藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原爆で死んだ米兵秘史 (4)

2017-01-19 11:25:43 | しごとの思い出

 読み進む中で、ある事件が脳裏をかすめた。 それが昭和27年なのか、翌年の28年なのかの記憶が曖昧な事件なのです。 それは授業のさなか、事務職員や教科担当の先生たちが、廊下を走りながら一部の生徒を校長室に集めたのでした。

 集められた生徒は、我々の年代は二名、上級生は五名であったと記憶している。 なぜ人数を記憶しているかと言うと、集められた生徒は全員早退していきました。 その人数を数えた記憶があったのです。

 その中の一人が私のクラスのT君で、大人しい彼が緊張した面持ちで帰って行ったのです。 彼のお父さんは、南方戦線で戦死したと聞いていました。 彼がいじめにあったとき、止めた事から、クラスの中が二つに割れそうになり、その事をホームルーム(その時代は学級会と言っていたような気がするのですが)で、先生に訴えたのが私でした。 その時先生は鋭い口調で、「いじめ」は、もっとも卑劣な行為だと生徒に諭されました。 その先生、元はNHKのアナウンサーから教員になられた方で、いつもは優しい先生が口調鋭く諭されたことを今でもよく覚えています。

 その後彼とは下校方向が同じなので、連れだって帰っていましたが、夏休み前日に事件は起こりました。 「いじめ」を先生に告げ口したと言いがかりを付けられ、この本の作者が原爆の爆風で飛ばされた「旭山神社」で決闘となりました。 私は妙に落ち着いていましたし、相手が幾人かも知りませんでしたが、黙って付いていきました。 決闘は瞬時に終わりました。 ボスを一瞬で突き倒し、利き腕をねじ上げたものですから、泣き出しったのです。 仲間は四人でいましたが、みな逃げ出していました。 その時T君は、学校に知らせに行ったようです。 先生が駆け付けた時は誰もいませんでした。

 

決闘場所の旭山神社 神功皇后が村の名前を「己斐」と、付けた場所と言われている。

  そんな事件をきっかけに、T君のお母さんに良くしていただき、彼とも仲良くしていました。 そんな彼が、何処か青ざめた顔で早退していったことが気になりましたが、次の授業の始まりに、先生から事の顛末を聞いてびっくりしたのです。 彼のお父さんは生きて捕虜になっていたのでした。 それも偽名で。 元憲兵の彼のお父さんは(後に知るのですが)C級戦犯として、捕虜となっていたのでした。 その頃ラジオから「モンテンルパの夜は更けて」と云う歌謡曲が良く流れるようになっていました。 彼のお父さんは「モンテンルパ」で捕虜生活をしていたのでした。 後になぜ偽名を使っていたかについいて彼から聞かされたのは「捕虜になったことが解ったら家族がどんな目にあうだろうか」と考えた結果、偽名を使ったそうです。

 今一人の同級生Y君のお父さんについては、もっと切ない話なので後日ブログに書き残しておきたいと思う。

 

コメント
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