藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

頭の中が、もやもやもや・・・・・

2019-06-21 16:02:03 | 日記・エッセイ・コラム

 頭の中が、もやもやもや・・・・・低気圧接近中なのだろうか。 おまけに、新しい中古のノートPC、なかなか曲者で言う事を聞いてくれません。 もっともこちらが慣れていないだけ。 そんな事をしていたら、ブログの更新を忘れていた。 不動明王を掘り下げたいが当分お休みする。 理由は簡単、遊工房様のブログが原因だ。 米俵を背負う写真を見て思い出したことが有る。 この事をゆっくり思い出して記録したいと思い始めた。 荷役作業は大変な仕事だが、戦前広島では、後家様の生活手段としては一番の方法だったそうだ。 軍都広島では、兵糧のコメが全国から送られてきた。 広島駅、横川駅、己斐駅、五日市駅には大きな倉庫があり、はたまた宇品駅には、船に積み込むための倉庫群が有った。 これらは戦後、県庁後に広大医学部やその他多くの施設がレンガ造りで存在した。そこで働いていたのが、戦争未亡人だそうだ。 女手一つで数人の子供を養うには、重労働だが、荷役作業が一番賃金が良かったそうである。 特に船積みは、重労働で有ったそうだが・・・。 私が生まれた己斐の町は、山陽本線の貨物駅もあり、子供の頃は、遊工房様の写真のごとく、女性が軽々と米俵を背負って倉庫と貨物車を行き来していたことが思いだされる。 その光景も後々は機械化されたがそれがどの時期だったが記憶にない。 昭和35年ごろはまだまだ人力だった記憶が有る。 ところがその後数年で変化した。 ホークリフトが登場した。 途端に貨物駅は寒々とした記憶が有る。 あの人々は何処に行ったのか未だに謎だ。

 隣町に洪水警報が出たらしい。

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