朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

敢えてソンファ実在説を推してみる

2012年07月13日 | ソドンヨ(薯童謡)

「三国遺事」にソドンヨ説話として語られる百済武王と新羅真平王の三女ソンファのなれそめ。
しかし、ソンファの実在については一般に疑わしいというのが定説となっているようである。

その根拠とされるのは以下の2点。

  • 武王の時代に百済と新羅とは対立関係にあった
  • 両国間に通婚の事例がない

そこで、敢えてこれに異論を唱えてみよう。

まず後者の「両国間に通婚の事例がない」という点に関しては、以前のネタ「ソンファ姫は実在したか?」にも書いているとおりだが、新羅真興王の時代(553年)に百済の王女が新羅に嫁いでいる事例が「三国史記」にもちゃんと記録されている。(身近な史料をちゃんと検証して言っているのだろうか?)

このときの百済側の王は聖王だが、なんとその翌年には加良(伽耶)と組んで(娘が嫁いだ先の)新羅に攻め込むということをやってのけている。(この戦いで聖王は新羅兵に殺される)

真興王15年(554)秋7月、明活城を修繕した。
〔この月、〕百済王明禯(聖王)は加良(から)と連合して管山城を攻撃してきた。軍主の角干の干徳(うとく)や伊飡の耽知(たんち)らがこれを迎え撃ったが、戦いに破れた。〔そこで〕新州軍主の金武力が州兵を率いて救援に向かった。戦闘がはじまると、副将の三年山郡の高干(こうかん)の都刀(ととう)が奇襲攻撃で百済王を殺した。

(金武力(キム・ムリョク)はキム・ソヒョンの父、つまりキム・ユシンの祖父である)

つまり、王女を嫁がせようがしまいが、戦うときには戦うという、非常に厳しい、冷酷な現実が当時はあったわけだ。だから、両国間が対立関係にあるからといって王女が嫁ぐはずがないとも言い切れないのである。

ちなみに、少し時代を遡るが、新羅法興王(真興王の先代)の時代には、加耶国王が花嫁を求めこれに応じたという記録も残っている。

法興王9年(522)春3月、加耶(かや)国王が使者を派遣して、花嫁を求めてきた。王は伊飡(いさん)の比助夫(ひじょふ)の妹を耶に送った。

***

次に、「武王の時代に百済と新羅とは対立関係にあった」という点について。
確かにこれは紛れも無い事実で、600年に即位した武王は、まもなく新羅の阿莫山城(母山城)を攻撃し(602年)、以降数十年に渡り、百済と新羅はたび重なる戦火を交えることになる。

ところがだ!
その前はというと、「三国史記」の記述に頼る限りだが、百済・新羅間の戦は577年まで遡らないと記録が無いのである。(ただし、高句麗・百済間の衝突は598年にある)

真智王2年(577)冬10月、百済が西部国境地帯の州や郡を犯したので、伊飡の世宗(せいそう)に命じて出兵させ、侵入軍を一善郡の北方で撃破し、3千7百人を斬ったり、捕えたりした。

(ちなみに「世宗」とはもちろんミシルの夫セジョンのことである)

つまり、578年から601年に至るまでの二十数年間に限っては、百済・新羅間は実質的に休戦状態だったと考えることもできるわけなのだ。

579年に即位した新羅真平王の初期は、数度にわたり僧侶を派遣して仏教を広めたり、災害にあった民衆を援護するなど、どちらかというと平和主義者というイメージが強い。そもそも、先々代の真興王は晩年には髪をおろして自ら僧侶となるほど仏教に傾倒した人物であり、その影響を強く受けた真平王もまた仏教を広めることに注力していた様子がうかがえる。

一方、百済といえば、598年に威徳王が崩御したのち、恵王(598-599)、法王(599-600)と短期間に王が入れ替わっており、国内が混乱していた状況が推測される。隣国に攻め入っている場合ではなかったということなのかもしれない。

こういった背景において、両国間の停戦協定のような意図も含め、新羅の王女が百済に嫁ぐことがあったとしても、さほど不思議ではないのではないかと思うのだが。

***

ちなみに、前回のネタに書いた弥勒寺の建立はWikipediaによれば602年とされているが、実はこの年はキムチュンチュが生まれた年でもある。(「三国遺事」には661年に59歳でなくなったとある)

チュンチュの母チョンミョンが子を産める年代だったとすれば、年齢的にその妹であるソンファが嫁いでいてもおかしくはないわけである。

さて、それでは義慈王の母はソンファなのかサテク妃なのか?
弥勒寺の仏塔から出土した金の板に記録されている百済王妃が意味するものとは?

この点に関しては大胆な仮説を提唱してみたい。


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