tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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今井町で学ぶもてなしの心(第4回古社寺を歩こう会)PARTⅠ.

2009年09月20日 | 古社寺を歩こう会
おかげさまで第4回古社寺を歩こう会「今井に学ぶもてなしの心」は、9/12(土)、盛会裡に終了した。お世話いただいた今井の皆さん、有り難うございました。

今井町(奈良県橿原市)内の文化財の数々をご案内いただき、町の成り立ちやこれまでの歴史、住民の暮らし、現在の町並み保存や町おこしの活動まで、いろんなことを学ばせていただいた。このツアーの様子を、午前と午後の部に分け、今日と明日の2回にわたり時間順に紹介させていただきたい(午後の部はこちら)。

当日は午前9時半、今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」で受け付け開始。参加者は計37人(うち子供さんが1人。男女別では、男性22人、女性15人)であった。うち17人は当ブログ読者の皆さん、20人は会社の同僚など県内在住者。中には葉山町(神奈川県)から駆けつけて下さった「南都」さんや、京都にお住まいの「ヨシノ」さん「アスカ」さん姉妹、今井に関する卒論を執筆中のF嬢もおられた。午前10時から、西川禎俊氏(今井町町並み保存会会長)などの挨拶と、若林稔氏(同副会長)によるオリエンテーションが始まった。


若林さん(保存会副会長)のオリエンテーション

《「今井町」は、江戸時代からの町家・町並みのたたずまいを、今も生活の中で残している。国指定の重要文化財が9件、県指定と市指定の文化財がそれぞれ3件と6件あり、文化財の多さも全国有数であるが、何より特筆されるのが、今でも、600軒余りの町家の大半が江戸時代の姿を残し、その中で日々の生活を営みながら町を守ろうという姿勢であろう》(財団法人南都経済センター「観光まちづくりレポート」『センター月報』09年6月号)とあるが、全く同感である。
http://www.nantoeri.or.jp/pdf/c006/0906kankou.pdf


岩井芳春氏(茶人の扮装の方=第1班リーダー)の説明

《古くは興福寺一乗院の荘園であった。畿内一向一揆終焉後の天文2年(1533年)、今井に一向宗の道場がたてられたが、興福寺一乗院の国民越智氏によって幾度も破却される。永禄年間に顕如により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部卿)が門徒や在郷武士・牢人とともに称念寺を中心とする寺内町をつくった。 中世の今井庄環濠集落を母体として発展し、東西南北の他、新町・今町の6町が成立した》(Wikipedia「今井町」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E7%94%BA


南町生活広場の一角に復元された旧南口門

華甍で2班(ブログ読者グループと会社の同僚グループ)に分かれた。第1班のリーダーは岩井芳春氏(保存会常任理事)、第2班のリーダーは井上芳光氏(同会厚生部長)だった。私は読者グループ(第1班)に入ったので、写真はこのグループの行動が中心になっている。華甍を出てまず向かったのが復原整備された「旧南口門」(南町生活広場)だ。《東方に80tの耐震性防火水槽を埋設し、西方に「旧南口門」「番屋」「土居」「環濠」を多少の位置変更はありますが復元整備をし、生活広場としています。門は、古絵図、その他資料をもとに、一間薬医門、切妻造、本瓦葺とし、築地塀を付属、土居、環濠も旧のイメージを踏襲しました。江戸時代、9ヶ所の門がありましたが、今回1ヶ所のみ整備し、活用しています》(橿原市の観光サイト)。写真手前の砂利は、かつての環濠をかたどったもの。
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/spot/imai/koukyou.html

最初にお邪魔したお家が、重要文化財・豊田家住宅。《「都市住宅の始まりを伝える江戸初期の町家」伝統的な都市住宅の先駆けと評価される豪商の住まい。江戸初期に建てられた塗り屋造りの町家は、農家の名残も見せつつ、町家らしい特徴も現れ、力を持ち始めた町衆の心意気が伝わってきます。「町家の成り立ちを知らせる貴重な文化財と町並み」日本の伝統的住宅は16~17世紀、寺社建築の様式を採り入れながら農家から町家へと発展する中で形作られたと言われています。豊田家は、町家として全国でも五指に入る古さとされ、国の重要文化財として保存されています》(パナソニック電工のHP)
http://www.sumu2.com/bunka/2009_0624/index.html


第1班には西川やす子さん、若林昭子さん、若林和代さん、第2班には
戸村幸子さん、工藤映子さんが付き添って下さった。有り難うございました

《豊田家は、福井藩の蔵元も務めた木材豪商が1662年(寛文2年)に建築。建物正面2階の壁の両端に、「丸に木」の字の家紋があることから「西の木屋」と呼ばれてきました。外観は、城郭建築に見られる入母屋の本瓦葺き。壁は軒裏まで漆喰を厚く塗り上げた防火構造です。この時代の民家が京都でも江戸でも板葺、草葺が多かったことを考えると破格の豪壮さといえます。建物の内部も太い柱や高い梁など、町家として最高級の仕上がりとなっています。間取りは、広い土間に接して3室が並び、その奥にまた3室が並行する6間取り。当時の町家では一般的な間取りです》(同)。



《屋敷は広い土間からもわかるように、農家の造りが見られますが、天井裏の小屋組や差し鴨居など町家の特徴がすでに現れているところから、町家の先駆け的な家であることがわかります。農家から町家と変わった日本の伝統的な住まいの様式が随所に現れており、今の住まいの源流を見る思いがします》(同)


向かって右下辺りに、駒つなぎが2つ見える

豊田家の前で「駒つなぎ」のことを説明していただいた(トップ写真とも)。《駒つなぎ:牛馬を繋いだ環。江戸時代、大名貸しや蔵元、掛屋などの家に取り付けてあり、借金に来た武士が馬を繋いだもので、環のうけが大きい程、身分の高い家とされていた。今井町では今西家のものが一番大きい。普通の商家では牛つなぎだけである。牛馬を繋ぐのにも今井では定めが作られた》(『江戸期の民家集落:今井寺内町/今井町町並み保存会編』)。






駒つなぎをデザイン化したもの。画像は、この日参加されたKさん(生駒市菜畑)にいただいた

駒つなぎには、低い位置のもの(人間の膝の高さくらい)と高い位置のもの(胸の高さくらい)がある。通常だと、低い位置が牛つなぎ、高い位置が馬つなぎ、と思うところだが、実は逆で「低い位置が馬つなぎ、高い位置が牛つなぎ」である。馬は首を低くするとおとなしくなる(エサ台の高さなので、おとなしくしてエサを待つ)。牛は逆で、角を突き立てて突進するとき首を低くする。この習性を利用してつなぐ位置を考えたものだというしかも通行の邪魔にならないよう、駒つなぎは道の北側にしか設置できなかったそうだ。



写真向かって右が重要文化財・今西家住宅(公開はしていない)。この住宅は《慶安3年(1650年)に建てられた城郭のような構造の民家で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八つ棟造り」と呼ばれている建物である》《現在の今井町には今西家住宅と同様に外壁を大壁で包んだ古い町並が続いているが、これは寺内町今井の町造りが完成した江戸初期から中期・末期に栄えた今井町の町並の形態が現在まで残されてきたわけである》《この古い町並の外周には環濠跡を現在に残している》(以上、Wikipedia「今西家住宅」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85

こちらは今井町にあって貴重な和風喫茶「町家茶屋 古伊(ふるい)」。立ち寄る時間はなかったが、nakaさん&にっしゃんのブログ「奈良に住んでみました」によると《江戸時代の中期より、13代にわたって修繕を重ねながら使われてきた古民家だそうです。初代から8代目までは「古手屋(古着商)」を営まれていたそうで、その時の屋号「古手屋伊兵衛」から今の店名となったのだとか。さすがに歴史ある建物だけあって、真っ白い壁や格子窓などからは、町屋そのもののような風情が感じられます。店の外に並べられた酒の甕のようなものや、暖簾などの小道具もいいですね》。
http://small-life.com/archives/08/02/2422.php



《店内に入っても、落ち着いた雰囲気がタップリ。今井町を散策した後にこんなお店で一服できれば言うことナシですね。店内には観光情報誌なども置いてありましたので、そんなものを眺めながらのんびりするのもいいかもしれません。この日、あまりにも寒かったので、私たちは二人とも「ぜんざい(@400円)」を食べました。お値段もそこそこですし、味も悪くなかったですね。このレベルならば、今井町に来た際にはまた立ち寄ってもいいかなと思えるレベルだと思いました。場所もとても分かりやすいですので、今井町へ出かけた際にはぜひどうぞ》。


若林さん(今井町町並み保存会・副会長)。とてもパワフルで、今年69歳とは思えない

ちょうどお腹も空いてきた頃、重要文化財・旧米谷家(こめたにけ)に到着。こちらは《屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で、18世紀中頃の建築と推定される。また、嘉永2年(1849年)には、内蔵、蔵前座敷を増築している。近年まで内蔵が3棟あったが、現在は1棟のみになっている。内部は無料で一般公開されている》。「旧」がつくのは、現在ここが国有の建物となっているからである。子供さんたちが、祭り太鼓で迎えて下さった。


今井町子供太鼓の皆さんがお迎え

ここで今回のツアーの目玉「大和今井の茶粥」をいただいた。保存会の方は、わざわざこの昼食のためにカラーのリーフレットまで作って下さっていた。そこには《大和は遣唐使によって日本で最初に茶が入り、高貴な薬として利用されたのが始まりで、茶粥はその後、米食文化の中で、質素倹約の心意気もあって根づいていきました。古来からの伝統食で、特に大和では、ごく最近まで1日1膳は食していました。飽食の時代の今だからこそ、そして大和の今井でこそ見直してみたい食の1つとしてとことんこだわった形で復元しましたとある》。



リーフレットには、食材や食器の一覧も書かれている。全文を引用すると《茶葉~遣唐使によって渡来し、日本で最初に茶の木が植えられた大和高原の無農薬、自然栽培茶を使用 米~明日香村稲渕の千枚田で獲れた棚田米 水~吉野天川村洞川(どろがわ)のごろごろ水 漬物~下市町広橋の梅干し、今井町河合酒造の奈良漬 デザート~大峰山洞川の吉野葛で作った葛餅》。あと、吉野葛を使ったごま豆腐もいただいた。ごろごろ水は、大村眞司氏(保存会文化部長)がわざわざ洞川まで汲みに行って下さったそうだ。大村氏は大村酒店のご主人で、お店の外観は景観に配慮した立派な造りである(華甍近くの今井町2丁目4-18)。



《食器~赤膚焼。赤膚山元窯の登り窯で今井の駒つなぎ、軒瓦(のきがわら)を特別に意匠して制作した茶碗・皿・箸置 膳~柿渋染めランチョンマット。今井町河合酒造の柿渋、柿は大和の名産で古くから柿渋が清酒清澄剤、血圧を下げる薬、木地食器等木製品に塗布するなど、生活に取り入れられていました。ランチョンマットは『大和今井の茶粥』と和紙に墨書してその上から柿渋を塗布し、若者たちが夜なべをして裏打ちをしました 箸~吉野の割り箸(吉野杉の端材を活用している。生産は日本一) 杓(しゃく)~硬くて丈夫な栗の木を匠の手でくりぬいた一品》。すべて地産地消にこだわった、素晴らしいおもてなしである。さすが「もてなしのまちづくりモデル地区」に選ばれただけのことはある。


旧米谷家では、米田美知代さん(保存会理事)、今井慶子さん(同常任理事)
はじめ、約15人ものスタッフの方にお世話いただいた。全員写せなくて失礼!

「これはうまい。昔食べていた茶粥と全く同じ味や」という声が聞こえる。何しろ、文化財の住宅に保存されている竈(かまど)を使い、薪で炊いていただいたお粥である(文化庁許可済み)。お粥もおかずもデザート(茶碗の左上にチラリと見える)も、とても美味しかった。利休箸(両端が尖っている割り箸)と手描きの箸袋は、持って帰らせていただいた。私はこの記事を書いているうちに無性に茶粥が食べたくなり、昼食に茶粥を炊いた。炊飯器ではあるがミネラル水を使い、それに王隠堂農園(五條市西吉野町)の有機梅干と、八木小倉屋の「七福かけ」(黒ごまや黒豆など7種類をブレンドした健康ふりかけ)を添え、この日の気分を再現した(つもりになった)。
http://www.yagioguraya.co.jp/cgi-bin/yagioguraya/siteup.cgi?&category=2&page=0&view=&cart=detail&no=13



奈良テレビ放送のニュース取材も入り、昼食会は終始賑やかに進められた。食事の後は、竈(かまど)や中庭などを見学させていただいた。続きは、また明日に書かせていただくことにする。
※若林さんのホームページはこちら。この「歩こう会」のように、グループで今井を訪ねたい方は、若林さんにご相談いただきたい。
http://homepage3.nifty.com/syodou-yamakitiman/

今回参加された銀とき子さん(福井県出身。ご結婚後、奈良県在住)が一足先に「独語力。」というご自身のブログでこのツアーを紹介されているので、ぜひお読みいただきたい。銀さんはとてもきれいな方で、着物で今井町を回られ、ムードを大いに盛り上げていただいた。
※「今井町で感動のおもてなし」(独語力。)
http://cherry.blog.eonet.jp/tokiko/2009/09/post-d9a8-1.html
コメント (4)
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