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壊れゆくブレイン(118)

2012年09月07日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(118)

 スポーツが世界で戦うという次元になっていく。ぼくらが若いころはまだ頭の片隅にもそんな考えは入り込んでいなかったように思う。小さいスペースで自分の勝ちを誇ったり、負けたことを世界の終わりのようにも感じていた。そんな世界は、見渡す限りどこにもなかったのに。

 大人である冷静さがぼくにそのような回答を与えた。大人の自分はそれで納得するが、数十年も前の自分はその意見をないがしろにする。

 それはスポーツという分野だけに限らないのかもしれない。芸術もしかり、また芸能も世界という座標軸を基準にしていなかった。多くのものは言語という制約がある。ほかのひとの感情に直接に働きかけ動かす要因となるのは言語である。だが、バレエやただ早く走るということは言葉に頼る必要もない。

 ぼくはいくつかのスポーツをしたが、いまはもっぱら見る側にまわっている。東京で大きなサッカーの試合があり観に行ったが、いつものようにビジネス・ホテルも予約できなかったし、それよりましなホテルも埋まっていた。かけられるだけの電話はかけた。仕方なく、ぼくは広美の家の一室に泊まることになった。それはなぜだか居心地の悪い気持ちにさせた。もともと義理の関係ではあったが、そういうことを度外視する仲にはなっていた。だが、しばらく離れて暮らしていると気恥ずかしさが先に立った。でも、ぼくはその試合がなんとしても見たかったのだ。

「泊める代わりに、これ、いっしょに見に行って」
 と、広美はバレエのチケットを差し出した。
「彼氏みたいなひとはいないの?」
「いないから誘っているんじゃない」そういう言い草は若いころの雪代に似ていた。
「途中で寝てもいい?」彼女は返事をしない。ただ冷酷きわまる視線を向けた。

 その前にぼくはサッカーを見る。広美がバイトを終えたというので待ち合わせをして、いっしょにご飯を食べる約束をした。そこで、さまざまな話をする。この大人の女性になりかけている人物は、もし、雪代がいなかったらぼくと接点はなかったのだと当然の事実を考える。好きになったひとのひとり娘。それがぼくの人生に大きく関与した。

「瑠美は、最近、彼氏ができたみたいで付き合いが悪くなった」と、彼女は友の近況に対していくらか憤慨している。ぼくは寝耳に水という言葉をあらためて認識する。彼女は、ぼくの甥と結婚するのだ、と誰かの予言を真に受けていた。そんな遠回りを許してはいけない、という不確かな気持ちがあった。しかし、それはただ第三者の当てずっぽうな意見や予想であった。だが、ぼくは腑に落ちない。

「へえ、うまくいってるんだ」
「え? うまくいってるとか、なにも言ってないよ」広美の食欲は増す。東京で、やはり孤独な食事をしているのかと、その空虚な時間を可哀想に思う。
「言ってないけど、付き合いたてなんてうまくいくに決まっているじゃんか」
「そうなの、知らないけど」
「でも、彼女のこと陰で好きになるひとなんて大勢いると思うけど」甥の気持ちすらぼくは知らないのだが。
「陰にいたら分かんないよ。ひろし君もママにきちんと伝えたんでしょう?」

 ぼくは先ほどまでいたサッカー・グラウンドのことを考えている。応援にも言葉が必要なら、チームの仲間に戦術を伝えるのにも言葉が必要だった。ときには群衆が発する怒号に消えてしまうかもしれないが、練習のときに多くの時間を費やして、それらに対処していたはずだ。ぼくと雪代も多分そうなのだろう。

「瑠美ちゃんに、誰か紹介してもらえばいいのに」
「そういう関係じゃないよ」

 ぼくは彼女の母との出会いを考えていた。それは、誰かを介するという柔なものではなかった。ラグビーで疲れた身体に、その存在が飛び込んできた。有無をいわせないほどの強い衝撃だった。あれがなかったら、一体、ぼくのその後の人生はどうなっていたのだろう。それは余程つまらなくし、味気のないものとなったのだろう。だが、起こってしまった。別れを挟んだが、それも何の意味もなさなかった。彼女がいないときにその美を手にし、また反対に失ってこそ裕紀も尊かったのだろう。ぼくは、そういう立場にならなければ大切なものに気付きもしない感覚の乏しい人間のようだった。財布の中身に無頓着の人間のように。だが、失ったときは誰よりも悲しみの袋を巨大化させた。それに押し潰されることすら望み、しかし、どこかで逃げ道をずるくも作っていた。

「ましな洋服ある? 明日は、サッカーと違うからね」と、広美はご飯を食べ終え満足した顔でいった。
「もっと、若くて、優しいこを探せばいいのに」
「いまさら、遅いよ。それに泊めてあげるんだから」
「分かったよ。きちんとした格好をする。さてと、夜は早いし、コンビニでビール買うよ」
「どうぞ。誰も止めないよ」

 ぼくは袋をぶら提げ、東京のある街の路地を歩いている。ここには雪代の印象はまったくない。ぼくは最初の妻である裕紀とこのように普通の普通の時間を過ごしたことを思い出している。華美なものもなく、雑踏も明滅するライトもなかった。それだから幸せな一日として壁に釘付けできるようにも感じていた。しかし、留めていたはずのものはもうなく、外したあとの日に焼けた壁紙もなかった。


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