藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

町の鍛冶屋

2019-06-24 08:05:04 | 日記・エッセイ・コラム

 山陽本線己斐駅から西に300m、踏切がある。その踏切のところに鍛冶屋があった。 年中無休だった気がする。 昭和40年頃まで存在した。 仕事は、馬の蹄鉄交換だった。昭和33年頃まで、荷馬車が結構活躍していた。 市内には蹄鉄屋さんがここしか無かったのか、入れ代わり立ち代わり繁盛していた。 暇なときは蹄鉄の作り置きをしていたので、よく見に行った。 時には、鞴を触らせてもらって、悦に入ったものだ。 大人が二人掛で作っていた。 大きい槌を使うのが、向こう槌といったような気がする。 材料をヤットコで挟み、小さい槌で調子をとる。 二人が槌をふるうと、火花が散って面白かった。 童謡の村の鍛冶屋の歌其のままの長閑があった。 夏休みなどそこにいると一日が早く過ぎた気がする。 家からサツマイモを一つ持ち出して、炉のそばに置いておくと、それはおいしく焼けた。 目的はそれではなくて、やってきた馬に、井戸水を汲んでやり、ブラシで毛並みを整えてやるのが面白くて、よく通っていた。 もちろん馬主からお駄賃がもらえることがあった。 というより、お駄賃が必ずいただけた。 十円は子供にとって大金だが、不思議と馬主は気前が良くて、十円くれた。 五円で、大きな飴玉が三つ変えた時代である。 大きな飴玉は小学校低学年の子供の口をふさぐ大きさがあった。 その鍛冶屋さんは、旧山陽道に面していて、江戸時代から続いていたそうだ。 その鍛冶屋さんから70m駅よりに、一軒の茶店があった。 一年中餅をついていた。 広島市内の人々が知らない者はいないくらい有名で、通称「別れの茶屋」とよばれていた。 徒歩で旅した時代、市内からこの茶店まで送ってきたことが名前の由来だったが、今でもその家を「別れの茶屋」と呼んでいるそうだ。 この茶店から、鍛冶屋まで松並木が残っていた。 子供三人掛の太さで、五本が堂々と影を落としていたのが懐かしい。 


ネズミ一匹いくら?

2019-06-23 17:12:53 | 日記・エッセイ・コラム

 子供の頃、ネズミが一匹いくらだったかご存知の方お教えください。 昭和27年から30年頃、ネズミを捕まえたら国から幾らかのお金がもらえた。 その事はよく覚えているのだが、いくらもらえたのかは?である。 お金に変えた事が無いからだろう覚えていない。 なぜこんな事を書くかというと、山陽本線己斐駅には、貨物引き込み線が有って、機関車の回転台もあり、大々的に貨物が取り扱われていた。 理由は簡単で、中央おろし市場と水産市場が近かったからである。 其の為に日通の大型倉庫や、田中の冷凍倉庫がすぐ傍にあった。 兼品さんという、大型製氷工場もあった。 結構流通の中心地であったのだ。 今では高級住宅街になってしまったが、戦後の焼け残り地帯は、娯楽から闇市まですべてそろっていた。 そんな中で、この駅では地方からの物資がやって来た。 羅臼昆布、出雲のスルメ、ありとあらゆるものがこの駅を通って、広島市近辺に流れて行った。 当時人口20万人、周辺人口60万人と言われていたが、その胃袋を満たすために次々と送られてくるのが食量だった。 そんな中に、外米が有った。 配給用である。 うるち米とは違うインデカ米だ。 輸入品である。 麻の袋袋に入っていたが、この袋を我々は「ドンゴロス」と呼んでいたが、何故そう呼んだのか理由は解らない。 この外米が、日通倉庫に運ばれると喜ぶ子供達がいた。 四斗俵に入ったコメは国産米で、もみ殻付だからこんな作業はされないが、 運ばれてきた時と運び出しの時に、一俵一俵中身を検査するのである。 鉄製の細い先のとがった半管を刺して、コメがかびていないか検査するのだ。 するとその穴から持ち上げた時少しのお米が落ちる、一俵からは少しだが、数多く運ばれるとかなりの数量に成る。 これを毎日拾って集めている子供がいた。 何だか見ている此方が悲しくなるような光景だったが、誰も非難することは無かった。 聞いた話では、父親は戦死、母親は原爆で亡くなり親戚の家で生活しているらしかった。 有るとき偶然その子達と知り合った。 野良猫に餌をやっていたのだ。 不思議だった。自分たちの食べ物に不自由しているのに野良猫に餌をやることがである。 どうもその二人の子供は、給食を我慢して残してやっているようだった。 ひとしきり固いパンを食べた猫が一時姿を隠したが、現れた時はネズミを咥えていた。 そしてそのネズミをその姉妹の前に置いた時には驚いた。 ネズミの恩返しなんてあるのかと。その時 そうだったのかと合点がいった。 この大きな倉庫をネズミから守っているのが野良猫で、野良猫を大切にしているのがこの姉妹だったのである。 姉妹はネズミを受け取ると何処かに走って行った。 今考えると200mの所にある交番だったのだろう。 そこにネズミの死体を届けるとお金がもらえると聴いたことが有った。 その後私もその野良猫に餌をやる様になった。 なんだか姉妹の手助けが出来る事が嬉しかったような気がするのである。 今や戦後も75年過ぎて、若者たちの中には戦争論者が出ているが、戦争こそが全ての罪の中で一番重い罪だという事を認識すべきである。 あの姉妹は今どうしているだろうかと考えると涙があふれてくる。


荷役人夫

2019-06-22 15:37:10 | 日記・エッセイ・コラム

小学校入学前から、毎朝の日課があった。 山陽本線己斐駅に六時前から出かけるのだ。 その時間は、貨物列車から、鮮魚や、リンゴ…要するに中央市場や魚市場に届ける貨物便の荷下ろしの終わる時間帯である。 当時魚は「トロ箱」、リンゴは「リンゴ箱」、ミカンは「ミカン箱」に入って送られてきた。 ほとんどの食糧の中継地であったために、毎日大量の貨物がこの駅にやってきたのだ。 他の駅、横川駅や広島駅の貨物専用駅もあったが、一般道路と接した駅はこの駅だけだった。 当時の容器はすべて木製で、運搬途中に壊れることが前提だったそうである。 そのことを知ったのは、小学校高学年になってからだ。 荷下ろし人夫さん達と会話できるようになってからだった。 なぜ幼い子供たちが早朝から駅の荷下ろし場へ出かけたかと言ったら、単純である。 食べ物が手に入ったからだ。 つまり荷下ろし中の木箱が壊れていると、その箱は積み替えされず、放棄されるのだ。 その中には、リンゴだったり、ミカンだったり、氷漬けの魚だったりするのだ。 それが放棄されると、子供たちが競って頂くのだ。 これにもルールがあって、高学年が仕切っていた。 小さい子供たちが優先的に先にいただく。 そして、一定の量になったら帰宅を促すのだ。 そして残った高学年が、次に頂くのだが、リンゴなどは、木製のリンゴ箱のなかに、もみ殻とともに詰められているので、その片付けが大変なのだ。 それを子供たちがやってのける。 ご褒美がリンゴというわけである。 人夫さんたちのてごをしながら、おこぼれを頂くのだ。 低学年の子供も何れ高学年になるとてごをするのだ。 タイ、サンマ、サバ、イワシ…あらゆる魚が手に入った。 しかしながら魚は夜中の二時ころから荷下ろしは始まる。 暗い線路を通って、(かつては、鉄道自殺がよくあった)作業が行われる場所に行くのは勇気がいったものだ。 その点私は不思議と恐ろしくなかったのである。 鉄道自殺の第一発見者によくなった。 交番の巡査に何をしていたのか咎められたが、其のうち、荷下ろしのてごに行っていることが理解されて、逆に褒められた。 そんなこんなの、戦後の子供も働かなくては、生きていけない時代の物語だ。 其の後、早朝に強く、鉄道自殺に強いということで、新聞販売店にスカウトされた。 誰も行きたがらない鉄道自殺の名所が四か所あったが、その周りの新聞配達を頼まれたのだ。 此方は現金収入。 ましてや中学生に交じって、小学四年生の私が新聞配達をやっていた。 割増料金付きであった。


頭の中が、もやもやもや・・・・・

2019-06-21 16:02:03 | 日記・エッセイ・コラム

 頭の中が、もやもやもや・・・・・低気圧接近中なのだろうか。 おまけに、新しい中古のノートPC、なかなか曲者で言う事を聞いてくれません。 もっともこちらが慣れていないだけ。 そんな事をしていたら、ブログの更新を忘れていた。 不動明王を掘り下げたいが当分お休みする。 理由は簡単、遊工房様のブログが原因だ。 米俵を背負う写真を見て思い出したことが有る。 この事をゆっくり思い出して記録したいと思い始めた。 荷役作業は大変な仕事だが、戦前広島では、後家様の生活手段としては一番の方法だったそうだ。 軍都広島では、兵糧のコメが全国から送られてきた。 広島駅、横川駅、己斐駅、五日市駅には大きな倉庫があり、はたまた宇品駅には、船に積み込むための倉庫群が有った。 これらは戦後、県庁後に広大医学部やその他多くの施設がレンガ造りで存在した。そこで働いていたのが、戦争未亡人だそうだ。 女手一つで数人の子供を養うには、重労働だが、荷役作業が一番賃金が良かったそうである。 特に船積みは、重労働で有ったそうだが・・・。 私が生まれた己斐の町は、山陽本線の貨物駅もあり、子供の頃は、遊工房様の写真のごとく、女性が軽々と米俵を背負って倉庫と貨物車を行き来していたことが思いだされる。 その光景も後々は機械化されたがそれがどの時期だったが記憶にない。 昭和35年ごろはまだまだ人力だった記憶が有る。 ところがその後数年で変化した。 ホークリフトが登場した。 途端に貨物駅は寒々とした記憶が有る。 あの人々は何処に行ったのか未だに謎だ。

 隣町に洪水警報が出たらしい。


私の守り本尊 3

2019-06-20 07:36:51 | 日記・エッセイ・コラム

 本日もしつこく「不動明王」について書くつもりだ。 と開き直って見せても、宗教者では無い素人の戯言である。 しかし、「不動明王」 が好きなのは本心からである。 今嵌まっているのは、福山市草戸町の明王院のお不動さんだ。 草戸と言えば、中世芦田川の河口で栄えた町で、福山のそもそもの母体である。 当時、草戸千軒と言われていた。 それだけ栄えていた町である。 何故栄えたのか、・・・すぐ隣が鞆の浦で、海上交通の重要拠点だった。 船の最大の欠点は、当時木造船であり、船虫に食い荒らされる欠点が有った。 その船虫の欠点が「真水」で、鞆の浦に長期間滞在する船は、この芦田川の真水に浸けて、船虫を殺し、船底を火であぶり修復したそうである。 嘗ての「草戸千軒町」は、今は芦田川の底に沈んでいるが、数十年前発掘作業がされて、「明王院」の門前町の栄えた様子が知れ渡った。 その、「明王院」の「不動明王」がこれだ。

髪の毛のもじゃもじゃ、短足胴長、小太り、不細工、何処から見ても「お前」を思い出す、とまで人から言われた事が有った。 すぐ眼の前まで行ったが、ご対面する気が起こらなかった。 今ならゆっくり兄弟分の顔を拝んでくるのだが・・・・。 近々行ってきます。

 そうそう、不動明王様の目、左目は下向き右目は上向きと物の本には書いてあるが、そうでないお不動様もいたので不思議だったが、気が付けばその理由がわかった。地上に立ったお不動様は、地上、地下隈なく見つめているが、地下洞窟においでの時は、地上だけを見ておいでである。 よって、上目使いなのだ。 …ただしこれは、私の推論である。

Win10は、つかれます。 慣れるのに、相当時間がいるような気がする。 兎に角「回りくどい」の一言だ。