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拒絶の歴史(73)

2010年06月06日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(73)

 妹が大学に受かり、なにかをプレゼントしたいのだけど、なにがいいかねと雪代と電話で話している。

「それなら、普段使えるようなバックを探してあげる」と彼女が言った。ぼくはそれで迷っていた荷を彼女に預け、軽くなったような気持ちをもった。「今度、戻るときまでに見つけておくね」と言って電話を終えた。ぼくは、それがどのような形状のものかを想像し、次に色のことを考えた。彼女が探すものだからまずくないものなのは理解できたが、それまでに妹と面と向かって会ったことはなかったので、それが似合うかどうかは少し不安だった。

 何日か経って、雪代は戻ってきた。その間にも妹から何度か催促されていたので、少しでも早く渡してしまいたかった。ぼくは、予定を作り、妹と会うことにした。当然、そこには行かないと雪代は考えていたが、せっかくなので彼女を誘った。もう、彼女の存在を無視してよい時期は過ぎたのだと思っている。ぼくは、妹とも親しくなった以前のガールフレンドとの縁が切れたために、その関係を壊した要因になった雪代のことを好きになれないらしい感情は理解できた。しかし、それはもう昔のことなのだ。覆すことのできない歴史の一部であるという風に定め、もう過去に捨ててしまおうと考えている。

「行ってもいいの?」
「もちろん、雪代が選んだものだよと言うから」
 ぼくらは支度し、待ち合わせの喫茶店に向かった。よく行く素敵なピアノがいつもかかっている店だった。その日、店の主はビル・エバンスをかけている。思いもよらないときに聴く彼の演奏はシンプルでありなおかつ装飾もあって、さまざまな思いを導き出してくれた。

 妹はまだ来ていなかった。ぼくは店主の子どもの野球についていくつか質問し、彼は丁寧にそれに答えた。そうしていると妹が入って来た。彼女はぼくがひとりだと思っていたらしく、少し動揺した表情をした。しかし、いまさら後戻りできないことに気づいたようにぼくの前まで歩を進めた。

「なに、飲む?」とぼくは訊いた。
「アイス・レモンティー」と彼女は答える。ぼくは、雪代の顔と妹のそれを交互に眺め、雪代を紹介した。「はじめまして」と妹は言い、自分の名前を告げた。それからバックを手渡し、
「彼女が東京から持ってきてくれた」とぼくは言った。妹は感謝の言葉を述べ、それでもいくらか腑に落ちない表情をしていた。「彼女のことは知っているだろう?」
「美容院のポスターを見てます」
「わたしのことはともかく、お兄ちゃんの選択したことを許してあげてね」と雪代が口を開いた。
「そんなことを言わなくていいよ」とぼくは彼女を制した。
「憎んでなんかいません。お兄ちゃんが変わってしまうようでみんな怖かったんだと思います」
「じゃあ、もう平気なんだ?」とぼくは訊ねる。
「前のひとのこと、わたし好きだったから」

 ぼくらは沈黙する。そして沈黙のようなビル・エバンスのソロ・ピアノが流れている。店主は耳をふさごうとしているようだった。少し話したあと妹は予定があると言って、先に帰った。最後に雪代は、「大学生活を思う存分楽しんでね」と言った。

 ぼくらは店に残っている。音楽は華やいだものに変わった。インテリジェンスよりリズムだと主張する音楽だった。その軽薄さをそのときのぼくは愛し、また和んでもいた。同時に妹は父や母に彼女のことをどう伝えるのだろうと考えている。

「可愛い子だったね」ぼくは耳を音楽から彼女の言葉に切り替えた。
 外に出ると春を予感させるような暖かい日射しがあった。
「辛くなかった?」
「大丈夫よ、あれくらい。でも、ひろし君の方がいままで嫌だったでしょう?」

 ぼくは、どう答えたらよいか分からなかった。ただ、自分の過去に起こったことを順番に並べ、どこが間違いのもとか探し正そうとした。だが、それは誰にも決してできないことだった。ただ、雪代と深い関係になるタイミングの時期をずらせただろうかとも考えている。

「何かひとつ片付いたみたいでさっぱりとした」と彼女は言った。その彼女のいつもの大らかさが戻ってきたようで、ぼくは安心した。「お腹減った」と子どものように雪代は言った。そして、ぼくの腕に手を回し、きつく掴んだ。もうぼくは何も恐れないで暮らせると考えている。


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