藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

ネズミ一匹いくら?

2019-06-23 17:12:53 | 日記・エッセイ・コラム

 子供の頃、ネズミが一匹いくらだったかご存知の方お教えください。 昭和27年から30年頃、ネズミを捕まえたら国から幾らかのお金がもらえた。 その事はよく覚えているのだが、いくらもらえたのかは?である。 お金に変えた事が無いからだろう覚えていない。 なぜこんな事を書くかというと、山陽本線己斐駅には、貨物引き込み線が有って、機関車の回転台もあり、大々的に貨物が取り扱われていた。 理由は簡単で、中央おろし市場と水産市場が近かったからである。 其の為に日通の大型倉庫や、田中の冷凍倉庫がすぐ傍にあった。 兼品さんという、大型製氷工場もあった。 結構流通の中心地であったのだ。 今では高級住宅街になってしまったが、戦後の焼け残り地帯は、娯楽から闇市まですべてそろっていた。 そんな中で、この駅では地方からの物資がやって来た。 羅臼昆布、出雲のスルメ、ありとあらゆるものがこの駅を通って、広島市近辺に流れて行った。 当時人口20万人、周辺人口60万人と言われていたが、その胃袋を満たすために次々と送られてくるのが食量だった。 そんな中に、外米が有った。 配給用である。 うるち米とは違うインデカ米だ。 輸入品である。 麻の袋袋に入っていたが、この袋を我々は「ドンゴロス」と呼んでいたが、何故そう呼んだのか理由は解らない。 この外米が、日通倉庫に運ばれると喜ぶ子供達がいた。 四斗俵に入ったコメは国産米で、もみ殻付だからこんな作業はされないが、 運ばれてきた時と運び出しの時に、一俵一俵中身を検査するのである。 鉄製の細い先のとがった半管を刺して、コメがかびていないか検査するのだ。 するとその穴から持ち上げた時少しのお米が落ちる、一俵からは少しだが、数多く運ばれるとかなりの数量に成る。 これを毎日拾って集めている子供がいた。 何だか見ている此方が悲しくなるような光景だったが、誰も非難することは無かった。 聞いた話では、父親は戦死、母親は原爆で亡くなり親戚の家で生活しているらしかった。 有るとき偶然その子達と知り合った。 野良猫に餌をやっていたのだ。 不思議だった。自分たちの食べ物に不自由しているのに野良猫に餌をやることがである。 どうもその二人の子供は、給食を我慢して残してやっているようだった。 ひとしきり固いパンを食べた猫が一時姿を隠したが、現れた時はネズミを咥えていた。 そしてそのネズミをその姉妹の前に置いた時には驚いた。 ネズミの恩返しなんてあるのかと。その時 そうだったのかと合点がいった。 この大きな倉庫をネズミから守っているのが野良猫で、野良猫を大切にしているのがこの姉妹だったのである。 姉妹はネズミを受け取ると何処かに走って行った。 今考えると200mの所にある交番だったのだろう。 そこにネズミの死体を届けるとお金がもらえると聴いたことが有った。 その後私もその野良猫に餌をやる様になった。 なんだか姉妹の手助けが出来る事が嬉しかったような気がするのである。 今や戦後も75年過ぎて、若者たちの中には戦争論者が出ているが、戦争こそが全ての罪の中で一番重い罪だという事を認識すべきである。 あの姉妹は今どうしているだろうかと考えると涙があふれてくる。

コメント (2)
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