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傾かない天秤(11)

2015年10月19日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(11)

 わたしは定位置にすわって、引継ぎ書を目にする。

 人間の正常な一日は、歯磨きと洗顔とメークからはじまる。女性の大体の場合は。メークを割愛するひともいる。それだけ自信と勇気があるのだろう。今日のさゆりは、勤務地のビルで夜を明かして、いつものルーティンを守れなかった。目の下には小さなクマができ、皮膚にはこれまた小さなひびができた。顕微鏡でようやくあらわになる程度のものだが。

 半数近くのものが家に帰れなかった。前日の午後に大きな地震が起こり、さゆりがいるビルの部屋もかなり揺れた。女性が多い部署ではその分、悲鳴の大きさも比例する。電話やファックスも不通になり、仕事ははかどらなかった。そもそも、仕事より自分の命という重要さにこころは傾いていた。

 わたしは望遠鏡の向きを変える。ひとつのエネルギーがひとつのエネルギーを製造する場所を破壊した。エネルギーの暴発を抑えるために、充分な水で冷却する必要がある。その水と電源設備を海水が覆う。水は無限にあった。電気もほぼ無限にあった。だが、怪物は牢屋から逃げ出てしまった。

「その報告は、別のところで仕入れるから。君の任務はふたりの人間の調査だけだからね」

 わたしは後方からの声に驚く。監視しているはずが、わたしも監視されていた。
「分かりました」返事とは別に声音で軽い抵抗感を出すことも可能である。
「芸術家先生気取りじゃないんだから。まったく」

 電車は動き出している。きょうは土曜だ。さゆりはみゆきと会う予定があったが、これでは無理だろう。彼女はみゆきの携帯電話に連絡をとってみる。しかし、かからなかった。何度も繰り返したが、結局、何度も拒絶された。わたしはみゆきを四方八方に目をこらして探す。彼女は無事だった。そのことを伝える方法を模索する。だが、運命を小細工でいじくってはならない。わたしは彼女らの初恋を操作して、謹慎処分を以前に受けた。悲しい過去だった。わたしはひっそりと見守るしかない。

 さゆりはいつもより時間がかかったが家に着く。シャワーを浴びようとしたがガスが止まっていた。どこかにある元栓を探しに家の裏側の狭いスペースに身体を挟み込んだ。リセットをするとガスは生き返った。部屋に戻るとあらゆる電子機器が明滅していた。いくつかの品々が倒れ、流しでは洗剤がさかさまに落ちて中味を空にしていた。

 彼女は熱い湯を浴びる。わたしは決して見ていない。その湯の音を聞いているだけだ。彼女は髪を乾かしながら途方に暮れる。突然、電話が鳴って出てみると母親だった。彼女は無事であることを告げ、また家族が無事であることを聞く。すると、急に電話が混線したように切れた。そして、再度かけるも、またつながらなくなってしまった。みゆきにも連絡を試みるが、再び不通にもどってしまった。彼女は毎月、高額の請求があったことをいまになって反省して、同時にこころのなかでののしったり恨んだりした。それでも甲斐はなく、生意気な美少女のような横柄な態度で、美しいデザインの電話は無視をデフォルトのこととして決め込んでいた。

 急に空腹を感じる。彼女は湯を沸かしてインスタントのカップのふたを開ける。湯を注ぎこみ、数分待った。テレビをつけると現状が段々と把握できる。それと共に分からないことが無数に増えた。大きな地震が大きな事故と災難を呼び寄せたらしい。死者も多数でている模様だ。津波が火災を起こすということが、さゆりには理解できなかった。それは主に消火する役目のはずだった。

 昨夜の疲れが出たのか、テレビをつけたまま寝てしまった。数時間後、髪をまとめ、だてメガネをかけて近くの店に食料と食器洗剤を買いにいった。

 町はひっそりとしている。自主的に喪に服している。彼女は突然、誰かの抱擁を期待して、無心に待っていることを感じる。しかし、そうしてくれる相手は皆無であることを知る。その要求や願望を伝えれば狂人と等しくなってしまう。都会に住む女性は強靭なこころを必須としていた。彼女はおとなしくレジでお金を払い、ささやかなポイントをためてまた家の玄関のカギを開けた。

 気付くと置きっ放しにしていた電話に着信の履歴があった。名前はみゆきと表示している。彼女もどうやら無事だった。声をききたくて電話をすると、またもやつながらなかった。彼女はその会社の怠慢ぶりにいきどおる。政治家の通例に使用する遺憾の意とひとりごとを言うが、本来の意味、実際の用途と合致しているのかまったく分からなかった。

 ニュース番組はやたらと活気づいていた。それが彼らの使命であり、愛着ある仕事で、なおかつ、なけなしの必殺技でもあった。きょうも小春日和のうららかな日では、商売あがったりである。

「その意見もいらないね。消去で」

 とわたしは注意される。激動の一日はあっという間に終わる。わたしは自室にもどり、おだやかなこころを失ってしまっていることを知る。お酒でも飲んでうさを晴らせる人間に、なぜだか嫉妬した。わたしたちは頭脳が明晰であることを求められている。業務手帳にそう謳われ、誓いもしていた。わたしは窓から日本列島をながめる。再建への債権とダジャレを考えるが、鬱々としたこころは当然のこと晴れ渡ることはなかった。



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