるために。半身で働こう。それが可能な社会にしよう。本書の結論は、ここにある〉。
「半身で働く社会」、実現は難しそうだが、働き方改革が言われる今、興味深い提案である。 (てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)