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雑貨生活(6)

2014年10月25日 | 雑貨生活
雑貨生活(6)

 ぼくは彼女が書いたドラマを見ている。最初はうれしい気持ちでいっぱいだったが、そのうち、その気分は干潮の浅瀬に打ち上げられた流木にでもなってしまったようだった。

 主役もいれば脇役もいる。主役といっても栄光を帯びないことを知らされる。その駄目な主人公はまるでぼくのようだった。彼女の目を通して映るぼくはこのようなものなのだろう。しかし、嫌いであるということでもなさそうだった。どこかで愛着も感じられる。しかし、こころのどこかで自分をハンサムだと定義した感覚は猛スピードで振り落とされる。高速道路に散らばったぼくの自尊心。そして、通行止め。回収中。

「あれ、ぼくなのかね?」
「さあ」

 第一話は終わったところである。ぼくはつづきが気になる。

 発注や依頼があるので、工場の機械は作動する。職人が積み重ねた経験と、長年で培った勘が、思い通りの品々を完成させる。納期までに。多少の欠陥品を取り除いても、満足いく数は充たされたのだ。

 ひとの頭脳もこういう作業に向いているのだろうか。彼女は、とっくに書き終えて、製本された台本として俳優さんの手にも渡っている。言い間違いや読めない漢字の暴露で、リハーサル中に失笑も起こる。もう一回、やり直せばすむ話だ。ひとは台本のもとに行動する。

 その滑稽なヒーローのふるまいが相変わらず、引っかかっている。彼女を引き留める会社と、独立を願う意識が拮抗して、彼女をイライラさせている。しかし、まだ出社のしがらみを断ち切れないで、彼女は化粧をくりかえす。カバンを持ち、玄関でふりかえってキスを強要する。いや、要求する。

「ね、今日だけは、丁寧にひげを剃ってね。それで、待ち合わせに絶対に遅れないでね」

 念を入れる。念入りに。彼女は自分のものを売り込む力より、ぼくを後押しすることに必死と呼べるまでのエネルギーを注いでいる。ひとは、どんなことより身だしなみが重要なのだ。笑顔で相手のこころを勝ち取り、その恩恵で作品もやっと手にされる。出来具合いなど二の次なのだ。見栄えの良いもの。立派に見えるもの。価値がありそうなもの。エッフェル塔のようなもの。

 ぼくは横になり、豆をつまみながら昨夜のドラマを見ている。ぼくは徹夜気味の彼女の姿がまず浮かんでしまう。時間は限られていて、日中の仕事を終えて、眠くならないよう軽めの夕飯ですませて、机に向かっている。女性のお尻など、長時間、椅子にすわるようには作られていないのだ。

 ぼくは一日、仕事をしていた。仕事のようなことをしていた。周辺には誘惑が多かった。爪切りは伸びる量と切れる量のせめぎあいで汲々としており、鏡は自分の顔にできた微細な変化を見逃さない。眉と眉の間の適当な距離をはさみで調べる。犬が眉毛を描かれている。あの心細そうな表情を思い出して、ひとりで笑う。

 ぼくも机に向かう。男性が指先の動きだけで稼ぐには、どこかで不正があるような気もしていた。重い荷物を汗水たらしてかつぎ、昼飯はどんぶり飯をがっつく。ものの数分で食事も終わり、新聞紙をひろげただけの固い床で昼寝をする。胃薬も程度の良い枕も必要ない。安楽な感触。考え事は無数にあった。

 なぜ、書いているのか。ぼくにある闇は、ひとりになり、発表できる範囲というのを自分のなかでぎりぎりに設定して、その許す半ばあたりのことを書こうとしている。闇は深いのだ。反対から見れば、とても浅いのだ。

 ぼくは立ち上がり、クローゼットのなかで着られることもなくぶら下がっているスーツを見つける。外に出して風に当てる。今日は出番だ。しかし、ネクタイがない。引き出しを開けると器用に丸められ、柄だけは分かるように入れられていた。巻きずしを選ぶようにぼくはそのひとつをとる。わさび色。

 なぜ、面接時のような不安な気持ちでいるのだろう。

 その不安感を忘れるように、追及をかわすように、ぼくはコーヒーを入れ直して、また昨日のドラマを再生した。

 さすがに見せることを求められている俳優が演じているのだから当人よりいくらかまともに見えるが、いつもの定番のよれよれの服装で、靴もかかとをおさめることもなくだらしなく履かれている。それが許されるのはいくつぐらいまでなのだろうか。

 ぼくが言ったであろうひとこともセリフとして成立している。ぼくは観察者だったのだ。圧倒的なまでに無言のメモが支配する頭首だったのだ。あれ、当主だ。主だ。違うか、党首だ。ことばは多過ぎる。

 だが、いや、だから、ぼくは自分の素行を観察されているなど思ってみなかった。視線はこちら側からの一方通行で、自分の振る舞いには無防備だった。だが、こうして、それらしき人物が作られて、演じられてしまっている。

 素行を注意、指摘されることなど、とっくに終わっている事実のはずだった。きょう、会うべきはずのひとは、あのドラマを見てしまっているのだろうか。「あ、こいつが、あのダメ人間のモデルか?」と、思ってしまうのだろうか。ぼくはドラマを見ながら段々とその主役をマネしはじめている自分を感じる。これは、マネか、それとも、原型の模倣か。鋳型はどちらなのだ。丹念な仕事を売りにする職人なら直ぐに見分けられるのだろうが、ぼくにはそこまでのゆとりはない。ぼくはひげを剃る準備をしなければならない。犬のように、愛らしく見える眉も描かなければならない。



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