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拒絶の歴史(82)

2010年06月23日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(82)

 翌日、目が覚めてもぼくは終わった関係に捉われている。それはつかの間楽しめれば良いだけの関係であったはずだが、意外なことにぼくのこころの深い部分にしっかりと錨を降ろしていたようで、その鈍い重さが体内にずっと残って居続けたままだった。それを振り払うようにどんよりとした身体にシャワーを浴びて生き返ろうと試みたが、大学に向かうためにバックを担ぎ外に出ると、そこは生憎の雨模様で、またどんよりとした身体に重い脳をさらにプラスした。

「なんか元気ないみたいなんだね」と、斉藤さんが言った。こうした面では女性は敏感であった。
「そう? いつもと同じだと思うけど」ノートを開き、ぼくはそこに顔を伏せた。
「なら、いいけど」と言って彼女もそれ以上、干渉する興味が失せたようだった。

 その日の一時間は、あまりにも長くぼくはいろいろなことを空想した。空想の中の女性は実際の身体を有し、ぬくもりや吐息を目の前に存在するかのように感じた。また、ぼくや彼女が発言した言葉や、言われなかった言葉や、言葉を用いないでも意思の疎通がはかれたことや、さまざまな思い出がぼくの脳裏をよぎった。外は相変わらず雨で、その音が他の音を消して空想させる静けさが保たれていた。丁度、外国語の授業でその未知なる言語が、ぼくの耳にも心地よく聞こえたが、理解とかは得られず、頭脳への痕跡はまったくなかった。

「やっぱり、なんか変だよ。こころがここにないみたい。上の空っていうのが当てはまるのかな」と斉藤さんが再び現れて言った。
「体調が悪いのかな。どこもおかしいところは感じないけど」
「早退すれば」
「このあとバイトもあるんだよな」
「それは、ご自由に」と言って、彼女は外に出た。傘を教室に忘れたらしくしばらく呆然としていたが、直ぐに振り返り取りに戻った。

「この前の洋服、もう着て見せた?」とぼくが言葉をかけたがそれを無視し、まっすぐに歩いていった。ぼくは言葉の行き先を確認するように彼女の背中を見たが、どこにも落ち着き先はなかった。それで、ぼくも仕方がなく食堂へ向かった。そこで温かいそばを買い、ジュースをお盆に載せ、ひとりで隅のテーブルに座った。

 またもや空想の翼をひろげ、いや違ったかもしれない、思い出のいくつかのピースをあれこれ取り出してもてあそんだだけかもしれない。それは楽しい反面、もちろんのこと思い出すだけで痛みを伴った。何度も言うが、ぼくらはただの遊びのつもりだったのだ。ほんとうはそう思っていたのは向こうだけかもしれない。感情の引き出しが多かった自分は、いとも簡単にその女性に所定の引き出しを与えていた。

 その間にもそばをすすり、ジュースを飲み干した。グラスの中の氷はカランと良い音を立て、ぼくの中でなにかが終わった印象を得る。また午後もいくつかの授業を受け、それが終わりいつものようにバイトに向かった。

 バックを置き、店の中に立った。そこにいればいつものような状態に戻れた。仕事も適度にあわただしく、のんびりと空想している暇など皆無だった。最後にお金の計算をして、店長に確認してもらい店を出た。雨はもう止み商店街のなかに無造作にこわれた傘が捨てられていた。

 家で食事をするのも面倒だったので、途中の飲食店を探した。そして財布の中身を考え、バイト代が入ったばかりだったので、上田さんの父に連れて行ってもらう店にひとりで寄ることにした。誰かの声を聞きたかったのかもしれないし、それに応答する自分の声を確認したかったのかもしれない。なんとなく孤独だった。戸を開けると、一日雨だったためかお客さんは少なかった。

「今日はひとりで来てくれたんだ」きれいな女性がカウンターの向こうから声をかけた。
「はい、ここでいいですか?」ぼくは、その前のカウンターの座席を指差した。
「どうぞ、ビールでいい?」

 ぼくは頷き冷えたグラスを手にした。それから、いくつかの言葉を交わし、その間に常連らしきお客さんはみな帰り、静かな店内にぼくら二人だけが残っていた。話をきくと、彼女はひとりで男の子を育てていた。身体を動かすことが好きで、もう少し大きくなったら、ぼくがいるサッカーのチームに入れてみたい、と言った。

「これでも、何回か練習を見に行ったことがあるのよ、知ってた?」ぼくは首を横に振る。自分がなにも知っていないことも認識する。そして、今日の思いの当然の帰結のように、ぼくはあるサッカー少年の幼さの残る母を思い出していた。


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