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流求と覚醒の街角(63)ソファ

2013年10月20日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(63)ソファ

「あれ、ここにあったソファはどうしたの?」奈美の部屋は様変わりしていた。
「この前、粗大ゴミでもっていってもらった。少しくたびれてきたから」
「そうなんだ。残念だな。あれ、座り心地がよかったから」
「新しいの明日の午前中に配達されるから、それに馴れて。あと、置くの手伝って」

 結局、ぼくは以前のアパートにそのまま住んだ。奈美は新しい家具を手に入れる。ぼくらは交わる一点を思いがけなく避けてしまったようだった。新しいものに馴れて、と奈美は言った。ぼくは前のソファに愛着がこれほどあるとも思っていなかった。だが、失われてはじめてそのものがもたらしてくれていた快感を知るようになる。だが、どこかで古いソファは再生されていくのか、反対に既に解体されてしまっているのかもしれなかった。どちらにしろ元にもどすことができないものたち。

 ぼくは座りなれたところが奪われ、床にクッションを敷いてすわった。奈美がぼくに寄り添い、テレビを見ていた。土曜の夜は、親密なひとと過ごすとより魅力的な一日になることを自信をもって告げていた。自分をアピールするとか、自分のつくったものを必死に売り込むといういつかは経験するもがきの時間ではない。ただ、ゆるやかに関係は深まっていくのだ。奈美はぼくのひざを枕にして眠ってしまった。ぼくは行動を制限される。動けるのはテーブルにある豆を食べ、お酒のグラスを握ることぐらいだった。その酒も氷で薄まり味のないものに変化していった。

「わたし、寝てた?」と、当然のことを奈美は訊く。
「寝てたよ」
「足、痛かった?」
「ぜんぜん。でも、このごわごわした布地で奈美のほうこそ痛くなかった?」

「ぜんぜん」そう言って、奈美は首の骨の継ぎ目を修正するように首を降った。ぼくはその様子を見てから冷蔵庫に飲み物を取りに行った。余程、親しくならなければ冷蔵庫を無断で開ける権利もない。そこは人間の生活の聖域でもある。ひとのひざを枕にすることも、かなりの関係性を要した。
「わたしも飲む。のど、渇いた」
「どれ?」
「同じのでいい」

 ぼくは両手にグラスを持ち、数歩だけで縦断できる部屋を歩く。ぼくはここに何度、来たのだろう、と不意に考えた。同程度、奈美もぼくの部屋に来た。そこをひとつにする可能性もあったのだ。だが、なんとなく先延ばしにした。

 翌朝になってトラックが停まる音がする。その前に窮屈にバックする電子音がしていた。それから奈美の部屋の玄関のベルがなる。先ずは受け取りにサインをして、男性がふたりで重たい荷物をなかに運び込んだ。ぼくはすることもなかった。二人が靴を履きなおしてから、また電子音がしてエンジンを吹かす音も聞こえた。ぼくはそれを合図にダンボールの梱包を剥がしていった。

「こういう色か」
「けっこう、高かった。丈夫そうだから、ずっと、使えるけどね」
「丈夫がいちばんだよ」

 ぼくはゴミになったものをたたみゴミ捨て場に持っていった。収集される曜日がやはり自分の家と違うことになんとなくだが驚いていた。生活習慣はささいな取り決めや指示に影響されることらしい。ぼくはふりかえって奈美の部屋を見る。あそこにいるひとを知ったから、自分はこの町にいて、あの部屋に入る権利も与えられたのだ。その部屋のソファにすわることもできる。数年前の出会いが出会いという平板なこと以上に化けたのをいまのぼくは知っていたが、あのときはこんな日が来るとは当然のこと知らなかった。時間は早急に過ぎ去ろうとするが、利点もたくさんあるのだ。

 部屋にもどると奈美はもう座っていた。
「新しいのって、いいね」とうれしそうに身体を動かした。
「よくないのもあるよ。新品の革靴とか」
「じゃあ、何年も付き合った女性のほうが楽しいという論理になるよ」
「まあ、扱いやすいけど」
「新品もいい?」
「そりゃ、いいね」
「ここに座って」奈美は空いたスペースを片手で叩いた。ふたりがゆっくり座れる幅があった。「新しいのに馴れて」

 奈美はそればかりを昨日から言っていた。ぼくは奈美と会ったときに、前の女性の存在を充分意識させられる結果になった。比較とか不満の問題ではない。ただ違うタイプの存在であるということだけだった。千差万別という言葉以上に違っているわけでもない。ひとが意識する異性など偶然でもなく似通ってくるのだ。それでも、ある面では違っていた。だが、不思議でもなく人間の順応性は段々と馴れというものが生活を支配していった。

 ぼくは奈美の横に座る。自然と身体が寄り添う。人間が触れる温か味を感じる。そのひとが放つ微量の個性の匂いも感じる。それが安心の原因であり、赤ちゃんが母に抱かれただけで泣き止むのと同じ理屈だと思った。しかし、新品の家具だけが発する塗料のような匂いもあった。奈美はこの上で生活を今後する。ぼくもこれに座る権利がある。ぼく以外はここに座る男性もいないのだと思った。すると、新しいものだが急に親しみを覚えた。名前をつけられてはじめて大事にするという感覚も芽生えそうであった。ぼくはその布地を撫で、これを何と呼ぼうかと考える。しかし、またしても奈美はぼくのひざの上で横たわる。その重みすら自分は名付けたかった。でも、愛とか安心とかの陳腐すぎる言葉しか浮かばず、幸福というものも陳腐が作る最高傑作だとも感じられてきたのだ。確かに、数年前には知らないことだったのだが。


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