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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(42)

2012年03月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(42)

 ぼくと雪代は体育館にいる。座席は固く、すわり心地の良いものではなかった。だが、それを気にしていたのもはじめのうちだけだった。

 広美のバスケット・ボールの練習試合があるということで、日曜の昼下がり、ぼくらはここにいた。秋の真ん中であり、暑くもなく寒すぎることもなく、大人になった我々にとっては、快適すぎる陽気でもあった。その期間の短い時期を毎年大切にしようと願うも、きちんとその季節は足早に去っていった。

 ぼくは、こうして動く誰かを若いときから見てきた。もちろん、ある一時期は向う側にいて、それを誰かに見てもらっていた。となりにいる雪代は頼もしい応援者だった。ぼくは彼女の前で誇らしい気持ちを抱いたこともあった。また、同時に不甲斐ない場面を見られたこともあった。しかし、それは副産物で、やっている当人は第三者の視線を忘れた境地に入ることが多々あった。それぐらいでないと決して自分自身に満足できず、合格点を与えられるようなこともできていなかった。

 広美はこちらを見なかった。ベンチにいる補欠らしい子は、きょろきょろしていた。こちらにぼくらがいることを広美に教えているようだったが、それでも、彼女は見なかった。その補欠の子は、広美のところによく遊びに来ていた。気が利く才気のあるような子で、雪代とも対等に大人同士並みの会話をしていた。何かの商売をしている家の娘だったと思う。世間に出るというのは、そういう自分に役立ちそうな能力を見極めることなのだろうか。

「あの子、選手というより、みんなをまとめる役に向いているような気がするね」
「和代ちゃん? 試合より、そんなところ見ているのね。広美も活躍しているのに」
「そっちも見てるよ」広美が活躍する姿を目の当たりにする度、ぼくは島本さんという彼女の本当の父親を思い出さないわけにはいかなかった。その遺伝子は確実に引き継がれ、ぼくはラグビー場で憧れをもって眺めていた島本さんの残像を思い出し、自分が無力であったころを強くこころの奥で感じた。そして、自分が境界のそとにいることも意識させられるような気もしていた。

 試合は終わり、多くの子たちは裏に消えた。試合に出ることのなかった和代という女の子は、いまだにきょろきょろと好奇心が溢れた視線をあちらこちらに送っていた。ぼくらも、外に出ようとするときに彼女の横を通りかかった。

「残念ね、和代ちゃん。また、練習頑張れば、うまくなって出られると思うよ」
 雪代は彼女の肩を優しく叩きながら、そう言った。
「ありがとうございます。それにしても、おばさん、今日も素敵な格好」
「ありがとう。似合っているかしら?」
「とっても」
 そして、彼女は手を振り、ぼくらを見送った。
「あの子、いつも大人みたいだよね。挨拶もきちんとしているし」
「そうよね、時に広美が子どもっぽく見えることがある。あの子といると」
「いまは、それでいいよ」
「お腹すかせてあの子が帰ってくる前にちょっと休みましょう。せっかくの日曜なんだから」
 ぼくらはいつもの喫茶店に向かう。そこは気持ちの良い音量で音楽が流れている。そこに座って小さな声でたわいもない会話をしているときが最近の幸せになっていた。

 ぼくは名前も知らないピアニストの音楽を耳にする。それは無名性であるべきなのだとも考えている。誰かの活躍によってチームは勝利するというスポーツを今日、見たからかもしれなかった。声援や喝采も受けないある音楽スタジオで譜面を前にピアニストは楽器を弾いている。そこには孤独の陰があり、名声への渇望というものがいくらか薄いような気もした。実際はどうか分からないが、いまはコーヒーを飲みながらそんな気分でいる。

「広美が活躍しているのを見ると、ひろし君はなぜか戸惑ったような顔をしているよ」ふと、雪代はそういう言葉を口にした。
「正直に言うと、島本さんを思い出すから」
「やっぱりね。わたしもそう思う。わたしの能力じゃないもんね、あれ。それで、嫌いになる?」
「何を?」
「いろいろなこと。わたしとか、島本君とか」
「ならないよ。もう彼は憧れの境地に舞い戻っている。10代の終わりで、なにもかも輝いていた魔法をもっていたひと」
「わたしのことは?」
「ならないよ。ずっと、そばにいるべきひとだからね」
「そう。広美もいつか大きくなって、家を離れる。東京に行っちゃうかもしれない」
「ふたりだけで暮らせばいいよ。まだ、先になるだろうけど」
「そうね。でも、お腹空いたと言って帰ってくるんだろうな。買い物行こうか?」

「そうだね」ぼくらは店主に別れを告げ、店をあとにする。ぼくのラグビーの活躍を目にして、グラウンドの外で待ってくれていた雪代と会ったのも、このような夕暮れ時であった。ぼくは流した汗が冷えるのを感じながらも、こころのなかの高まった気持ちはなかなか消えなかったことを思い出している。それはスポーツの喜びや興奮であったのか、意中の女性に頑張りを認めてもらえたという充足感であったのか、それだけは思い出しようもない。

 何年も経ったが、横にそのときの女性がいた。それは悪くない事実だった。広美も誰かに認められ、また誰かを探し出しているのか考えようとした。だが、和代というこの健気さが邪魔をしてその思いは別のものになった。