爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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作品(5)-2

2006年08月10日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(2)

 千葉から、江戸川という幅のある河を越え、東京に帰って来る。女性に対して、新たな認識を手にすることもなく。また、東京の端っこで日常に没頭する。だが、その日常の生活とは、いささか折り合いがつかない。日常と自分の両者のあいだで決定的な和解もなく、愛着ももてない生活を送っている。その答えを得ようと本を手にする。数百円の文庫本で、すべての解決を願っている。
 駅前の本屋に入った。今回は井上靖の「あすなろ物語」をつかんでレジに向かう。なにか新鮮さの前兆のようなものを感じ、店を後にする。すこし離れた公園まで土手沿いを歩く。歩きながらもさまざまな考えを道ずれにしている。
 そして、2時ごろから読み終えるまで、ベンチに座っていた。学校帰りの小学生が通り、買い物途中の主婦が自転車をこぎ、サラリーマンが缶コーヒーを飲み、そうした背景のもとに自分だけは、書物に没頭した。エリートではないけど、明日には、きちんとした樹木に成長を望んでいる物語。自分にも当てはめて読んでいる。この年頃で、自分の存在を度外視して、本を読めるだろうか。そうは、思えない。そろそろ、家に帰らなければ、と疲れた目をいたわるように遠い緑を見た。その光景が、本を読む前と時間の差だけではなく変わったような気がした。簡単にいえば、その数時間で少し大人になったのだろう。
 こうしながらも、必要な金銭を手にしなければならない。家族と一緒に住んでいるので、自分の娯楽のためだけでも、満たさなくてはならない。でも、心のどこかで進歩に必要な時間を持ちたいとも思っている。図書館に行く。そこに大量の書物が、眠りが覚めるのを待っているお姫様のように横たわっている。それを、自分は揺り起こす必要と、動機があるのではないかと考える。その考えに長い間、熱中する。人から、知識をもっていない人間とは思われたくなかった。プライドとも違う。ある程度の知識が、幸福を鋭角的に切り込んでいくためには、重要なナイフのような役目を果たすのではないかとも思っている。しかし、少女の微笑みも、同じほど強いシンパシーを有するが。
 都合がよいのか、簡単なのか、テレビ番組のエキストラのバイトがあった。長い間、待っている生活。考え事にはもってこい。コメディーのドラマを見て、笑った声を録音するような仕事もあった。でもそれは、本気で笑えるような内容ではなかった。それ自体に問題があったわけではないのかもしれない。自分が、自分の存在をもてあましているのに、ちょっとした滑稽さで笑えるだろうか。こうして、その安易な状況にでさえ、自分を追い詰めていく性格だった。
 だが、すべてが悪い方角に向かうわけではない。そこで、長い間待っているときに、ある女性と話し出す。きれいな、はっきりとした顔立ち。昔の東洋人の先祖は、こうした顔をしていたのではないかとルーツさえ感じさせる面立ち。彼女の、その自然な温かみに、気持ちはかたむく。そして、何度か会ううちに彼女の声を待つようになる。
 もう一つは、バブルの絶頂期だったのか。恩恵には、一切関わっていないと思っていたが、やはり過ごした時代とは、誰一人として無関係ではいられないでしょう。後世に名を残す芸術家だって、ミケランジェロの壁の絵だって、ルネッサンスの時代と離れているわけではない。本人が、無頓着であろうと、迎合しようとするかにも関わらず。
 その金銭があぶれている時代のため、それらのテレビ番組の収録が遅れたりすると、2,3人ぐらいで同じ方向の人が乗り合わせ、タクシーをつかって帰れた。自分は、小田急沿線沿いから、直ぐ人が降り、夜の東京を独り占めしている。あんなにきれいな東京は、いままで見たことがない。後部の座席で考えている。自分は、どこに揺られようとしているのか。もし、可能なら何になりたいのか。自分は、大衆に埋もれるべき存在なのか。まわりと自分を区別する差は、どこにあるのか。明日、目が覚めると大きく変化する予兆があるのか。そう考えていると、目的地の自分の家の近くまで車は来ていた。すこし離れたところで、停めてもらいあとは歩いた。いつもこうだ。家の前まで送られると、スイッチの切り替えが出来なくなる。自分の家での状態に、おとなしい無口な殻に戻らなければならない。傍目から見ると、たいして違いもないかもしれないが、自分では拘っていた。
 この仕事は、長く続かなかったが、そのさっきの女性を知り、さらに彼女の放つ女性としての影響が、自分に深く残る。「女性」という言葉を目にしたり耳にしたりして、世界中の半分の血の通った人々を想像するが、当面は、この一人のことが頭に浮かぶ。真っ先に。先頭に。
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