藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」  妻にまで言われてしまった「本当に吉永小百合が好きなのね」

2013-02-17 20:14:14 | 社会・経済

Photo  昨日目覚めて、一階に降りるなり 「あなたって、本当に吉永小百合が好きなのね。それなのになぜ私のような者と結婚したの。」 といわれ、一瞬戸惑った。 私のブログはあまり見ないのに、読んでみただらしい。 呆れた顔で私を見ている。

 「君も小百合様に負けず、可愛かったよ。」 と言いかけたが喉のところでやめておいた。 

それでなくとも、「あなたが哀れだから結婚してあげたの」 と平素言われている私なので、本音は語るわけにはいかない。 が、しかし若き日の妻は、どこか雰囲気が「小百合様」に似たところがあった。

このDVDの表紙が、一番当時の妻に似ている。 ただし、「さゆり様」のように色白ではない。

 私の友人の幾人かが、彼女にアタックしたが皆玉砕した。 その頃の「あかね様」の写真を、ここに掲載しようかと考えたが、写真はあるが横顔しかない。 本人の弁では、写真に映るのが「嫌い」であるそうである。 数枚の写真が全て横向きか、俯きである。 自分の顔の鼻の高いところが嫌だそうである。

 娘は小学校の参観日に、友達から 「あなたのお母さんは鼻が高く美人ね」と言われたと今でも言う。 しかし、自分が少しも母親に似ておらず、私の母に似ているので、 「鼻だけでも似ればよかったのに」 といつも思っていたそうである。

 高校生になった頃からよく「文通」を申し込まれた。 といっても相手から一方的に手紙が送られてきただけである。 なぜ私の住所と氏名が解るのか不思議であった。

私は特別に「悪筆」である。 習字の時間に「上」の字一文字合格するのに半年かかった。 習字の先生が無償で教えてくれたが、全く才能がなかった。 先生は、諦めて授業を受けるだけで及第させてくれた。 

 それに反して、「絵画」は遊んで描いても常に満点をもらった。 描きかけでも満点である。 級友から不満が出た。 当然だと思う。 しかし絵画の先生は、私の絵を手に持ち、構図の取り方、空の色その中にそよぐ木々の動き等々説明して皆を納得させた。 殆どの絵画が未完のまま採点された。 

中学二年の夏休み前に、その先生から「油絵」を描かないかと誘われた。 「そんなお金がない」とお断りしたら、卒業した先輩が残した絵の具がいくらでもあるという。 カンバスも、古いものの上にかけばよいと勧められ描き始めた。 面白くて病みつきになった。 平日は「放送部」、週末と日曜日は「絵画部」と二俣生活をしていた。

 高校に進学してからは、他校に良くアナウンスの指導によく呼ばれた。

 「あ、え、い、う、え、お、あ、お」と、発音の指導をするのである。 特に女子高が殆どであった。 その教え子の中というか、交流があった女性が東京で数年前まで、活躍していた。 「○○が、国会前からお送りしました。」と、全国版で登場していたが、齢い68歳になると見かけなくなった。

 話が横道にそれた。 我妻 「あかね様」は、写真に写った「さゆり様」の横顔に似ていたことが、言いたかったことだった。

 どうも照れてしまって、余分な文章を書いてしまった。 そして二つ目の結論は、申し込まれた「文通」は、以上の理由ですべてお断りした。 ただし、私の住所氏名を教えていた犯人が、昨年開いた「同窓会」で判明した。 女子校に進学した同級生が教えていたのである。 

彼女達から、 「○○さんをふったでしょ」 「××さんもふったでしょ」と吊し上げにあった。 「なんで住所や、名前教えたのか」 と詰問したら、 「貴方は安全人間だから」 という言葉が帰ってきた。 要するに私という人間は、「人畜無害」なのだ、決して持てていたのでは無かったと自覚した。 

 


深山 霞の「霞的心」  持ってい生まれた才能を見つけ出せるのが本当の「棟梁」

2013-02-15 17:37:36 | 社会・経済

私の建築屋人生は、ビル建設から始まった。私は建設の専門の学校を出たわけではない。

家族を養うためにオヤジと始めたのが建築の下請け工事である。 誰にも教わることなく、図面一枚渡されただけで最初はスタートした。 広島の地に、軽量コンクリートという新建材が登場したが、誰も施工する者がいなかった。 渡された図面と、メーカーから来た技術屋の少しの説明だけで、四階建てのビルの外装工事をやってみせた。ゼネコンもメーカーも驚いた。

競争相手がいないので、道具も自分で考案して施工した。 新しく考案した道具も少なくない。 その後私が建築屋として思ったことは、木造建築程難しいものはないということだ。

日本鋼管の工場や、マツダの防府工場のような大規模工場を建設するより、否、原発を建設するよりも、一般住宅の木造の方がむつかしい。

どこが難しいかというと、大工の棟梁より少しだけ頭を働かせることが出来るかどうかである。 素人は、大工のカンナは良く切れる方が、柱の仕上がりが美しいと思われる。 違うのである。 カンナは大工の腕でかけるもので、カンナの切れ味でかけるものではない。 そのことを知ったのは、ある大工の仕事の監督をした時で有る。

一時間に一回、カンナを研ぐ。 一見サボっているように見える。しかしその大工の削った柱は、実に美しい。 色気がある。 他の大工の削った柱には色気がない。その大工のカンナは、三ヶ月で歯がなくなる。 新しいカンナを買うとまづ焚き火に歯を投げ入れる。 歯をなますのである。 鋼が幾分柔らかくなると不思議と削った柱の光沢に色気が出てくる。 しかし、なまったカンナで柱を削るには、それなりの腕が必要なのだ。  

その大工が、昼休みに話しかけてきた。 「この指し金で六角形がかけるか」 と言ってきた。 私の能力を試しにかかったのだ。 書いてみせた。 「八角形はかけるか」 書いてみせた。 それ以来この大工は、私に一目置いて仕事をしてくれた。 その時九角形も書いて見せた。 

腕の立つ大工は、差し金一つでどのような形状もつくりだす。 しかし近頃の大工にはそのような腕を持った人が少なくなった。 

僅かに宮大工を目指す人たちの中には存在する。 そうした人達は文化財の修復に追われ、我々庶民の住宅には携わらなくなった。 悲しいかな技術の継承もままならなくなっている様である。


深山 霞の「霞的心」  長州出身の総理になるときな臭くなる

2013-02-13 22:25:42 | 社会・経済

岸 信介、佐藤 栄作、皆長州の出である。古くは、伊藤博文。

太平洋戦争、つまり日中戦争で、海岸線を持つ県で爆撃被害をあまり受けたことがない県といえば山口県である。 山口県人は、岩國は長州とは一線を画して考える。吉川家は、毛利家の家来としか考えていない。防州、長州二州が毛利家で、岩州岩國は家来の吉川家なのである。

現在では瀬戸内海臨海工業地帯として、主にセメントや化学工業地帯であるが、昭和20年以前は寂しい漁村であった。だから空襲などなかった。 岩国を除いては。

そこに戦争に関する感覚が広島や長崎、絨毯爆撃を受けた東京人とは違うように感じる。

二十年以前に、長府(現在下関市長府)の尊攘堂博物館(長府博物館)を訪ねたことである。長府博物館は、耕山寺境内にあり、あの高杉晋作が奇兵隊で、決起した所である。

その裏手は、長府毛利家の墓地であり、平素は立ち入り禁止であるが、たまたま嘗ての家臣のみなさんによる、清掃奉仕がなされていたのには驚いた。 主従関係が今でも続いているのである。

山口県出身の総理が誕生すると、きな臭くなる。 国民の血を糧に国防を膨らまし、近隣諸国との緊張関係を作ることにより、世論を操作する手法は未だに通用すると思っているらしい。

今回の政府の特徴は、何といってもセメント利権者のカタマリであることだろう。

公共事業以外にその欲求を満たすことはできない。小野田セメント、徳山セメント、宇部セメント、麻生セメント。全てこの内閣の中核人物の関係した企業である。

安倍総理が「経済界の首脳」と会談したそうである。従業員の給与をあげて欲しいとお願いしたそうだ。 嘗ての「社会党」が言っていたようなことを、30年後自民党の総裁が経済界にお願いする姿を見るとは思わなかった。自民党の社会党化である。

「時代は変わった、紅茶煮ソネット」、という流行語が流行ったことがある。今やまさに自民党わ変わった、社会党になった。ただし武力を持った社会党である。要するに、計画経済の上に、国防を築き上げ国際的に発言力を大きくしようとしているに過ぎないという、幼稚な政策なのである。

同じ国民を騙すなら、ハリネズミのような国家を目指すべき。どっか一箇所刺激を受けると相手かまわず、巡航ミサイルとの雨が相手国の降り注ぐシグシステムを持つべきである。

因みに山口県には、自衛他の基地は岩国以外見当たらない。広島は昔の姿を変えて、隣接する海田町に第13旅団があ存在し、善通寺、米子、日本原の各支隊をもつ。今でも中四国を配下に置く軍事都市なのである。軍港呉は、潜水艦基地として全ての潜水艦がここを母港とする。横須賀、長崎はその他の軍事用艦船の母港である。広島の平和活動団体からは、一度も基地撤去の声を聞いたことがない。


深山 霞の「霞的心」  「愛と死の記録」の背景に見えるもの

2013-02-12 19:57:18 | インポート

和恵と幸雄が最初に会話を交わす場所は、「荒神橋」という。 路面電車がこの橋の上を走っている。この橋は八月六日の日、まさしく神が荒ぶり、多くの被爆者が渡っり逃げ惑った橋である。地獄から逃げ出すために。 二人の背景には、牡蠣ぶねが見える。その向こうに、丸に十の字の看板をつけたビルが見える。 この会社は嘗ては陸軍の軍服を扱い、富を築き戦後は警察予備隊の制服でのし上がった会社である。今は傘下にスーパーを持つ。

 和恵が勤めていた「十字屋楽器店」は二店舗あって、駅前店が「的場」 本道り店が本道り商店街に有った。

 画面に出てくるお客さんの女学生は、胸の校章から察するに当時、「広島女子商業高等学校」と呼ばれた学校の生徒さん達である。 この学校の生徒たちが中心に、「折り鶴の会」が結成され、原爆の子の像は当時常に清掃され、八月六日の式典を行っていた。

二組のカップルがオートバイでドライブする場面は、かつて広島から「軍港呉」へ物資を輸送したルートである。その為に建設された国道31号線と、国鉄「呉線」は並行して走り、背景は能美島である。隣接する島が海軍兵学校がある江田島である。昭和41年当時は、江田島には陸からは行けなかった。早鞆ノ瀬戸に橋が架かったのは昭和50年代である。軍港「呉」を過ぎ、音戸の瀬戸を跨ぐ橋を渡り、倉橋島のドライブ先の海岸に腰を下ろし、和恵と幸雄が会話する。

「わし小さい頃船に乗った記憶がある」と幸雄が語る。 原爆孤児の、収容先は当時三ヶ所あった。広島駅裏にあった、「広島修道院」、広島城の堀端の「新生学園」、瀬戸内海に浮かぶ「似島学園」の三ヶ所である。

思うにいたいけな少年幸雄は、「似島学園」に収容されたのであろう。今日では「宇品港」から学園の専用船が運行されている。原爆孤児は6500人にのぼり、内2000人が、これらの施設に収容されていた。がしかし、窮屈な施設暮らしを嫌って、脱走を繰り返したそうだ。

二人の背景の海の沖を、嘗て「戦艦大和」が特攻出撃していったのだ。

「愛と死の記録」の映画は、このように一場面一場面が「戦争と原爆」の事実の上に描かれていることに驚かされる。

幸雄のモデルが実在した事はあまり知られていない。 「中本総合印刷」にその青年は実在したのだ。 二十三歳で他界した実在の人物と、昭和37年の新聞記事のあと追い自殺がこの映画の背骨として存在する。

昭和37年広島大学病院のベットで、中国新聞の記事であと追い自殺の記事を読んだ翌年、昭和38年9月、検査入院をした。その時のことを思い出したのでここに記しておく。

一人の女性が救急車で運ばれてきた。 農薬による「自殺」であった。この女性もあと追い自殺であった事をお思い出した。 そしてまた、この事件と前後して、一人の被爆者が、屋上から飛び降り自殺した。 窓の外を何か白いものが落ちていった。 自殺であった。 その夜、自殺した被爆者を追って、一人の女性が大学病院内の庭木に首をつり後追い自殺した。

 この一ヶ月は私にとって不思議な一ヶ月であった。

女性から初めて交際を申し込まれたのもこの月であった。 

この月がきっかけで本を読み始め、出張先での夜は本ばかり読んでいた。月に十冊は読んだ記憶がある。部屋の床が、本の重みで抜けたのは、昭和42年だ。より分けて古本屋に売ったら、当時の金額で一万円を超えていた。そのお金は一晩で呑み代に消えた。散財したものである。


深山 霞の「霞的心」  軍都広島を知って「愛と死の記録」を見て欲しい。

2013-02-10 18:55:52 | 社会・経済

Photo

 「広島」と言えば、「平和文化都市」。 世界最初の、「原爆被爆都市」のイメージしか皆さんは思い浮かばないと思う。 原爆が投下された理由は、この街の運命にあった事はあまり気付かれないだろう。

日清戦争以来、広島は「軍都」として拡大してきた。 日清戦争以来、祖国を離れ戦場に赴くとき必ずや、広島の宇品港を経由した。

戦場で傷つき帰国する時もまた、この広島宇品港を経由していた。 終戦近くになり、転戦の経由地は数多く作られたらしいが、基本的に広島湾がその任を担ってきた。

宇品港から見える似島は、安芸の小富士と呼ばれる。 ここに軍専用の検疫所がかつてあった。 戦後は、原爆孤児の収容所として使用された。 似島検疫所は、外地から帰国した兵隊が検疫を受けたところである。

理由は広島湾の隣には、軍港「呉」があり江田島には、「海軍兵学校」が明治の時より存在した。 広島は第五師団の本拠地であり、西日本最強の陸軍が配置され、西日本一円を管轄する第二総軍司令部が二葉の里(東練兵場)に、置かれていた。 加えて、日本最大の中国憲兵隊が存在し、中国本土でのスパイ行為や、中国大陸の軍関係者や日本人、中国人、朝鮮人に、目を光らせていたのである。。

軍都広島と軍港呉を結ぶために、国道31号線は作られ、山陽本線で広島まで運ばれた軍需品運搬の為に、呉線は建設された。 呉線は単線であるがそのまま、山陽本線三原駅まで伸びている。軍は単線で十分であったのだ。 軍港呉へ物資や海軍兵員の運搬は西から運ぶ時は、広島で分岐し、東からの兵員や物資は三原から分岐して軍港呉へ運ばれた。

この呉は、戦艦「大和」や「長門」を始め、日本の主力軍艦の基地であった。

第五師団の正面入口は、紙屋町と呼ばれる当時は、 丁字交差点の真ん前であった。 紙屋町を少し西に歩き、原爆ドームの北側が、護国神社の正面、八丁堀交差点を北に突き当たると、「東練兵場」その途中に五師団の京口門口が有った。

入隊する時は、正面から。 除隊する時は、京口門と決められていたらしい 。家族との面会や、休暇の時には、京口門が出入口と決められていた。

八丁堀を南に下ると、「御幸橋」に到達し、橋を渡ると右折して宇品へと続く。 この橋は、日清戦争時、大本営が広島に置かれた時に、軍艦三笠で宇品港まで来た明治天皇が、唯一渡る川の上に架けられたのである。 天皇陛下の御成を表す「みゆき」なのである。

太田川に架かる橋は幾つ有るのか、広島へ生を受けて以来数へたことがない。 おそらく大阪より多いいのではなかろうか。

 現在は太田川の流れは六本に分かれているが、昭和40年後期まで七本であった。 本流に架かる、橋の最上流にかかる橋が三篠橋である。 三篠橋を西から東に進むと、右手が西練兵場、左側には軍関係の学校や施設が並び、その先の常盤橋を渡ると、東練兵場となる。 常盤橋の上流に、小さな吊り橋がある。 工兵隊が作ったので、工兵橋と呼ばれている。 この橋を挟んで嘗ては、工兵隊「第五連隊」が駐屯していた。

昨日は、早朝三時から二度、「愛と死の記録」を見て、その後TVで山口百恵の「風たちぬ」を見た。 それから、録画していた「戦争と平和」を見た。

その中で「愛と死の記録」のシナリオを書かれた作者の意図が初めて見えてきた。

この映画で交わされる会話一言一言が、その背景が、明治以来の軍国主義に対する批判に満ちているのである。

今日は一日、この時間までTVの画面を見ていない。 三時に目は覚めてが、再び眠りの中に陥り目覚めたのは昼時間近くであった。

軍都広島の地図をクリックして、拡大し御覧頂きたい。できれば其の後に、「愛と死の記録」をご覧いただきたい。 見方が変わるであろう。