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問題の在処(1)

2008年08月30日 | 問題の在処
問題の在処(1)

 それで、ふとしたきっかけである人々たちの存在がぼくの生活に入ってきて、それは、いま考えてもとても喜ばしかったことだけれども、出会いや別れをとおして、さまざまなものに変更を求められるのは常で、そもそも複数の人間が共同で生活を送ることを決意した以上は、過去の安寧の繰り返しは許されない。大きく語ればドームの中で暮らすのには屋根という形式の法律が必要なのも、そういうことからなのだろう。まともなルール作りの基盤を誰かが受け持たなければならなくなる。野外は、風や雨の影響が強いものである。かりそめでも雨宿りの場所が必要である。

 屋根を突き抜けるホームランなど誰一人として打てないものであるから。もし打ったとしても世界から追放されるだけだろうが。

 風雨のしのげるもの、それを、世の中のシステムが負ってくれるのか、別のなにかが埋めてくれるのかは分からない。

 共同体という幻想だけは生きている。

 人はそうした場所自体を政治と呼んだりもするし、ただの約束事と言うかもしれない。しかし、規則がそこにあるのはどう考えても事実で、それをどう上手く解釈するのか、また抜け道の隠れている部分を探す能力がある人も出てくるかもしれない。無視しても規則はじっと声をひそめて、不正を見張ったりもする。

 自分の希望と、やりたいことと、さまざまな税金を求める世の中と、また世の風習と世間の目と、いろいろなものを掻い潜りながら、寿命だけはまっとうしなければならない。 

 なにか難しく考えているのだろうか。

 普通に両親がいて、選択の問題があったのかも分からないが、ある男の子や女の子が世の中に生まれる。あとは、生存競争である。いくら文明社会であったとしても、ライオンの親子とそう境遇は変わっているわけでもないだろう。とにかく生き延びなければならない。クールさとか、譲って自分は2番手とかが入らない世の中なのかもしれない。自分は、なにか見当違いをしているのかもしれなかった。無邪気な笑顔には幸せが訪れるとでも思っていたのだろうか。

 何十年後かに、この文章がドラム缶かなにかに紛れ込み、世界の果てで、これまた世の中の一員であることにあきれている誰か、その人の手に入り、同感を寄せてもらえたら、どんなにか良いだろうかとも思うが、人にそう期待もできないのだが、味方になってくれそうな人の顔を思い浮かべてみる。そうすると、数人は思い当たる。

 自分にも友人がいた。その人たちが自分に大きな影響を与えるなどとは思ってもみなかったが、いま振り返ってみると、自分の気持ちの少なくない部分を彼らに負っていることも理解する。

 そのことを当人たちは知らないだろう。いつか言わなくてはとも思っているのだが、ちょっとした時間もあるので彼らとの関係からはじめて自分の存在と、また世の中の移り変わりと、栄光と不遇と、そういうものが残ったらいいとも考えている。誰が、この世の中の勝利者になるのだろうか。

 いま、冷蔵庫から冷たい飲み物をとってくる途中、妻と自分の息子が暗くなった部屋で小さな寝息をたてている。それは、とても幸せそうなノイズだった。彼らは、少なくとも自分に頼ろうとしている存在だった。翌朝、自分がいなくなることなど考えてもいないだろう。もちろん、できるだけ長く一緒に暮らせるよう、ローンを組み、この小さなマンションも買ったのだ。自分は幸運の持ち主だったのだろうか? 社会の仕組みをこれ以上ないぐらいに使う能力に長けていたのだろうか?

 それとも、ごく一般的な長所と短所の螺旋的な組み合わせの一人に過ぎないのだろうか。

 すべては他と比較でしか判断ができないのなら、その判断材料を提示しなければならない。

 長い前置きだが、誰と自分は、この小さな生活を比べなければならないのだろうか。

 後ろを振り返る。あそこの部屋には、過去の一時期、自分を愛してくれることを望んでくれた女性と、自分に頼ってくれる分身がいる。明日の日曜日には、彼らとのささやかながらも、楽しい一日が待っていることだろう。


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