メディアの軽量化

2010年10月11日 | 誰が日本の広告を変えていくのか
マスメディアがこれからも情報産業で重要な役割を果たすために、どうなるべきかについて考察しました。

まず、マスメディアの基本機能である「言論・報道・ジャーナリズム」について、改めて考えてみます。

言論

言論の自由は英語で "Freedom of speech"とされているように、言論は"speech"、すなわち言葉にすることです。

では、なにを言葉にするか。

言論といわれているものは、自分の知ったこと(事実)に基づいて自分の考えを「言葉」にする行為だと定義しても間違いは無いでしょう。

事実だけを言葉にすることも言論と言ってもいいかもしれませんが、じゃあ、日々接する多くの事象のなかから、なぜその事実を言葉にするかというと、そこに自分の考えがあるからだといえます。

「今日ね、夕焼がとっても綺麗でね。」

という言葉の中には、「夕焼」と言う事実と「綺麗」という考えが合わさってそれを心の中にとどめておくことが出来ずに、口から吐き出して、さらに他と共有しようとする"人の営み"があるのです。


報道

報道(ほうどう、英: Report)とは、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論の一種である (wikipedia)。とありますように、報道とは、様々な事実を印刷物や、音声・動画などいわゆる伝達手段(メディア)に乗せて、"広く"伝えることであります。

ここで、注意しなければならないのが、「広く伝達」するという言葉の裏にある「同じ事を」という意味合いです。報道はかならず、その言葉を間違えなく伝えるための「メディア」とセットになって考えなければならないところが、重要だと思います。

人づてに物事を伝えていくのは一般に「うわさ」というものですね。

さて、この広くというのがどのくらいの数からをさすのか、これはもう定義は無いでしょう。

江戸時代の瓦版がどれほどの部数を印刷していたのかは、わかりませんが、当時の日本の大都市(江戸とか大坂とか)で多くの人が同じ情報に触れるという、"報道"の形でありましたでしょう

歴史をさかのぼれば、高札(こうさつ)といったメディアもありますが、これは、お上が下々に伝え渡すためののもので"言論"とはいえませんね。


ジャーナリズム

ジャーナリズム(英:Journalism)とは、日本において報道姿勢、報道活動、報道機関やその業界のことを総括した意味をもつ言葉である(wikipedia)。

といいますが、この言葉は、dayを意味するフランス語jourからつくった言葉だということです。Journalはもともと〔日日の記録〕という意味であるというとことからも、「毎日毎日休まずに"報道"をし続けること」がジャーナリズムの前提でありましょう。

「毎日やる」とは、それが、生活になるわけで、生活するための経済的な裏づけ、すなわち収入がないとやってられない。

大金持ちや、そんな人がバックについた人なら、生活を気にせずにジャーナリズムを続けることが出来るでしょうけどそんな人は多くはない。

歴史をさかのぼれば、日本では、江戸時代に上方を中心とした経済と江戸の政治が分離されることによって、江戸の情報をいかに早く手に入れるかが上方商人の才覚のもとになっていたと考えられます。

和歌山の紀伊国屋文左衛門が江戸と紀州のミカン価格の差を知ったのも、当然江戸の情報をいち早く手に入れるルートを持っていたからでありましょう。

そこに、”新しい情報は価値を生む”という考えが生じ、ジャーナリストから見ると、自らの言論を"金を払ってでも手に入れたい人"が出現するにあたって、報道することで生活が出来るようになる。

これが、「言論活動が生活の糧になる」という状況に転じてきたと考えてもよさそうです。


メディアは技術である。

マクルーハンにたてつこうという気はさらさらにありませんが、やっぱり、わかりやすいところで、メディアは言論を他に伝えるための"技術"である、と定義しようと思います。

メディアそのものがメッセージであるとすれば、自動車にも、椅子にも、あらゆる人工物には、メッセージがこめられて、日々私たちをアフォードしているわけですから、すべてがメディアであると言えるでしょう。

しかしながら、この文章はことさら、”メディア”だけを切り分けて議論しようと思いますので、技術としてのメディアについて考察を続けます

さて、原始、言葉は人類が持った地球上他の動物と大きく違う技術の一つであると言っても過言では無いでしょう。

2010/08/02 日本経済新聞の1面「春秋」に

『類人猿は出会った相手に敬意を表するときには「あっあっ」、見下して威嚇するときは「おっおっ」と叫ぶ。日本人の男性も同様で、目上への第一声は「あっ」、目下なら「おっ」になる。京大霊長類研究所などの発表はそんな内容だった。』

とありますので、現代人は言語上は退化しているのかもしれませんが、"あ"とか"お"だけでなく相当複雑な音表現を使って言語は成り立っています。

言語が技術であるといえる裏づけには、私たちは「英語」という言葉を習ったことがある、という事実があります。人に教えられることは、技術と定義してよいのではないでしょうか。

東洋文明において、仏陀ほど言葉という技術を用いて人々の心を動かした人はいないと思います。そして、釈尊滅後数世紀を待って、文字というさらなる技術を使い、おびただしい数の経典が編纂されていきます。インドで編まれた経典が、玄奘三蔵(いわゆる三蔵法師さん)の指揮するプロジェクトによって梵語から漢語に文字に翻訳が出来たのも、文字というメディア技術が、釈尊の言葉を(正しく話されたとおりであるかどうかは別にしても)固定化されていくのです。

さて、文字と言う技術で言論を固定化していく先にあり、ジャーナリズムという"生業(なりわい)"を生ぜしめる技術は"印刷"であることに、反論は無いでしょう。

印刷機という文字大量複製装置を駆使することで、新聞社という言論機関はそれぞれの言語地域において、強大な力を持つことになります。そして、映画・ラジオ・テレビという、文字を離れて、直接視聴覚に訴えるメディア技術の発明は1対多コミュニケーションの飛躍的な広がりを実現するわけです。

ただ、テレビという電子メディアを見たマクルーハンが、文字文化を過去のものとして定義したのは、アルファベットという表音文字技術をベースにした議論であり、漢字文化圏では、その様相は違って考えなければならないと思います。


メディアは権力の産業化である。

メディア技術史といったものを簡単に追いかけてきたわけですが、言葉を文字にして複製できる技術があらわれてこの方、いずれのメディアもその技術を使える者は限られており、時に近代の印刷・放送といった技術を駆使できる人たちは資本力(=金)を持った人たちでないとできないことでありました。ここに、メディアの産業化が出現してくるわけです。もちろん、メディアの産業化は、マスプロダクションという生産技術の進歩と表裏一体であることは言うまでもありません。マスプロダクションとマスメディアは第2次世界大戦以降の先進国と呼ばれる経済圏拡大の両輪であったことは否定の出来いな事実であります。

一方で、マスメディアは権力者がその権力行使の正当性のために存分に活用したということは、第2次世界大戦時のヒットラーの一連の宣伝映画を例に出すまでもありません。

また、現在よく使われる「広報・PR」という活動も、前提としてマスメディアを通じてのコミュニケーショを想定して考えら得ているように感じられます。

第二次世界大戦後、マスメディアの一大産業化は言論の自由が保証されているとはいえ、つねに国家権力と隣接したところにあり、国家権力の流布ないし、反権力の流布、という権力にかかわることを扱うこと自体が産業化されたと再定義できると思います。(このプロセスが”メディアが世論を形成する”と呼ばれるものなのだと思います。)


メディア産業の機能

さて、産業化されたメディア企業の機能は大きく3つがあります。

  • コンテンツを作る:言論→報道→ジャーナリズムの本道
  • ディストリビューション:publishing。発行・放送→マスメディアとしての基盤
  • 広告:メディアコンテンツから作り出されたコンテキストを受け入れた人(言論の支持者・共感者)に向けて他者の言論(広告)を有料で配布する。

    広告の機能は以下の三つに分解することができるでしょう。
    * ディストリビューション機能の切り売り。
    * 言論支持者の横流し。
    * 他者言論を自言論で補強


  • メディアの軽量化

    流通と広告を捨て、今こそジャーナリズムの原点に戻ろう。

    言論の発露であるコンテンツは、それが、いかに小さなべた記事であってもそれを書く人の目利きが入っている。マスメディアの一つとしての新聞社が、コンテンツ流通と、広告を捨てて、コンテンツジェネレートだけの機能だけになったとしても、その新聞社としての言論(言説)はオリジナルなものとして維持することは十分に可能なはずです。そもそも、ジャーナリズムとは毎日毎日とどまることなく言論を作り続けることだったはずです。今、インターネットによる限界コスト0時代の情報環境で、コンテンツの流通機能を保持していくのは、情報産業にとっては、ほとんど意味をなさないのではないかと思います。

    通信社のように、最終の受け手に向けての流通網をまったく持たないというわけにいかないのならwebサイトを立てればいい。ただし、広告機能はネットワークからの配信を受けるか、特殊なタイアップだけにとどめるべきです。

    あとは、コンテンツを外販する。そのコンテンツを買った人は、新聞紙に刷って配りたい人がいてもいいし、ポータルサイトのような編集(編成)機能でメディアを成り立たせるサイトがあってもいい。いくつかのミドルメディアは、いくつかのジャーナリズムから同じ件についての記事を買い、比較することで、新しい言説(コンテキスト)を見つけ出し読者を獲得していくこともあるでしょう。

    もちろん、個人bloggerや、Twitterをする人たちへは広告掲載と引き換えに記事を”売る”ことも可能。事実mixiなどの広告モデルサイトは、ネタとしての一次情報をニュース提供社から購入しているのです。

    いまこそ、マスメディアはコンテンツ流通と広告に別れを告げて、身軽なジャーナリズムとして、見識を磨いて個人ジャーナリズムに負けないプロ集団になるべきだと思うのです。


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