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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(49)

2012年03月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(49)

 ぼくは自分の甥が、自分の身体のサイズを追い抜かそうとする時期が来るなど思ってもいなかった。だが、彼の父親はもともとが大きな人間であったし、母であるぼくの妹も決して小柄な方ではないので、結果としてはありえる事実をそう驚くほどのものではなかったのかもしれない。

 そして、よく食べた。ぼくらはテーブルに向かい合って座り、目の前に運ばれた料理を眺めている。それは次第に減っていき、いずれ皿のうえは空になってしまうのだろう。それが、明日の体力となる時期なのだ。

「どうだった、中学生活は?」
「楽しかったよ」と、かずやは口を動かす合間に言った。
「好きな子とかいるのか?」
「まあね」
「別れて生活する羽目になる」
「まあね」
「高校に行けば、高校に行ったで目先が変わる。父親がそこにいるのは気まずいけど」
「ぼくもラグビーを選んでいたら死んでたよ。家でも学校でも父親の支配下で」
「そうだろうな」自立心が芽生える頃に絶えず親の圧迫を受ければ、その未来はいくらかゆがんだものになるだろう。「でも、ひととの出会いって、とても大切なものだぞ」

「知ってるよ」
「知らないよ。多分、人生を左右するような出会いが貴重じゃないもののように不図あらわれてくる」
「そうなんだ」
「そうだよ。ぼくは高校に入って、雪代と出会って、その関係がいまでも、こうして続いているんだから」
「裕紀おばさんにもあった」彼らは頑なにぼくに彼女のことを忘れないようにと要求するようだった。
「彼女にも会った。それも、ぼくの人生を根本的に大きく変えてしまった出会いだった」
「良かった?」

「それは、良かったよ」ぼくは彼女といっしょに行ったもうひとつの彼女の家の内部を思い出している。彼女の初々しさやすがすがしさが、きれいなままの状態でぼくの頭の中に宿っていた。
「どこが?」
「どこがって、懸命に自分を好きになってくれる別のひとの目を通して、自分が見えてくるし。それに見合った、恥ずかしくない自分にもなりたいとか」ぼくは、いろいろ思案する。そう言葉にしたが実際に守ろうとしたか点検も兼ねていた。「そのひとが居るだけで、世間は楽しくなるもんだよ」
「そういうもんか」

 ぼくは、裕紀の名前が出た以上、彼女のことを思い出さない訳にはいかない。ぼくは16歳で彼女に会った。もちろんのことその当時は知らないわけであるが、彼女はそれから20年というちっぽけな歳月しか生きない。ぼくは、それを最初から知っているならば、当然のこと、彼女と別れることなど考えなかったかもしれない。しかし、ぼくには雪代もいた。彼女の放つ魅力もあった。それが、恥ずかしくない生き方だったのか、ぼくには正解が出せないでいた。そして、お詫びのようにぼくは、「君の一瞬、一瞬を今後、見逃さないように、目を寸時も離さないようにしているからね」とこころの中で過去の裕紀に語りかけた。無論、言葉は届かない。しかし、いまはそれでも良かった。何年間かのブランクが作られてしまったとしても。

「そういえば、うちの広美は人気があった?」ぼくは突然、思い出したように言う。現在の生活もぼくには流れている。偶然にも自分の甥と義理の娘は同学年で同じ学校に通っていた。彼らが学校でどう接するのか知りようもない。自分のおじさんと、彼の結婚相手の娘。何の関係もないふたりが、ぼくを媒体にして感情を意識する。

「うん、あったよ。なかなか可愛いとか思われていた」
「そうだよな、彼女の母はきれいだったから」

 あれから、四半世紀も過ぎ、ぼくは自分の過去を甥の生活に当てはめ考えていた。そして、彼はどうしようもない後悔や失敗をするかもしれない。それを躊躇することなく転げてほしいとも思っていた。癒える傷もあれば、どうしようもない後遺症をのこす可能性も人生にはあるのだ。それが生きていく過程でもあり、ぼくは、そうして裕紀を失った。掛け替えのないものを失くしながら、ひたすら生き延びるのだ。風邪にかかれば治したいと思うし、病原菌を退治できた爽快さもある。だが、結果としてはぼくらは昨日と違う。

 食事もすっかり済み、テーブルは片付け始められた。ぼくはささやかな小さな箱を彼に渡した。
「何、これ?」
「プレゼントだよ。15年、きっちりと生きてくれた」それは雪代が用意したものだった。ぼくも実際のところ中味を知らないため、そのような言い淀んだ言葉になった。
「ありがとう、それに、ごちそうさま」
「いいよ、また。ひとりで帰れる?」
 彼は怪訝な顔をする。ぼくは、広美の勉強後、まゆみを送った刹那な時間を懐かしく感じている。
「自転車で来たから、またそれにまたがるだけ」

「そう、気をつけて」ぼくはひとりでそこに留まり、残ったワインを飲み干した。彼には限りない未来があり、ぼくには過去の出会いの思い出があった。それがぼくの人生を左右して、いまのぼくを作り上げた。ラグビー部の先輩に甘えた時間があって、いつか恋人ができた。その子と別れ、再会して結婚した。そして、淡い湯気のような瞬間しかぼくらは生活を共にできなかった。それでも、貴重であり、その短い痕跡のゆえなおいっそう美化されてもいった。微量のダイヤモンドですら高価なものと認識されていくように。

 ぼくは財布を出し会計を終えた。夜空を見上げ、冬の名残をみつけようとした。甥のたくましくなった身体を思い出し、裕紀の痩せていく腕やあごのあたりも同時に思い浮かべていた。