道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

共感

2024年06月13日 | 随想
ネット社会が進化するに従って、人同士の触れ合いの場や人に共感を抱く場と機会が、世の中から急速に減っているのではないかと危惧している。生産性が上がり余暇時間が増え、人々の交流の場が増えているのなら嬉しいが、どうもそう良い方向ばかりではないらしい。
共感というものは、人の集まりがあるところで呼び合うものである。

仕事を遂行する組織の人員が、省力化やIT化に伴う縮小または分散により、目に見えてその規模を減らしている。特にITの普及は、これまで合理化や効率化が遅れていた事務・販売部門の少数精鋭化と分散化を推し進めた。其処にCovicの世界的蔓延があって、人の分散は地球的規模で進んでいる。それから5年・・・

人間は共感によって仕事や生活からの満足を得る。自己満足では済まないのが人間である。共感するためには人が複数居なければならない。集合は共感を伝え合うために欠かせないものである。
インターネット時代の今日、人間は物理的・社会的にどんなに離れていても意思疎通はできる。だが、帰属する集団が解体されたり縮小されてしまうと、其処に保有されていた共感は失われてしまう。共感を保持し続けるためには、集団の存在が不可欠なのである。共感は人が2人以上集合する場所でのみ発生するものである。人から人への共感の伝播も、集合がなければ生じない。

今日、G7から日本を除いた欧米6ヶ国の先進国社会が直面している問題は、共感性の喪失ではないか?彼らが200年前に確立し、奉じ続けてきた個の自立(個人主義)というものが、実は最も強固な集団(キリスト教会)の存在を前提に成り立っていたものであって、その宗教の影響力が衰退した今、個を守り共感を担保する集合の場は消滅しつつある。企業社会は競争を伴い、集団であっても共感の場にはなり難い。

ヨーロッパの各都市の、かくも至る場所にカフェがあり、テーブルと椅子が所狭しと路面に設置されているのは、人々の共感の場として、必要性があるからだろう。所詮人間は、いっときも他人と触れないではいられないのである。

ネット社会の出現にコロナが重なり、共感の場が失われ始めたことへの不安が、西欧社会を覆い始めているのではないか?西欧各国の右翼政党の躍進は、国民が強固な集団的結び付きを願望し始めた証左であるのかもしれない。キリスト教という強固な集団があったからこそ、ヨーロッパ人は個を確立できていたのである。共感を担保する拠り処がなくなれば、彼らの自我の足場は揺らぎ、新たな拠り処を求めざるを得ない。

目下わが国は円安で、欧米人のインバウンドが飛躍的に増えたと政府は歓んでいる。
集団志向の際立って強いわが国に、欧米の観光客が多く訪れるようになっているのは、単に円安の効果や治安の良さ、珍しい食文化やアニメ、多彩なファッションへの関心ばかりでなく、集団に依拠し続ける日本人の生き方への関心もあるのではないか?

共感性を失い人同士の接遇・応対にギスギスとかトゲトゲとしたものが顕れ始めると、好い人間関係は失われ、無関心瀰漫する世の中になる。
その結果として、人生の哀歓を共有できる人同士の関係は薄くなるばかりだろう。この現象は、個が確立している欧米で深刻であるように思う。高度に資本主義が発達した国ほど、この問題が顕著になっているように見える。日本も人事ではない。

人間同士が哀歓を共有できない社会は不健全である。病んでいるのである。そのような社会が次世代・未来に亘って、人間性豊かな国民を育くみ続けることはできないと思う。




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