『今朝の天気』
(7:00頃)
今朝の温度(5:30) 室温 リビング:29.0、 洗面所:29.5、 湿度(リビング):61%
(昨日の外気温 東京、最高気温:33.1、最低気温:25.6
本日の予想気温 最高気温:34、最低気温: 27)
今日は雲の多い朝でスタートしました。日差しが少ないと吹いてくる風にも涼しさを感じます。もっとも、今日も暑くなるようです。
さて、中国禅思想概要の2回目です。前回は中国禅宗の組織・主要人物の系譜と、成立要因についてみてきました。その中でも出てきたように、中国禅宗にはその背景となる経典を持ちません。中国禅宗は「正伝」ということを重要視しています。それは釈迦以来の仏教の教えの伝承ということです。「経典によらず、教えの伝承=正伝によるのだ!」ということだったのかもしれません。
ということで、他の宗派の説明では、系譜の後に基本となる経典の説明があるのですが、中国禅ではそれがありません。それに代わって、中国禅の成立要因や影響を受けた宗派の説明が最初の部分でなされています。
そんなわけで、前回の成立要因に続いて、今回は、多宗派との関係に触れてみます。それは、天台宗と華厳宗です。
2.2.一行三昧と初期中国禅の成立
2.2.1.天台と中国禅
初期中国禅宗の歴史は、天台の『摩訶止観』との対決からはじまったといえます。つまり、天台の止観と実践との相違を智顗より古いボダイダルマに求めたことによります。(禅宗の四祖・蘄州双峰山(きしゅうそうぼうざん)の道信(580-651)、五祖弘忍(601-74)の頃で、活躍した山の名により「東山法門(とうさんほうもん)」とよばれた)
①天台智顗の意義と一行三昧の成立
智顗は、クマーラジーヴァによって中国に伝えられたインド大乗仏教の空の哲学とその実践を、中国人の宗教として組織づけ、最初のすぐれた成果をあげました。特に『摩訶止観』による瞑想法の体系化があげられます。(下表2『摩訶止観』の構成と概要参照)
人間の一般的な人のあり方を、歩くこと(行)、とどまること(住)、足を交えてすわること(坐)、および横になって眠ること(臥:が)の四つとし、とくに瞑想にふさわしい姿勢として、坐と行をとり上げています。
しかし、智顗の四種の禅法については、総合的な行であり、その価値はおなじものであったのですが、異なった瞑想は一度に実習できぬため、人々の関心によりいずれか一つが選ばれ、坐禅か念仏のいずれかが中心となりました。→一行三昧の成立
事実、『摩訶止観』の書かれた時代に前後して、禅と浄土教という二つの異なった実践運動が同時に起こっています。
②東山法門の主張
「円頓」とよばれる天台の総合的な教と観の体系に対して、禅宗の実践的な関心は、より単純であり、いっそう直截的(ちょくせつてき)であったのです。
『六祖壇経』(*)では、「一切時中に行住坐臥を通して、つねに唯一なる直心(じきしん)を行ずるのが一行三昧だ」といっています。ここでの「直心」とは根源的な形而上的な一心の意のことです。
つまり、本来的な一行三昧は『般若経』の中にその名を見ることができ、この三昧のほかに、さらに余行はないとせられたのに対して、この時代におなじく一行三昧を説く別の経典や論書が、しきりと人々の関心をひいたのです。→代表例に『大乗起信論』があるが、この書での一行は、形而上学的な一心のはたらきをさしている点で、『般若経』の正しく般若ハラミツと応ずる一行とは、すでに本質を異にしているのです。
*六祖壇経:弟子の法海によって編集された、禅宗の第六祖曹渓慧能(そうけいえのう、南宗の祖とされる)の言行録のこと、のちに経典に準ずる扱いを受けた。
2.2.2.華厳と中国禅
①一心の展開
前述の一心について、その展開を道信の『楞伽師資記(りょうがしじき)』にみることができます。(下表3「道信のことばの例」参照)
これは、『起信論』にある、生滅心の最初の動きの内省する意味の「絶対的な目ざめ(「究竟覚(くぎょうかく)」)を説明する内容によっています。
絶対的な目ざめは、『起信論』では、如来または仏の位に至ったものの知恵とされ、別に真如三昧、もしくは金剛三昧、一行三昧ともよばれ、まさに宗密のいう最上乗禅の意です。
→道信の坐禅は、すでにそうした根源的な悟りの性格をもっていたもので、のちの神秀(じんしゅう606?-706)に始まる北宗禅の哲学も、こうした構想にもとづいて展開されることとなります。
②華厳の哲学との結びつき
初期禅宗の人々の単純で具体的な実践による関心は『楞伽経』や『起信論』の一心の説に移ることによって、しだいに根源的に唯一なるものに深まることとなりました。さらに北宗禅の形成の時期には、長安を中心として栄えていた華厳の哲学と結びついていきます。
この時代を期として、中国禅宗は、すでに単純な坐禅や瞑想の域を超えて、独自な形而上的一心の探求にすべての関心を注ぐようになります。
(華厳と禅宗の結びつきの事例(表4))
やがて、華厳の側からも澄観(738-839)、宗密(780-841)らが出て、この派の禅に特別の注意を払うようになります。
本日はここまでです。次回は「北宗禅」についてみてみます。しばらくお待ちください。
(本日コメント欄お休みをいただいております。)
(7:00頃)
今朝の温度(5:30) 室温 リビング:29.0、 洗面所:29.5、 湿度(リビング):61%
(昨日の外気温 東京、最高気温:33.1、最低気温:25.6
本日の予想気温 最高気温:34、最低気温: 27)
今日は雲の多い朝でスタートしました。日差しが少ないと吹いてくる風にも涼しさを感じます。もっとも、今日も暑くなるようです。
さて、中国禅思想概要の2回目です。前回は中国禅宗の組織・主要人物の系譜と、成立要因についてみてきました。その中でも出てきたように、中国禅宗にはその背景となる経典を持ちません。中国禅宗は「正伝」ということを重要視しています。それは釈迦以来の仏教の教えの伝承ということです。「経典によらず、教えの伝承=正伝によるのだ!」ということだったのかもしれません。
ということで、他の宗派の説明では、系譜の後に基本となる経典の説明があるのですが、中国禅ではそれがありません。それに代わって、中国禅の成立要因や影響を受けた宗派の説明が最初の部分でなされています。
そんなわけで、前回の成立要因に続いて、今回は、多宗派との関係に触れてみます。それは、天台宗と華厳宗です。
2.2.一行三昧と初期中国禅の成立
2.2.1.天台と中国禅
初期中国禅宗の歴史は、天台の『摩訶止観』との対決からはじまったといえます。つまり、天台の止観と実践との相違を智顗より古いボダイダルマに求めたことによります。(禅宗の四祖・蘄州双峰山(きしゅうそうぼうざん)の道信(580-651)、五祖弘忍(601-74)の頃で、活躍した山の名により「東山法門(とうさんほうもん)」とよばれた)
①天台智顗の意義と一行三昧の成立
智顗は、クマーラジーヴァによって中国に伝えられたインド大乗仏教の空の哲学とその実践を、中国人の宗教として組織づけ、最初のすぐれた成果をあげました。特に『摩訶止観』による瞑想法の体系化があげられます。(下表2『摩訶止観』の構成と概要参照)
人間の一般的な人のあり方を、歩くこと(行)、とどまること(住)、足を交えてすわること(坐)、および横になって眠ること(臥:が)の四つとし、とくに瞑想にふさわしい姿勢として、坐と行をとり上げています。
しかし、智顗の四種の禅法については、総合的な行であり、その価値はおなじものであったのですが、異なった瞑想は一度に実習できぬため、人々の関心によりいずれか一つが選ばれ、坐禅か念仏のいずれかが中心となりました。→一行三昧の成立
事実、『摩訶止観』の書かれた時代に前後して、禅と浄土教という二つの異なった実践運動が同時に起こっています。
②東山法門の主張
「円頓」とよばれる天台の総合的な教と観の体系に対して、禅宗の実践的な関心は、より単純であり、いっそう直截的(ちょくせつてき)であったのです。
『六祖壇経』(*)では、「一切時中に行住坐臥を通して、つねに唯一なる直心(じきしん)を行ずるのが一行三昧だ」といっています。ここでの「直心」とは根源的な形而上的な一心の意のことです。
つまり、本来的な一行三昧は『般若経』の中にその名を見ることができ、この三昧のほかに、さらに余行はないとせられたのに対して、この時代におなじく一行三昧を説く別の経典や論書が、しきりと人々の関心をひいたのです。→代表例に『大乗起信論』があるが、この書での一行は、形而上学的な一心のはたらきをさしている点で、『般若経』の正しく般若ハラミツと応ずる一行とは、すでに本質を異にしているのです。
*六祖壇経:弟子の法海によって編集された、禅宗の第六祖曹渓慧能(そうけいえのう、南宗の祖とされる)の言行録のこと、のちに経典に準ずる扱いを受けた。
2.2.2.華厳と中国禅
①一心の展開
前述の一心について、その展開を道信の『楞伽師資記(りょうがしじき)』にみることができます。(下表3「道信のことばの例」参照)
これは、『起信論』にある、生滅心の最初の動きの内省する意味の「絶対的な目ざめ(「究竟覚(くぎょうかく)」)を説明する内容によっています。
絶対的な目ざめは、『起信論』では、如来または仏の位に至ったものの知恵とされ、別に真如三昧、もしくは金剛三昧、一行三昧ともよばれ、まさに宗密のいう最上乗禅の意です。
→道信の坐禅は、すでにそうした根源的な悟りの性格をもっていたもので、のちの神秀(じんしゅう606?-706)に始まる北宗禅の哲学も、こうした構想にもとづいて展開されることとなります。
②華厳の哲学との結びつき
初期禅宗の人々の単純で具体的な実践による関心は『楞伽経』や『起信論』の一心の説に移ることによって、しだいに根源的に唯一なるものに深まることとなりました。さらに北宗禅の形成の時期には、長安を中心として栄えていた華厳の哲学と結びついていきます。
この時代を期として、中国禅宗は、すでに単純な坐禅や瞑想の域を超えて、独自な形而上的一心の探求にすべての関心を注ぐようになります。
(華厳と禅宗の結びつきの事例(表4))
やがて、華厳の側からも澄観(738-839)、宗密(780-841)らが出て、この派の禅に特別の注意を払うようになります。
本日はここまでです。次回は「北宗禅」についてみてみます。しばらくお待ちください。
(本日コメント欄お休みをいただいております。)