今日は「古社寺を歩こう会」(9/12)午後の部を紹介する(午前の部はこちら)。この会でお世話いただいた町の方は約30人、各町家の皆さんを加えると約45人に上るという。私たちのためにたくさんの方におもてなしいただき、心からお礼申し上げます。
今井の歴史を復習すると《江戸時代には大商人がひしめき繁栄を誇った。町史によれば、元禄2(1689)年の「今井町覚書」に「市歴史的な町並みを大切に守っている橿原市今井町中交易繁美にして商家の都の地にひとしく、諸大名御旗本の蔵元賄御用達輩当処より勤するの家柄も数多く…」とある》(奈良の食文化研究会『出会い 大和の味』奈良新聞社刊)。
「ええ古都なら」(南都銀行提供)ホームページより
《明治から昭和にかけては、さしもの今井町も衰退に一途をたどり、歴史の表舞台から退いて静かな住宅地となったが、住民の方々の町並み保存の努力により、今も江戸時代の様式を保った民家が軒を連ねる。昔ながらの街路には、ガス灯を思わす街灯がともり、街全体が文明開化の時代の雰囲気を醸し出している》(同)。
「海の堺、陸の今井」というが、今井と堺は商取引だけでなく、古くから縁があった。堺の豪商で茶人の今井宗久(いまい・そうきゅう)は、今井の生まれなのだ。《安土桃山時代の堺の商人、茶人である。子に今井宗薫。家系は尼子氏の一族とも。千利休、津田宗及と共に茶の「三大宗匠」と称せられた》(Wikipedia「今井宗久」)。
宗久は《大和国(奈良県)今井町の出身。祖は近江佐々木氏の末裔で近江国高島郡の今井氏という。堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鷗に茶を学ぶ。やがて紹鷗の女婿となり、茶器などを譲り受けたという。1554年(天文23年)には大徳寺塔頭大僊院に百七十貫を寄進している。初めは当時軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品(甲冑製造などに用いる)の販売を扱っており、それによって財をなした》(同)。宗久は近江国(滋賀県)高島郡の生まれという説もある。なお武野紹鷗は大和国(奈良県)吉野郡の生まれである。
宗久は《織田信長に摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鷗茄子などを献上。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる》《宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。1569年(永禄12年)には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、1570年(元亀元年)には長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬銀山を支配する。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた》(同)。
そんな今井でお抹茶をいただいた。若林さんがよく「茶道は、お手前(客の前でお茶をたてること)だけでなく、茶の心(もてなしとしつらい[設け整えること])が大切です」とおっしゃるので、お手前抜きでお抹茶と「塩屋の宗久饅頭」をいただいた。場所は重文・音村家住宅(もと金物問屋)のお座敷である。こちらでは友村久子さん(若葉会会長)はじめ約10人の方にお世話いただいた(トップ写真)。
宗久饅頭に説明がついていた。02年(平成14年)の「第7回今井町並み散歩」の茶席の菓子として創作されたのが始まりで《江戸時代から塩谷玉泉堂で製造されていた「薯蕷饅頭」に遠く思いを馳せながら、お茶の味を一層引き立ててくれる味をと考え、甘みを抑え、ちょっぴり塩味を効かせてみました》とある。薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)は「上用饅頭」とも書かれ、山芋の粘りで米粉(薯蕷粉、上新粉)を練り、その生地で餡を包み蒸し上げた饅頭のことで、南北朝時代に、奈良の林浄因が考案したものだ。制作協力に山本鈴音堂(橿原市兵部町)の名前があった。店頭には置いていないが、予約すれば買える。
http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/8gatsu/my01825-1.html
お茶(宇治の抹茶)は熱々でたっぷり入り、塩屋の宗久饅頭は皮の塩味が餡の甘みを引き出している。立派な茶道具も拝見した。床の間には「お峰山(畝傍山)から今井を見れば 今井千軒お手の下」という俚謡が墨書されていた。参加者には茶道を嗜んでいる方もいらっしゃったので、大変喜んでおられた。
音村家住宅では、田川欽三氏(通産大臣指定伝統工芸士 名筆匠)に筆づくりの実演を見せていただいた。「万葉ラブストーリーでやってましたね」と申し上げると「あれは私が指導したのやが、長いこと待たされてしもうて…」と苦笑しておられた。様々な獣毛を取り混ぜながら、手早く1本の筆に仕上げるさまは、さすが名匠の技である。田川氏は奈良市南京終町にお住まいなのに、「歩こう会」のために駆けつけて下さったのである。
今井が舞台になった「ドラマ 万葉ラブストーリー 春」は、この9/23(水)13:50~14:33、NHK総合テレビ(全国ネット)で再放送されるので、お見逃しなく(全3話のうち第2話「愛しき、古」が今井の筆職人の話で、若林さん宅でロケが行われた)。
http://www.nhk.or.jp/nara/manyou/oshirase.html
こちらは称念寺(しょうねんじ)。寺内町今井の中核的存在である。本堂内はご住職に案内していただいた。《平安時代に興福寺の荘園として開発されていた今井町周辺に、現在のような町がつくられたのは中世・戦国時代。石山本願寺は、支配権の争いから絶えず戦乱の場であったこの地に、一門の今井兵部卿豊寿を送りこんだ。彼は戦さで散っていった人々を呼び戻し、自衛のための濠をめぐらせた城塞都市を建設、そのとき一向宗の道場として再建したものが、のちに称念寺に発展した。今井町は「今井御坊」とも呼ばれる称念寺を中心に発展した寺内町(じないちょう)である》(南都銀行の「ええ古都なら」HP)。
http://www.nantokanko.jp/mytown2006092.html
《山門前で見上げる太鼓楼(県指定文化財)は新しいものだが、境内右手に建つ本堂(重要文化財)は江戸時代に再建された大規模な入母屋造り。浄土真宗の本堂として典型的な様式をもつ。しかしこの本堂と山門を入った正面の庫裏(くり)は、もともと老朽化が進んでいたところに、平成8年の台風で大きな被害をこうむった。現在もその傷跡は痛々しく、一日もはやく称念寺を復興することは、住職はじめ今井町の人々の願いだ》(同)。お寺は「大地震が来ると危いな」という状態であるが、2011年から修復がスタートする予定だそうだ。
《山門前には「明治天皇行在所(あんざいしょ)」の石碑が建つ。明治10年の畝傍御陵行幸(うねびごりょうぎょうこう)のときに宿泊所となったのを記念して建てられたもので、このとき寺には長屋門しかなかったため、談山神社から表門を移築したという驚愕のエピソードも残る。ちなみに明治天皇は、称念寺での滞在を短くせざるを得なかった。明治政府樹立後、不満分子の残る九州から、「西南の役」ぼっ発の第一報を受けたためだ。知られざる歴史の一日を刻む称念寺である》(同)。
こちらは尾崎家。今西家、上田家とともに今井の惣年寄を務めていたお家だ。茶人・尾崎喜助(尾崎家3代目)は、小堀遠州や古田織部などとも交流があったという。現在は空き家になっているが、「歩こう会」のためにご家族がわざわざ遠方から拭き掃除に来られ、保存会の方は庭の草を刈って下さったそうである(この日も鍵を開けるため、お1人来ておられた)。申し訳なくて頭が下がる。
これは上田家。《珍しく、西側に入口を開いていて、道路から半間ほど下がって建っています。入母屋造りで、18世紀の中頃の建築と思われます。上田家は、元亀2年(1571)に今井に移住し、17世紀の前半から、今西・尾崎家と共に、惣年寄を務めていました。惣年寄の中でも司法を担当した家柄でした。そのため、旗指物や火事装束・手錠などが多数残されています》(真神原風人さんのHP)。司法担当だったから、家の前(画像の建物と石塀の間)にはお白洲(罪人を取り調べる場所)があったそうだ。
http://sanzan.gozaru.jp/imai/im5/imai-5.html
挨拶される保存会・西川会長
午後3時の(一旦)解散場所は順明寺だった。ここは《本願寺派寺院。もとは、多田源八郎仲貞が親鸞聖人の弟子となって十市郡新賀庄で堂を建てたのが始まりという。鎌倉時代のことだ。時は経って、1626(寛永3)年に了恵が堂を今井に移したという。その後衰退したのを1680(延宝8)年に隆元が再建し現在に至っている。明治時代には英昭皇太后が宿をとった》(美と歴史HP)。瓦には、菊の御紋がついていた。
http://www.digistats.net/usakoji/m/06/1459.htm
順明寺で一旦解散したが、希望者は午後4時半から、町の方と打ち上げ(懇親会)に参加した。それまでの間、私たちは若林さんのご案内で再び町を散策したが、そのとき目に止まったお店を紹介しておく。
まずは恒岡醤油醸造本店。《明治時代から続く老舗。濃口かけ醤油の『夢ら咲』が主流。「醤油は春夏秋冬の四季を経て、風味が出てくる」と4代目店主・新一朗さんが話す通り、杉樽でじっくりと1年余りかけて醸造する。土産として買った観光客からリピーターも続出する人気ぶり》(奈良っ子の「地醤油特集」)とある。私は「夢ら咲(むらさき)」200ml入り370円を買い求めたが、コクのある甘口醤油(みりん添加)なので、刺身や卵かけご飯にピッタリだ。
http://www.narakko.com/tokusyuu/soysauce/kataoka.html
はにわ饅頭は、2年前に今井を訪ねたときに買い求めた。ふんわりしたカステラ風の皮にほどよい甘さの餡が入る。橿原神宮の皇紀2600年祭に際し、今井の琴福堂が1940年(昭和15年)に発売して以来、人気の菓子だったが、後継者が途絶えてしまい、1年半ほど製造がストップしていた。
http://www1.kcn.ne.jp/~oakhotel/haniwa/haniwapage.htm
しかし橿原オークホテルが、これを途絶えさせてはいけないと商標権を譲り受け「はにわ本舗」として製造を再開した。
http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/9gatsu/my01929-1.html
ヨシノさん姉妹や銀とき子さんは「大和御用達(やまとごようたつ)by 十返舎」という漬物と甘味喫茶のお店に入られた。「とても美味しかったので、お薦めします」とのこと。
http://blog.livedoor.jp/goyotatsu/?blog_id=2274660
画像はお店のHPより
さて、いよいよ懇親会である。場所は「今井まちや館」。《18世紀初期の町家。明治以降は空き家で老朽化していましたが、調査の結果、指定民家にも劣らない貴重な建物であることが判明。現在は当初の姿に復元され、資料館として公開されています。1階には土間や「しもみせ」がある、2列6間という大型民家の間取りです。周りの敷居が高くなった「帳台構え」、必要に応じて全開、半開できる「あげ戸」など、当時の建築手法を目のあたりにできます》(奈良ビジターズビューローのHP)。ツアー参加者19人に町の方4人が加わり、計23人の大宴会となった。
ここでサプライズがあった。今井の河合酒造さんが「宗久」という日本酒を醸造され、この日初めて口切していただいたのだ(「宗久」の字は若林さんの揮毫)。保存会の西川会長と歩こう会世話役のN先輩が、それぞれ1升瓶と4合瓶を開け、乾杯した。キリリとよく冷えた「宗久」は、やや辛口・重め(アルコール度数は18~19度)の美味しいお酒であった(「宗久」は、この日から発売開始。その後、販売は好調とのこと)。
http://homepage3.nifty.com/nara-sake/kuramoto/kawai.html
河合酒造(河合家住宅)は《酒造業を営む商家である。主屋は南面し西妻を切妻・東妻を入母屋造りとし、本瓦葺・二階建で南と東を道路とする角地に建つ。内部は平入り東側を通り土間とし西側に2列3室の床上部がある。この建物は今井町の古い町家の痕跡が残る過渡期の町家である》(NPO法人全国重文民家の集いのHP)。
http://www.jminka.gr.jp/blocphot/kink/nrphot/nrkawai.htm
乾杯の音頭は西川会長。左奥は第2班リーダーの井上芳光氏
懇親会では、町の皆さんへのお礼やこの日の感想を1人ずつ順番にお話しさせていただいた。歩こう会の全員から、温かいおもてなしへのお礼の言葉があった。町の方からは、今井の保存や町おこしについての貴重なお話を聞かせていただいた。
私はこれまで何度も今井を訪ねているが、ここまで丁寧に見せていただいたのは初めてである。今井は《明治期には近隣(今井町の北側=順明寺の北あたり)に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対したことから都市化を免れることができた(畝傍駅として開業)。それゆえ現在も、町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されている。ただし中には廃屋同然に放置された建物も存在し、空家対策が必要である》(Wikipedia「今井町」)とあるように、空き家問題が深刻化している。
歩こう会世話役のN先輩。「宗久」を手に、とても嬉しそうだ
この問題に取り組むため、06年3月、NPO法人今井まちなみ再生ネットワークが発足した。《老朽化し空き家となっている建築物や放置された空き地が100件以上もあり、町の活性化をさまたげ、景観が失われつつあります。また江戸時代前期には、4,400人の人口があり、にぎわっていましたが、現在は、1,300人あまりとなり、活性化されないことはもとより、コミュニティを維持することができず崩壊するのではないかという危機感を私たちは持っています》《今後、空き家の再生、再活用を中心としたまちづくり活動をすすめていきたいと考えます》(以上、同法人のHP)。このNPOの中心的な事業が、空き家と新たな居住者をマッチングさせる事業であるが、これを発展させた形で、県下全域を対象とした「町家バンクネットワーク」構築に向けての取り組みも進んでいる。
http://web1.kcn.jp/imaisaisei-net/
観光面で今井は、たくさんの人が訪ねる有名観光地(マスツーリズムの対象)としての発展は望んでおられない。今井を知りたいという目的を持った人々だけを対象としたツアーの受け入れを主眼としている。いわば「着地型観光」である。若林さんは《「歩こう会」は、これまで「家庭画報」(07年11月号)や「ミセス」(08年10月号)が募集されたツアーの3度目という位置づけになる。今後も、このようなツアーを実施したい。そのため人材育成など、受け入れ体制を整備していきたい》とおっしゃる。 人気雑誌で募集され、各80人も参加されたツアーと「歩こう会」を並べていただくのは僭越ではあるが、趣旨は同じということなのだろう。
若林副会長
全国に通俗観光地、がっかり名所は掃いて捨てるほどある。時代は物見遊山型の団体旅行から、個人旅行や特定目的のグループ旅行にシフトしている。だから、今井のめざす方向は間違っていない。
※若林さんのホームページ。今井の動きがよく分かる
http://homepage3.nifty.com/syodou-yamakitiman/
高齢化、空き家問題と今井が直面する課題は少なくないが、前向きな取り組みも活発だ。今回の「歩こう会」で拝見した町衆の一致団結力で、この困難を乗り切り、優れた観光資源と温かい「もてなしの心」で、素晴らしい「日本一の歴史景観都市」の名を全国にとどろかせていただきたいものだ。
今井の皆さん、有り難うございました。また帰らせていただきます!
※参考:今井町の「もてなし」は「まごころ」満点 (歩こう会参加の南都さんのブログ)
http://kichinosuke-kai-dog.blogspot.com/2009/09/blog-post_20.html
今井の歴史を復習すると《江戸時代には大商人がひしめき繁栄を誇った。町史によれば、元禄2(1689)年の「今井町覚書」に「市歴史的な町並みを大切に守っている橿原市今井町中交易繁美にして商家の都の地にひとしく、諸大名御旗本の蔵元賄御用達輩当処より勤するの家柄も数多く…」とある》(奈良の食文化研究会『出会い 大和の味』奈良新聞社刊)。
「ええ古都なら」(南都銀行提供)ホームページより
《明治から昭和にかけては、さしもの今井町も衰退に一途をたどり、歴史の表舞台から退いて静かな住宅地となったが、住民の方々の町並み保存の努力により、今も江戸時代の様式を保った民家が軒を連ねる。昔ながらの街路には、ガス灯を思わす街灯がともり、街全体が文明開化の時代の雰囲気を醸し出している》(同)。
「海の堺、陸の今井」というが、今井と堺は商取引だけでなく、古くから縁があった。堺の豪商で茶人の今井宗久(いまい・そうきゅう)は、今井の生まれなのだ。《安土桃山時代の堺の商人、茶人である。子に今井宗薫。家系は尼子氏の一族とも。千利休、津田宗及と共に茶の「三大宗匠」と称せられた》(Wikipedia「今井宗久」)。
宗久は《大和国(奈良県)今井町の出身。祖は近江佐々木氏の末裔で近江国高島郡の今井氏という。堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鷗に茶を学ぶ。やがて紹鷗の女婿となり、茶器などを譲り受けたという。1554年(天文23年)には大徳寺塔頭大僊院に百七十貫を寄進している。初めは当時軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品(甲冑製造などに用いる)の販売を扱っており、それによって財をなした》(同)。宗久は近江国(滋賀県)高島郡の生まれという説もある。なお武野紹鷗は大和国(奈良県)吉野郡の生まれである。
宗久は《織田信長に摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鷗茄子などを献上。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる》《宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。1569年(永禄12年)には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、1570年(元亀元年)には長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬銀山を支配する。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた》(同)。
そんな今井でお抹茶をいただいた。若林さんがよく「茶道は、お手前(客の前でお茶をたてること)だけでなく、茶の心(もてなしとしつらい[設け整えること])が大切です」とおっしゃるので、お手前抜きでお抹茶と「塩屋の宗久饅頭」をいただいた。場所は重文・音村家住宅(もと金物問屋)のお座敷である。こちらでは友村久子さん(若葉会会長)はじめ約10人の方にお世話いただいた(トップ写真)。
宗久饅頭に説明がついていた。02年(平成14年)の「第7回今井町並み散歩」の茶席の菓子として創作されたのが始まりで《江戸時代から塩谷玉泉堂で製造されていた「薯蕷饅頭」に遠く思いを馳せながら、お茶の味を一層引き立ててくれる味をと考え、甘みを抑え、ちょっぴり塩味を効かせてみました》とある。薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)は「上用饅頭」とも書かれ、山芋の粘りで米粉(薯蕷粉、上新粉)を練り、その生地で餡を包み蒸し上げた饅頭のことで、南北朝時代に、奈良の林浄因が考案したものだ。制作協力に山本鈴音堂(橿原市兵部町)の名前があった。店頭には置いていないが、予約すれば買える。
http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/8gatsu/my01825-1.html
お茶(宇治の抹茶)は熱々でたっぷり入り、塩屋の宗久饅頭は皮の塩味が餡の甘みを引き出している。立派な茶道具も拝見した。床の間には「お峰山(畝傍山)から今井を見れば 今井千軒お手の下」という俚謡が墨書されていた。参加者には茶道を嗜んでいる方もいらっしゃったので、大変喜んでおられた。
音村家住宅では、田川欽三氏(通産大臣指定伝統工芸士 名筆匠)に筆づくりの実演を見せていただいた。「万葉ラブストーリーでやってましたね」と申し上げると「あれは私が指導したのやが、長いこと待たされてしもうて…」と苦笑しておられた。様々な獣毛を取り混ぜながら、手早く1本の筆に仕上げるさまは、さすが名匠の技である。田川氏は奈良市南京終町にお住まいなのに、「歩こう会」のために駆けつけて下さったのである。
今井が舞台になった「ドラマ 万葉ラブストーリー 春」は、この9/23(水)13:50~14:33、NHK総合テレビ(全国ネット)で再放送されるので、お見逃しなく(全3話のうち第2話「愛しき、古」が今井の筆職人の話で、若林さん宅でロケが行われた)。
http://www.nhk.or.jp/nara/manyou/oshirase.html
こちらは称念寺(しょうねんじ)。寺内町今井の中核的存在である。本堂内はご住職に案内していただいた。《平安時代に興福寺の荘園として開発されていた今井町周辺に、現在のような町がつくられたのは中世・戦国時代。石山本願寺は、支配権の争いから絶えず戦乱の場であったこの地に、一門の今井兵部卿豊寿を送りこんだ。彼は戦さで散っていった人々を呼び戻し、自衛のための濠をめぐらせた城塞都市を建設、そのとき一向宗の道場として再建したものが、のちに称念寺に発展した。今井町は「今井御坊」とも呼ばれる称念寺を中心に発展した寺内町(じないちょう)である》(南都銀行の「ええ古都なら」HP)。
http://www.nantokanko.jp/mytown2006092.html
《山門前で見上げる太鼓楼(県指定文化財)は新しいものだが、境内右手に建つ本堂(重要文化財)は江戸時代に再建された大規模な入母屋造り。浄土真宗の本堂として典型的な様式をもつ。しかしこの本堂と山門を入った正面の庫裏(くり)は、もともと老朽化が進んでいたところに、平成8年の台風で大きな被害をこうむった。現在もその傷跡は痛々しく、一日もはやく称念寺を復興することは、住職はじめ今井町の人々の願いだ》(同)。お寺は「大地震が来ると危いな」という状態であるが、2011年から修復がスタートする予定だそうだ。
《山門前には「明治天皇行在所(あんざいしょ)」の石碑が建つ。明治10年の畝傍御陵行幸(うねびごりょうぎょうこう)のときに宿泊所となったのを記念して建てられたもので、このとき寺には長屋門しかなかったため、談山神社から表門を移築したという驚愕のエピソードも残る。ちなみに明治天皇は、称念寺での滞在を短くせざるを得なかった。明治政府樹立後、不満分子の残る九州から、「西南の役」ぼっ発の第一報を受けたためだ。知られざる歴史の一日を刻む称念寺である》(同)。
こちらは尾崎家。今西家、上田家とともに今井の惣年寄を務めていたお家だ。茶人・尾崎喜助(尾崎家3代目)は、小堀遠州や古田織部などとも交流があったという。現在は空き家になっているが、「歩こう会」のためにご家族がわざわざ遠方から拭き掃除に来られ、保存会の方は庭の草を刈って下さったそうである(この日も鍵を開けるため、お1人来ておられた)。申し訳なくて頭が下がる。
これは上田家。《珍しく、西側に入口を開いていて、道路から半間ほど下がって建っています。入母屋造りで、18世紀の中頃の建築と思われます。上田家は、元亀2年(1571)に今井に移住し、17世紀の前半から、今西・尾崎家と共に、惣年寄を務めていました。惣年寄の中でも司法を担当した家柄でした。そのため、旗指物や火事装束・手錠などが多数残されています》(真神原風人さんのHP)。司法担当だったから、家の前(画像の建物と石塀の間)にはお白洲(罪人を取り調べる場所)があったそうだ。
http://sanzan.gozaru.jp/imai/im5/imai-5.html
挨拶される保存会・西川会長
午後3時の(一旦)解散場所は順明寺だった。ここは《本願寺派寺院。もとは、多田源八郎仲貞が親鸞聖人の弟子となって十市郡新賀庄で堂を建てたのが始まりという。鎌倉時代のことだ。時は経って、1626(寛永3)年に了恵が堂を今井に移したという。その後衰退したのを1680(延宝8)年に隆元が再建し現在に至っている。明治時代には英昭皇太后が宿をとった》(美と歴史HP)。瓦には、菊の御紋がついていた。
http://www.digistats.net/usakoji/m/06/1459.htm
順明寺で一旦解散したが、希望者は午後4時半から、町の方と打ち上げ(懇親会)に参加した。それまでの間、私たちは若林さんのご案内で再び町を散策したが、そのとき目に止まったお店を紹介しておく。
まずは恒岡醤油醸造本店。《明治時代から続く老舗。濃口かけ醤油の『夢ら咲』が主流。「醤油は春夏秋冬の四季を経て、風味が出てくる」と4代目店主・新一朗さんが話す通り、杉樽でじっくりと1年余りかけて醸造する。土産として買った観光客からリピーターも続出する人気ぶり》(奈良っ子の「地醤油特集」)とある。私は「夢ら咲(むらさき)」200ml入り370円を買い求めたが、コクのある甘口醤油(みりん添加)なので、刺身や卵かけご飯にピッタリだ。
http://www.narakko.com/tokusyuu/soysauce/kataoka.html
はにわ饅頭は、2年前に今井を訪ねたときに買い求めた。ふんわりしたカステラ風の皮にほどよい甘さの餡が入る。橿原神宮の皇紀2600年祭に際し、今井の琴福堂が1940年(昭和15年)に発売して以来、人気の菓子だったが、後継者が途絶えてしまい、1年半ほど製造がストップしていた。
http://www1.kcn.ne.jp/~oakhotel/haniwa/haniwapage.htm
しかし橿原オークホテルが、これを途絶えさせてはいけないと商標権を譲り受け「はにわ本舗」として製造を再開した。
http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/9gatsu/my01929-1.html
ヨシノさん姉妹や銀とき子さんは「大和御用達(やまとごようたつ)by 十返舎」という漬物と甘味喫茶のお店に入られた。「とても美味しかったので、お薦めします」とのこと。
http://blog.livedoor.jp/goyotatsu/?blog_id=2274660
画像はお店のHPより
さて、いよいよ懇親会である。場所は「今井まちや館」。《18世紀初期の町家。明治以降は空き家で老朽化していましたが、調査の結果、指定民家にも劣らない貴重な建物であることが判明。現在は当初の姿に復元され、資料館として公開されています。1階には土間や「しもみせ」がある、2列6間という大型民家の間取りです。周りの敷居が高くなった「帳台構え」、必要に応じて全開、半開できる「あげ戸」など、当時の建築手法を目のあたりにできます》(奈良ビジターズビューローのHP)。ツアー参加者19人に町の方4人が加わり、計23人の大宴会となった。
ここでサプライズがあった。今井の河合酒造さんが「宗久」という日本酒を醸造され、この日初めて口切していただいたのだ(「宗久」の字は若林さんの揮毫)。保存会の西川会長と歩こう会世話役のN先輩が、それぞれ1升瓶と4合瓶を開け、乾杯した。キリリとよく冷えた「宗久」は、やや辛口・重め(アルコール度数は18~19度)の美味しいお酒であった(「宗久」は、この日から発売開始。その後、販売は好調とのこと)。
http://homepage3.nifty.com/nara-sake/kuramoto/kawai.html
河合酒造(河合家住宅)は《酒造業を営む商家である。主屋は南面し西妻を切妻・東妻を入母屋造りとし、本瓦葺・二階建で南と東を道路とする角地に建つ。内部は平入り東側を通り土間とし西側に2列3室の床上部がある。この建物は今井町の古い町家の痕跡が残る過渡期の町家である》(NPO法人全国重文民家の集いのHP)。
http://www.jminka.gr.jp/blocphot/kink/nrphot/nrkawai.htm
乾杯の音頭は西川会長。左奥は第2班リーダーの井上芳光氏
懇親会では、町の皆さんへのお礼やこの日の感想を1人ずつ順番にお話しさせていただいた。歩こう会の全員から、温かいおもてなしへのお礼の言葉があった。町の方からは、今井の保存や町おこしについての貴重なお話を聞かせていただいた。
私はこれまで何度も今井を訪ねているが、ここまで丁寧に見せていただいたのは初めてである。今井は《明治期には近隣(今井町の北側=順明寺の北あたり)に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対したことから都市化を免れることができた(畝傍駅として開業)。それゆえ現在も、町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されている。ただし中には廃屋同然に放置された建物も存在し、空家対策が必要である》(Wikipedia「今井町」)とあるように、空き家問題が深刻化している。
歩こう会世話役のN先輩。「宗久」を手に、とても嬉しそうだ
この問題に取り組むため、06年3月、NPO法人今井まちなみ再生ネットワークが発足した。《老朽化し空き家となっている建築物や放置された空き地が100件以上もあり、町の活性化をさまたげ、景観が失われつつあります。また江戸時代前期には、4,400人の人口があり、にぎわっていましたが、現在は、1,300人あまりとなり、活性化されないことはもとより、コミュニティを維持することができず崩壊するのではないかという危機感を私たちは持っています》《今後、空き家の再生、再活用を中心としたまちづくり活動をすすめていきたいと考えます》(以上、同法人のHP)。このNPOの中心的な事業が、空き家と新たな居住者をマッチングさせる事業であるが、これを発展させた形で、県下全域を対象とした「町家バンクネットワーク」構築に向けての取り組みも進んでいる。
http://web1.kcn.jp/imaisaisei-net/
観光面で今井は、たくさんの人が訪ねる有名観光地(マスツーリズムの対象)としての発展は望んでおられない。今井を知りたいという目的を持った人々だけを対象としたツアーの受け入れを主眼としている。いわば「着地型観光」である。若林さんは《「歩こう会」は、これまで「家庭画報」(07年11月号)や「ミセス」(08年10月号)が募集されたツアーの3度目という位置づけになる。今後も、このようなツアーを実施したい。そのため人材育成など、受け入れ体制を整備していきたい》とおっしゃる。 人気雑誌で募集され、各80人も参加されたツアーと「歩こう会」を並べていただくのは僭越ではあるが、趣旨は同じということなのだろう。
若林副会長
全国に通俗観光地、がっかり名所は掃いて捨てるほどある。時代は物見遊山型の団体旅行から、個人旅行や特定目的のグループ旅行にシフトしている。だから、今井のめざす方向は間違っていない。
※若林さんのホームページ。今井の動きがよく分かる
http://homepage3.nifty.com/syodou-yamakitiman/
高齢化、空き家問題と今井が直面する課題は少なくないが、前向きな取り組みも活発だ。今回の「歩こう会」で拝見した町衆の一致団結力で、この困難を乗り切り、優れた観光資源と温かい「もてなしの心」で、素晴らしい「日本一の歴史景観都市」の名を全国にとどろかせていただきたいものだ。
今井の皆さん、有り難うございました。また帰らせていただきます!
※参考:今井町の「もてなし」は「まごころ」満点 (歩こう会参加の南都さんのブログ)
http://kichinosuke-kai-dog.blogspot.com/2009/09/blog-post_20.html
ブログです。
一度参加したいです。
> 一度参加したいです。
全く素晴らしい「おもてなし」でした。こんな素晴らしいツアーの次の「歩こう会」の企画はなかなか思いつきませんが、またその折りには、ぜひご参加下さい。
感動しているようです。
変な表現ですが・・・後から後から普段の生活の中で、
今井町の色んな場面シーンを思い出しては、
会う人会う人に今井町での体験した事をシェア(話したり思いを共有)しています。これが俗にいう語種(かたりぐさ)状態なのかと驚いています。
今回の旅は、
今井町の魅力の極上エッセンスに
tetsudaさんのプレゼンする旅の醍醐味が加わり
茶粥の一粒一粒のお米さんのような
味のある旅人達との絶妙なコラボレーション
の賜物なのか後々から残光感を感じています。
美味しかった面白かったです。
たくさんの意匠の心を感じる街大人の街ですね。
私は帰ってからお気に入りの写真をスライドショーにして
気分の音楽を合わせて、相方への旅の土産にと
共に楽しんでます。
今井町を好きになりました。また帰ります。
皆様、ありがとうございました。
御礼に私が出来る事があれば喜んで参加します。
お声かけ下さい。
ありがとうございました。
20年程前は最寄の近鉄八木西口駅界隈をよく歩いていたのですが、
今井寺内町に入ったのは今回が初めてでした。
tetsudaさんの事前の多岐に亘るご足労により、
単に「重要伝統的建造物群保存地区」を歩くというだけでなく、
今井の方々のおもてなしをはじめとして、
多くのことを感じ、学び得ることができました。
近くて遠かった今井寺内町でしたが、
近くて近くなった今井寺内町を再び機会をみつけて
訪れてみたいと思います。
今回から実施された懇親会もすごく楽しみにしていましたので、
最後まで参加できず残念でした。
途中での退席、お許しください。
前回の柳生の里、今回の今井寺内町とも
ブログでご記載いただいているように
通常では経験できないことを経験させていただき、また、
多くの方と知り合いになることができ感謝しています。
次回も是非、参加させていただけましたらと思います。
ありがとうございました。
> 普段の生活の中で、今井町の色んな場面シーンを思い出しては、
> 会う人会う人に今井町での体験した事をシェアしています。
それは私も同じです。今井は日常のような、非日常のような不思議な空間でした、古き良き日本にタイムスリップしたような。
> 味のある旅人達との絶妙なコラボレーションの
> 賜物なのか後々から残光感を感じています。
町の方はもちろん素晴らしい方でしたし、参加者も意識の高い方ばかりで、良いツアーができました。
> 近くて遠かった今井寺内町でしたが、近くて近くなった
> 今井寺内町を再び機会をみつけて訪れてみたいと思います。
今井の魅力は、とても一日では知り尽くせません。ぜひまたお訪ね(お帰り)下さい。
> 懇親会もすごく楽しみにしていましたので、最後まで
> 参加できず残念でした。途中での退席、お許しください。
いえ、あの後すぐにお開きとなりました、お気になさらずに(詰めて座っていただき、失礼しました)。次回も、ぜひご参加下さい。
今井町での普通では見ることの出来ないところや説明は、勉強になりました。
食事、懇親会でのお酒はとてもおいしかったです。
改めて、ブログを読んで見てすばらしい体験が出来たと思ってます。
また、次回はどんなことがあるか期待してます。
> 普通では見ることの出来ないところや説明は、勉強になり
> ました。食事、懇親会でのお酒はとてもおいしかったです。
全くその通りです。清酒「宗久(そうきゅう)」は、今井のシンボルとしてぜひ大ブレイクしていただきたいものです。若林さんのHPから当ブログに来られる方も、増えました。
> 次回はどんなことがあるか期待してます。
kuraさんのご先祖は柳生の里とか。こちらへのツアーも、とても良かったです。第5回の歩こう会は、また考えておきます。今井の次では、相当条件が厳しくなりそうですが…。