最後の火花 13
母は水着を着ていた。小さなサイズのビキニだった。山形さんの胸には少しだけ毛があった。ぼくもその年だけしか履けない水着を着ていただろうが、柄自体にも無頓着だった。おしゃれなどとは無縁の時代だ。
海は広かった。遠くで船の汽笛の音がして、一層のどかさを深めていった。ぼくはこの夏に泳ぎをおぼえたと言いたいところだが、その後もなかなか上達しなかった。簡素な造りの海の家で食べたラーメンの味が郷愁の原体験のようにも感じられた。
母は大きな日傘の下で背中を向けて寝ていた。背中だけでは結婚しているのかも、母という立場であるのかもまったく分からない。しかし、濡れた身体でただ歩いているだけでも、若者そのままの姿であった。
「海が割れたことがあった」と、唐突に山形さんが言う。
「そんなことないよ」とぼくは即座に否定するが、反論も論ばくもない。ぼくはこの海にいる快適さを全面的に信じていた。壊れたら困る。
「地面も見えたんだ。刑務所のすき間の幅が広まるように。そうすれば脱獄も簡単だな」山形さんは囚われるという状態を説明しようとした。しかし、ぼくにはそこに入るそもそもの原因が理解できずにいた。「ひとはルールのもとに生きる。ルールは不自由なものともなるが、みんなが好き勝手をしたら、世の中、めちゃくちゃになる。例えば、海では水着をつける」
ぼくはあたりを見回す。ルールという大まかなことばが海には不似合いと感じている。
「なんで、地面が見えないといけないの?」ぼくは山形さんを信じていた。疑うという行為が芽生えないようにしている。
「そうだな。この海に来て、旅館も楽しいけど、やはり、よその場所だ。自分の家ではない」
「そうだね」ぼくには、あの家に服もおもちゃもすべてがあった。
「だから、帰らないといけない」
「でも、しばらくいたいな」ぼくは母が泳ぎが堪能なことをはじめて知った。ぼくは山形さんと同じものを見ている。見るは所有でもあり、また所有ではない。山形さんの小さな笑い声がする。ぼくはジュースを受け取ったが、手間取ったため山形さんに戻して缶を開けてもらった。
「もし、旅館の代金を払わなければ帰してはもらえない」
「そうなの?」
「例えばの話だよ。もう清算は済んでいるんだ」
「よかった」
「新しい場所に行かないと出会いもない。オレが君らに会ったように。もし引き留められても、行かないといけなかった。どんなに追い駆けられても」山形さんは水平線を見ていた。「大人になると分かるかもしれないけれど、権力者という力を振り回すものがいて、理不尽になればなるほど、自分の権威を正当化させて威張り散らすんだ。絶対にそういうものだけには、なってはダメだぞ。遠いむかしに、そういう境遇の男性と一団が海を割って逃げた」
「自分の力で?」ぼくは力というものを無意味に、不用意に使いたくなった。
「自分の力じゃどうにもならないよ。見てごらん、波のひとつでさえ防ぐこともできないんだよ」
ぼくは目の前にないものを想像するということに挑もうとした。その為に、話には説得力があるのが不可欠で、結論をいえば、山形さんの声にはそれが充分、含まれていた。
母の髪の毛から滴が落ちる。それは塩辛いはずだが、そういう感じは受けなかった。どこまでも清らかな水であり、透明であった。
「もう一生分、泳いだ。お腹も空いた」
「もう帰るか?」山形さんがぼくと母に訊く。
「いいよね。身体も日に焼けすぎだよ」と母がぼくの背中を撫でた。ぼくはふたりの身体を見る。山形さんの胸のように、ぼくもいつの日か、毛が生えるのか想像して自分の同じ部分を触った。想像ということをその夏に教えてもらったのかもしれない。目の前のものとは違う一面や、異なった結果。ぼくは未来という感覚をまったく手にしていない。いましかなく、この海しかなく、この夏しかなかった。だが、子どもにとってそれ以上大切なものもないはずだった。
「海が割れる」とぼくはか細い声でひとり言をつぶやく。
「割れたりしないわよ」母は素っ気なくいう。事実というのは空想を働かす必要もない。ぼくは事実というのもとても大事なものであることを知る。山形さんがいて、母がいるというこの事実。ぼくは両手をふたりに差し出す。だが、直ぐに後悔する。足元にカラフルなカニがいたのだ。ぼくは両腕をうえにもちあげたままで首だけを下方に傾けた。
「持って帰れるかな」
「ここにいるからいいんだよ」山形さんはぼくの軽すぎる提案に賛成しなかった。
ぼくは割れた海をゆっくりと歩いてそのカニの集団がぼくの家の近くの海まで横歩きをしている姿を想像した。それは長い年月がかかりそうだった。随分とかかってしまう。長時間、海は不自然な形をとっていなければいけない。するとカニだけではなくあらゆるものがそこを利用してしまう。
「この夏を忘れないでね」母はぼくに優しく語りかけた。ぼくはさまざまなことをついつい忘れてしまった。言い付けを忘れ、お買い物の内容を途中で忘れてしまった。うっかりというものが入り込まない地点をどこかに作ってみたいと願ったが、その作用はぼくだけの問題ではなさそうだった。
母は水着を着ていた。小さなサイズのビキニだった。山形さんの胸には少しだけ毛があった。ぼくもその年だけしか履けない水着を着ていただろうが、柄自体にも無頓着だった。おしゃれなどとは無縁の時代だ。
海は広かった。遠くで船の汽笛の音がして、一層のどかさを深めていった。ぼくはこの夏に泳ぎをおぼえたと言いたいところだが、その後もなかなか上達しなかった。簡素な造りの海の家で食べたラーメンの味が郷愁の原体験のようにも感じられた。
母は大きな日傘の下で背中を向けて寝ていた。背中だけでは結婚しているのかも、母という立場であるのかもまったく分からない。しかし、濡れた身体でただ歩いているだけでも、若者そのままの姿であった。
「海が割れたことがあった」と、唐突に山形さんが言う。
「そんなことないよ」とぼくは即座に否定するが、反論も論ばくもない。ぼくはこの海にいる快適さを全面的に信じていた。壊れたら困る。
「地面も見えたんだ。刑務所のすき間の幅が広まるように。そうすれば脱獄も簡単だな」山形さんは囚われるという状態を説明しようとした。しかし、ぼくにはそこに入るそもそもの原因が理解できずにいた。「ひとはルールのもとに生きる。ルールは不自由なものともなるが、みんなが好き勝手をしたら、世の中、めちゃくちゃになる。例えば、海では水着をつける」
ぼくはあたりを見回す。ルールという大まかなことばが海には不似合いと感じている。
「なんで、地面が見えないといけないの?」ぼくは山形さんを信じていた。疑うという行為が芽生えないようにしている。
「そうだな。この海に来て、旅館も楽しいけど、やはり、よその場所だ。自分の家ではない」
「そうだね」ぼくには、あの家に服もおもちゃもすべてがあった。
「だから、帰らないといけない」
「でも、しばらくいたいな」ぼくは母が泳ぎが堪能なことをはじめて知った。ぼくは山形さんと同じものを見ている。見るは所有でもあり、また所有ではない。山形さんの小さな笑い声がする。ぼくはジュースを受け取ったが、手間取ったため山形さんに戻して缶を開けてもらった。
「もし、旅館の代金を払わなければ帰してはもらえない」
「そうなの?」
「例えばの話だよ。もう清算は済んでいるんだ」
「よかった」
「新しい場所に行かないと出会いもない。オレが君らに会ったように。もし引き留められても、行かないといけなかった。どんなに追い駆けられても」山形さんは水平線を見ていた。「大人になると分かるかもしれないけれど、権力者という力を振り回すものがいて、理不尽になればなるほど、自分の権威を正当化させて威張り散らすんだ。絶対にそういうものだけには、なってはダメだぞ。遠いむかしに、そういう境遇の男性と一団が海を割って逃げた」
「自分の力で?」ぼくは力というものを無意味に、不用意に使いたくなった。
「自分の力じゃどうにもならないよ。見てごらん、波のひとつでさえ防ぐこともできないんだよ」
ぼくは目の前にないものを想像するということに挑もうとした。その為に、話には説得力があるのが不可欠で、結論をいえば、山形さんの声にはそれが充分、含まれていた。
母の髪の毛から滴が落ちる。それは塩辛いはずだが、そういう感じは受けなかった。どこまでも清らかな水であり、透明であった。
「もう一生分、泳いだ。お腹も空いた」
「もう帰るか?」山形さんがぼくと母に訊く。
「いいよね。身体も日に焼けすぎだよ」と母がぼくの背中を撫でた。ぼくはふたりの身体を見る。山形さんの胸のように、ぼくもいつの日か、毛が生えるのか想像して自分の同じ部分を触った。想像ということをその夏に教えてもらったのかもしれない。目の前のものとは違う一面や、異なった結果。ぼくは未来という感覚をまったく手にしていない。いましかなく、この海しかなく、この夏しかなかった。だが、子どもにとってそれ以上大切なものもないはずだった。
「海が割れる」とぼくはか細い声でひとり言をつぶやく。
「割れたりしないわよ」母は素っ気なくいう。事実というのは空想を働かす必要もない。ぼくは事実というのもとても大事なものであることを知る。山形さんがいて、母がいるというこの事実。ぼくは両手をふたりに差し出す。だが、直ぐに後悔する。足元にカラフルなカニがいたのだ。ぼくは両腕をうえにもちあげたままで首だけを下方に傾けた。
「持って帰れるかな」
「ここにいるからいいんだよ」山形さんはぼくの軽すぎる提案に賛成しなかった。
ぼくは割れた海をゆっくりと歩いてそのカニの集団がぼくの家の近くの海まで横歩きをしている姿を想像した。それは長い年月がかかりそうだった。随分とかかってしまう。長時間、海は不自然な形をとっていなければいけない。するとカニだけではなくあらゆるものがそこを利用してしまう。
「この夏を忘れないでね」母はぼくに優しく語りかけた。ぼくはさまざまなことをついつい忘れてしまった。言い付けを忘れ、お買い物の内容を途中で忘れてしまった。うっかりというものが入り込まない地点をどこかに作ってみたいと願ったが、その作用はぼくだけの問題ではなさそうだった。