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「考えることをやめられない頭」(23)

2006年12月04日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(23)

 多少、手元にホテルで働いたお金が残ったので、一人暮らしの資金にしようか、それとも安い中古車の元手にでもしようかとの、どちらかで迷った。せっかくなので、何かのきっかけを生み出すように、その金銭を使いたかった。
 目星はついているのだろうか? 東京だと家賃も高くなるので、住まいのことを優先するなら千葉方面を考える。柏あたりは、どうだろうか。駅前も、賑わっていることだし、都心に出るのも、もうそんなに憧れを抱いてもいなかったが、まあこの辺りが妥当かなとも考える。
 もう一つは、手賀沼というところへ、子供の頃に釣りにいったが、あの辺も良いかな、と候補にあげる。なんだかんだ自然にも触れた帰りなので、いくらかでも自然の名残みたいなものを掴みたいとも思っていた。
 散策がてら、一つの不動産にはいる。予算などを相談し、忙しそうにも見えなかったが、鍵と地図だけ渡され、そこに行くよう言われる。その地図を頼りに迷いながらも、我が新居になるかもしれないところを見つける。鍵をあけて中に入る。そこの部屋の真ん中に風呂のボイラーのようなものが陣取り、くつろげるような雰囲気は皆無だった。部屋と呼ぶにはあまりにも、みすぼらしく、また不動産屋の自分にたいするあつかいも邪険だったので、その間取りの載っている書類を部屋に置き、トイレに入り用を足し、また鍵を閉めて出てきた。今度は迷うこともなく、不動産に戻り鍵を返した。
「ちょっと、違うみたいでしたね」
「そう、東京の人は離れないほうがいいよ」と不動産の店主はぼくに声をかけ、その関係は終わった。
 もう少し不動産を廻ってみた方がよいのかもしれないが、なんとなくその気が失せていく。また、あのような部屋に自分の身体を持っていきたくもなかったし、その部屋に首を突っ込みたくもなかった。
 まあ、ここまで来たので、そのあまりきれいでもない沼でも見て帰ろうと思い、また電車に数駅のる。子供たちの成長を祝う儀式のシーズンだったのか、きれいな服につつまれた子供が近くの神社にいた。すこしばかり微笑ましく感じた。
 なだらかな傾斜のある道を歩くと、子供の頃に感じたより長いような気がしたが、目の前に水面がひろがる。それを見て、こころの中の憧れの箱のようなものが開いて、自己を解放したような気がした。なんだ素敵な場所ではないか、との箱の中味が喜びの声をあげる。でも、もしかしたらたまに訪れるから、こういう場所は居心地がよいのかとも思い出す。一人で自分を主人に暮らしてみたかったが、その気持ちが減少しはじめる。いくばくかの新鮮な空気を胸に取り込み、包み、いま通った道をあとにする。
 途中に落花生を売っている店がある。母親が夢中で食べることを思い出し、なぜかお詫びのように買っていこうと考える。親の感情を喜びで満たすのも、たまには必要だよな、とあまり自然に湧きあがった気持ちでもなかったが、なんとなく納得する。拘泥しすぎる肉親との関係。
 家も決まらず、冬の日は傾きはじめる。
 自分を慰めるように、もと来た駅に戻り、時間を潰そうと映画館にはいる。どのような未来を作りたいのか、自分でも謎だった。もしかしたら、自分はものにならないまま、この人生を終えるのだろうか。自分が生きようともがいたりすることには、なんの価値もないのだろうか。暗い映画館を出て、冬の到来を待ち望んでいる外気にさらされても、自分の頭脳は火照ったように、その価値のない生涯を思い描き、さらに必死におぼれる人のように空中をかき乱したいような気がした。
 電車に乗る。大きな幅の川を越える。そして、東京の端。メキシコとカリフォルニア。南米と北米。その一本の川を、自分はそのように大層にかんがえているのだろうか。東京の落ちる滝の手前のような場所に住んでいる自分。そこで、自分の頭脳とわだかまりと、煩悶をこしらえた自分。
 来たときと落花生の分だけ荷物が増えた自分だった。そして、少しだけ普通に生活をするだけで、金は消えていく。自分の成長のために使いたいが、どうなるのだろう。目減りしていくのか。
 家に着き、ちょっと千葉の方に行ってきたよ、と告げ、部屋を探したことは言わずに、手にもった袋を投げ出し、「好きだと思ったので」と母に投げた。


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