藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

荷役人夫

2019-06-22 15:37:10 | 日記・エッセイ・コラム

小学校入学前から、毎朝の日課があった。 山陽本線己斐駅に六時前から出かけるのだ。 その時間は、貨物列車から、鮮魚や、リンゴ…要するに中央市場や魚市場に届ける貨物便の荷下ろしの終わる時間帯である。 当時魚は「トロ箱」、リンゴは「リンゴ箱」、ミカンは「ミカン箱」に入って送られてきた。 ほとんどの食糧の中継地であったために、毎日大量の貨物がこの駅にやってきたのだ。 他の駅、横川駅や広島駅の貨物専用駅もあったが、一般道路と接した駅はこの駅だけだった。 当時の容器はすべて木製で、運搬途中に壊れることが前提だったそうである。 そのことを知ったのは、小学校高学年になってからだ。 荷下ろし人夫さん達と会話できるようになってからだった。 なぜ幼い子供たちが早朝から駅の荷下ろし場へ出かけたかと言ったら、単純である。 食べ物が手に入ったからだ。 つまり荷下ろし中の木箱が壊れていると、その箱は積み替えされず、放棄されるのだ。 その中には、リンゴだったり、ミカンだったり、氷漬けの魚だったりするのだ。 それが放棄されると、子供たちが競って頂くのだ。 これにもルールがあって、高学年が仕切っていた。 小さい子供たちが優先的に先にいただく。 そして、一定の量になったら帰宅を促すのだ。 そして残った高学年が、次に頂くのだが、リンゴなどは、木製のリンゴ箱のなかに、もみ殻とともに詰められているので、その片付けが大変なのだ。 それを子供たちがやってのける。 ご褒美がリンゴというわけである。 人夫さんたちのてごをしながら、おこぼれを頂くのだ。 低学年の子供も何れ高学年になるとてごをするのだ。 タイ、サンマ、サバ、イワシ…あらゆる魚が手に入った。 しかしながら魚は夜中の二時ころから荷下ろしは始まる。 暗い線路を通って、(かつては、鉄道自殺がよくあった)作業が行われる場所に行くのは勇気がいったものだ。 その点私は不思議と恐ろしくなかったのである。 鉄道自殺の第一発見者によくなった。 交番の巡査に何をしていたのか咎められたが、其のうち、荷下ろしのてごに行っていることが理解されて、逆に褒められた。 そんなこんなの、戦後の子供も働かなくては、生きていけない時代の物語だ。 其の後、早朝に強く、鉄道自殺に強いということで、新聞販売店にスカウトされた。 誰も行きたがらない鉄道自殺の名所が四か所あったが、その周りの新聞配達を頼まれたのだ。 此方は現金収入。 ましてや中学生に交じって、小学四年生の私が新聞配達をやっていた。 割増料金付きであった。

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