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万葉うたいびと風香®’s ブログ

万葉うたいびと風香®のブログです。

レコーディング&春の大和路

2016年04月10日 | 万葉集と風土
今回もオケ作りと歌入れのレコーディングに。

この日まず訪れたのは、春の忍阪。

石位寺に直行。



境内に咲いていたのは山吹。
大和で見る山吹は一段と良い。向かい側にあたる赤尾に十市皇女が眠っているかと思うと尚更に思いが募る。


静かな忍阪街道。


舒明天皇陵。


遥か葛城連峰方面が望める。

奥の谷へ。



秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾こそ益さめ 御念ひよりは  鏡王女

風香意訳:秋山の樹の下を深く静かに流れる山清水のように、あなたが思っている以上に私はあなたの事を深く思っています。
     そう、この山清水は私の心そのものなのです。


鏡王女墓。八重桜が満開。願い叶う。


今迄も折に触れ手を入れてみえる奥の谷が、より一層美しくなっていた。

美しい。


見事な円錐形、忍坂山。(現:外鎌山だが、断然 おさかやま がいい)


こちらは忍坂川。(現:粟原川だが、こちらも断然 おさかがわ がいい)

万葉集や金石文に残されている名前が現代において変わっていってしまうのが、何とも惜しい。まさに荒れまく惜しも。
静かな忍阪のままを後世に引き継いでいってほしいと切に願い、後ろ髪ひかれながらレコーディングへと向かった。

苦労した歌入れを終え、前回の続きで曲作りに。

ギターの音入れ。綺麗な弦の音色が響く。


和太鼓と併せて使う楽器との事。私には「シンバル」にしかみえないが音の響きが違っていた。
完成が楽しみである。

さて、今回はもう1つの目的があった。
向かった先は、奈良県桜井市金屋。海石榴市(つばいち:原文は つばきち)である。
「万葉の旅 上/大和」を片手に。


大和朝倉駅で下車。

豊泊瀬道(とよはつせじ)、泊瀬川沿いを歩いて金屋へと向かうことに決めていた。


やはり泊瀬川はいい。流れといい、川音といい、いで越す堰に真っ白にはじける白木綿花(しらゆふばな)は、自然が造り出す造形美だ。


振り返ると、泊瀬川の正面に忍坂山、右寄り一段と高い山は倉梯山(くらはしやま)。歌の通りの姿を今に伝えてくれる。

倉梯の 山を高みか 夜ごもりに 出でくる月の 片待ちがたき

そういえば数年前に橋の上は凍り付き冷えきった早朝、忍坂山から上がる日の出を皆さんと一緒に待っていたのを思い出した。





散りはじめの桜も美しい。




山の辺の道を歩いていく。

こんな原風景が残っている。


「万葉の旅」犬養孝著にあった石碑を探していたら、あった!が、この日は小学校の廃品回収でなんとこのありさま。

すでに回収がはじまっているが何時になるかはわからないとの事。石碑前のゴミの山を前に呆然とする私に近所にお住まいの方々が何人か声をかけて下さったのが唯一の救いだ。
後ほど訪ねてみることに。

海石榴市観音(つばいちかんのん)へと向かった。

まだところどころ椿が咲く誇る。

休憩スペースもあり、持参したお気に入りの椿の懐中時計を置いてみた。ちなみにアクセサリーも衣裳の子の手作りで椿柄。
風土にそっとつけてかえる私の心。


真っ直ぐ進めば直に大神神社(おおみわじんじゃ)だがあくまで金屋がメインなので途中、末社の看板を見つけた八阪神社に立ち寄ってみることに。

海石榴市(つばいち)一帯にあたる金屋らしく、あちらこちらで椿を見かけるのも何とも古代を彷彿させてくれる。



誰もいないこの空間がいい。

椿の神さまが舞い降りたよう。



そしてようやく対面。海石榴市観音道とある。






河川敷には、泊瀬川の句が。

偶然にも万葉歌「泊瀬川」に使用した2首であったのが嬉しかった。


桜じゅうたん。


しだれ桜と忍坂山。

朝、金屋へと向かう途中に見つけた気になる看板。

椿山 山の辺。

大和訪問も数知れずの私だが、まだまだ知らないことばかり。
誘(いざな)われるように、のぼってみるも開園前。

どうにも気になって帰路再度立ち寄ってみると、偶然にも主らしき人と麓入り口でお会いすることができた。
事情を話すと、心良く見せて頂けることになってホッと一安心。


大好きな句が掲げてある。

三諸(みもろ)は 人の守る山
本辺は馬酔木花咲き
末辺は 椿 花咲く
うらぐはし山そ 泣く児守る山

お父様の時代から椿山とされたそうで、その深い想いは小冊子にもしたためられている。

山を歩かせて頂けることになった。


別世界が広がっていた。
それは観光としてでない、山守りとして、椿守りとして、まさに人の手によって守られている事をひしひしと肌で感じる空間であったのだ。








万葉集に詠まれている「つらつら椿」は、やぶ椿と考えられるそうだ。

貴重なお話はじんじんと私の心に響き、海石榴市の椿守りの方との偶然の、いや必然的なお出会いに深く感謝せずにいられなかった。
以前に読んだ犬養先生の著書に記してあった「目に見えない心」の言葉が頭をよぎった。

ちなみに椿山の拝観は本日で終了。
心無い訪問はお断りすることもあるそう。それは山守り、椿守りとしてのプライド(誇り)であるに違いない。

万葉へのストレートな思いは、時にその風土を守る土着の人との結びつきを繋いでくれる。

改めて今日という一日が与えられた事に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。


帰路、手みやげにと立ち寄った「だんご庄」の店内にかけてあった額は、なんと椿であった。


春の大和路は想像以上の万葉の旅となって新たな心の記憶として刻まれていった。


旧暦2月13日 波多の横山

2016年03月22日 | 万葉集と風土
明日香清御原宮天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇]
  十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹黄刀自作歌

河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手

河の上の ゆつ巌群に 草生さず 常にもがもな とこおとめにて

吹黄刀自はいまだ詳らかならず。ただ、紀に曰はく「天皇四年乙亥の春二月朔の丁亥、十市皇女、阿閉皇女、伊勢の神宮に参赴く」といへり。



歌が詠まれたのは675年2月13日。
2016年、ちょうど昨日が旧暦2月13日となった。

波多再訪を先月から予定するもいづれも雨で撮影延期。
ようやく再訪できた日が旧暦2月13日とは。
歌を詠んだ万葉歌人、吹黄刀自に導かれたような気になっている。

さて、名古屋から一志へ向かうアクセスは2通り。

近鉄で移動し川合高岡駅で下車するか、JRで松阪駅へ出て名松線に乗り換え、伊勢八太駅、もしくは一志駅や井関駅で下車する。

今回は一志から名松線の現終点駅「家城駅」の風土、いうなれば古代の交通路を確かめてみたかったので、前者を選択、川合高岡駅から歩いてJR一志駅まで徒歩2分程の距離を移動後、家城駅まで向かうことにした。

ちなみに名松線は本来なら伊勢奥津駅が終点駅となるが、何年か前の豪雨により現在は家城まで。この3月26日はれて全線再開となるそうだ。


近鉄川合高岡駅で下車すると。


「とことめの里」(図書館、温泉、福祉施設などが入る津市一志町の複合施設)のバスが。「とことめ=とこおとめ」。万葉集から名付けられたそう。こんなところにも一志の方々の万葉への熱き思いが感じられる。なんて素敵なバスなの!乗っていきたい気持ちを抑えてJR一志駅に向かう。


誰もいません。

この開放的な雰囲気がいい!
電車がくるまで15分ぐらいあったので、すぐ目の前にみえる波瀬川堤防にあがってみることに。


美しいです。一志日和。快晴!


1両編成の家城行きに乗車。


ワンマンでボタンを押して乗ります。切符も車内で購入。


車内から撮影。関ノ宮駅。

車窓からみた風景。遠景左手のこんもりした山に医王寺があり、古代河口頓宮が置かれていたと言われている。
今回訪問してみたかったが、スケジュールをどう組み立てても無理なことがわかりあえなく断念。
次回に期待。

終点家城駅あたり。古代伊勢へと向かう交通路の1つ。



家城駅。同じ電車に乗って折り返します。


そして井関(いせぎ)駅に到着。

いよいよ波多探訪。

波瀬川沿い、うぐいすの声を聞きながら歩きます。




道なり平地に桜並木が。大切にしてらっしゃるのが伝わってくる程に綺麗に手入れがしてある。

看板裏をみると、「そそこ桜保存会」の文字が。
事前に頂いた地図をみると、近辺の小字名にも「そそこ平尾」がみられ桜名に納得。

束の間のブランチ休憩。自前のおにぎりに波多の空気。美味しくない訳がない!

程なく歩くといい匂いが。

ベビースターラーメンでおなじみの『おやつカンパニー』さん。写真を撮っていたら社員の方が声をかけて下さった。
万葉故地もいろいろ行かせて頂いているが、一志にきて毎回思うのは皆さんとても開放的。
こんな怪しげな私でも声をかけて下さるのが嬉しい!


井関周辺。

今回も語り部の会の皆様がお力を貸して下さいました。ありがとうございます。

道を探して竹やぶの中を進みます。歩きやすいようにとカマを持って道を作って下さる。ただただありがたいことです。


古代の情景が広がる。いつ見ても心癒される。まさに磐群(いわむら)。

撮影終了後に向かった波多に残る古道探索。

1300年前に思いを十分に馳せられる空間であり、空気感であった。

万葉歌「とこおとめにて」。
既に完成済の楽曲。
しかし、波多を知る程に波多を訪ねたくなる。
また、波多を訪ねる程にもっと波多について知りたくなる。
それは、素晴らしい歌を詠んだ吹黄刀自が見た光景や、そして作者が詠んだ歌の思いに触れたい。
ただそれだけ。

しかし自分だけの力ではとうてい知り得ないことばかり。
また文献のみでは机上の空論。

風土に立って風土の風に吹かれ、風土の香り、そして何より土着の方々との触れ合いの中で古代も歌が詠まれたのではないだろうか。

一志歴史語り部の会の皆さま、今回も多大なるお力添えに厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました!

2016年旧暦2月13日の波多再訪は万葉の思いに触れられた素晴らしい一日となりました。

深謝。
























 

尾張元興寺跡

2015年08月27日 | 万葉集と風土
桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る

万葉集を詠むために、同時代周辺の歴史も知らねば万葉集が読み解けない、、、ということで東海地方最古(7世紀中頃創建)の寺院『尾張元興寺』跡を訪ねてみました。

『日本紀略』(平安時代に書かれた史書)によると、元慶八年(884年)尾張国分寺(稲沢市)が焼失したので、定額寺(朝廷が保護した準官寺)であった願興寺(がんごうじ)を国分寺にしたと記載があります。

JR、名鉄金山駅前、名古屋ボストン美術館から19号線を渡った右手辺り一帯、金山駅から徒歩3分程にあるのが尾張元興寺跡です。

(名古屋ボストン美術館)


(この付近一帯が尾張元興寺跡となる。正面がボストン美術館。この辺りは熱田台地の西端縁にあたり標高7〜10Mほど。古代この西側辺りには干潟がひらけていた)



現在この場所には、江戸中期(亨保3年)からの「元興寺」(がんこうじ)があり(現在の建物は近代的な建築)、願興寺は室町時代に中川区へ移転。

よって、尾張元興寺は廃寺となり、『尾張元興寺跡』となったわけです。
ややこしいです。
残念ながら、伽藍に直接関わる遺構は出土していない。
では、なぜ創建が7世紀中葉だとしているのか。
出土遺物である最古の軒丸瓦(舟橋廃寺式)の年代が7世紀第3四半期であることから想定していると史料に書いてあった。
なるほど。
付近からは、マンション建設の際の調査で水煙が土に突き刺さって発見されており、その大きさから高さ30M以上の五重塔であったことが推測されるそうだ。
現在は、既にマンションが立っており、マンションを五重塔に置き換え、更にその上にそびえ立つ水煙に思いを馳せれば、都会の中に残るわずかな万葉の息吹を感じることができる。

(このマンションを五重塔に見立てると。。。)

この日訪れたのはちょうどランチタイム時。
パラパラと雨が降る中、都会のど真ん中で傘をさしながら工事現場(元興寺跡の一部=元興寺ビルの建て替え中)の写真をとり、マンションを見上げ、更に本と地図を片手に石標を探し回り付近を何度もうろつく私は、大和での遺跡探し以上に怪しかったに違いない。周辺の突き刺さるような視線を尻目に、尾張元興寺跡を堪能した大満足のプチ旅となった。

(元興寺ビルとは、なんとも名前がいい!)


(ボストン美術館のある11F、名古屋都市センターからみる市内全景。360度のパノラマとなっています。こちらはあゆち潟方面を望む)

(空からみた現在の地形図)


立派過ぎる、、、いえ、立派な施設でした!









年魚市潟(あゆちがた)

2015年08月16日 | 万葉集と風土
桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る
さくらだへ たづなきわたる あゆちがた しほひにけらし たづなきわたる
                        
                        巻3−271 高市連黒人

旅の歌八首の中に収まるこの歌に詠み込まれている桜田は、愛知県名古屋市南区元桜田町、桜台、桜本町あたりといわれる。

鶴鳴き渡る 鶴鳴き渡ると二度重ねて詠んでいることから、鶴が鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた=愛知の語源)の情景が更なる広がりをみせてくれているようだ。

ありがたいことに久しぶりに地元出演のお話を頂いております。
大和の歌を中心に活動してきた私がいつかは地元の歌にも取り組みたいと思いながらも、曲作りはご依頼はもとより自身の思いも高まらないと完成には至らないためずっとその思いを閉じ込めておりました。
今回、ご縁を頂いてついにその日がやってきた、そんな気持ちで既に曲づくりに取り組みはじめております。

この歌に詠まれている桜田。
幼少期、ここから程近いところに住んでいたので、作曲歌中でははじめての土地勘ある万葉故地となる。しかし。
詠めば詠む程に、知らない風土が浮かび上がってくるようで日々目から鱗の毎日。
「単純な歌」だと思っておりましたが、日々のバードウオッチングの成果か鶴の習性を知れば知る程に、歌の解釈に疑問が出ております。
はてさて高市連黒人は、最後に私にどんな心をみせてくれるのかワクワクしております。


桜田勝景地の1つ、桜田八幡社。

茂みの中に石塔発見。名古屋10名所に数えられるようだ。

見晴し台考古資料館から続く笠寺台地海抜16、1Mほどの高台にあり、古代この眼下に年魚市潟が広がっていたと思われる。

付近から名古屋港方面を眺める。あたり一帯は都市計画が進みその名残を残すのは唯一地形のみ。

同方向を眺め、桜台高校グランド横の筋を撮影。一端上り坂になるものの西にむかって土地が低くなっていくのがわかる。


氏子さんたちで守られている立派な社殿。


万葉歌碑。こんな近くに連綿と万葉の歌が歌い繋がれ守られていることに深い感慨を覚える。

大和とはまた違った感動が心の中に広がった瞬間。




正面むかって右手の常夜燈には文化(1800年前半)の文字が刻まれていた(左側は大正時代のもの)

ちなみにもう1つ桜田勝景地、白毫寺が名古屋市南区岩戸町にある。
白毫寺は曹洞宗のお寺で崖上の笠寺台地に位置し、同じく崖下には年魚市潟があったとされる。
足を運んでみたが残念ながら境内の木々が繁っており遠く見渡すことはできないが、海抜の高さから立ち並ぶビルやマンションを心で焼き尽くせば十分に心の景色を堪能できる場所であった。

尾張名所図会に往時を偲ぶ桜田の絵図が残り、周辺にある元桜田町、扇田町、鶴里町、鶴田町などの地名散歩をしながら近代の地図と照らし合せればぼんやりとながらも当時の情景が浮かんでくる。


桜田八幡社から程近い見晴台考古資料館付近からもあゆち潟を眺めてみることにしてみた。



資料館の海抜が確か15、4m.眼下にあゆち潟と思えば往時の情景が心で広がる。
写真中央のお寺のような三角屋根が笠寺観音。こちらも尾張名所図会に残されている。


全国的にも珍しい市民発掘調査。うらやましい〜。でも、腰痛持ちの私には耐えられない。
資料館を拝観後、せっかくなので、名古屋港にも足を伸ばしてみることにした。
といってもお盆休み最終の日曜日。よく知られたガーデン埠頭近辺は人波だろうということで小さい頃父がよく連れていってくれた三菱や東レなどの工業地帯をぬって名古屋港の岸壁に到着。

防波堤をよじ登って名古屋港を見渡してみた。

中央にかかっている橋が伊勢湾岸道。いわゆる名港トリトン。

正面楕円形のビルが名古屋港ポートビル。左手が伊勢湾となる。


こちらは大江川にかかる橋の上から名古屋港を望む。

高市連黒人がみた1300年前のあゆちの景色と万葉の心は、どんなだったのだろう。


尾張名所図会 桜田の古覧

歌を読み解くのが、楽しみである。






























柿本人麻呂の見た志摩情景

2015年04月01日 | 万葉集と風土
嗚呼見の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 珠裳の裾に 潮満つらむか(1−40)

釧着く 手節の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ(1−41)

潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を(1−42)


692年。持統天皇、伊勢行幸の折、何らかの理由で都に留まった柿本人麻呂が詠んだ歌である。
歌に志摩の情景が詳細に記されていることから、この歌を詠む以前に、人麻呂自身が志摩に足を運んだことがあると思われ、行幸に先立ち、旅先を偲んで歌われた偲び歌の1首であろうとも考えられている歌群である。

歌い込めば込む程に、ぐんぐんと心に近づいてきて、それはあみの浦に寄せる波音そのもの。
そして現代に生きる私の心の波動となって響く……。

この歌ができてから、どうしても映像として甦らせたく、今回あみの浦での撮影を試みた。
撮影には、鳥羽郷土史会の濱口会長にもお力添えを頂いた上、先般の訪問を知って下さった答志島 美多羅志神社の宮司様が現地にかけつけて下さった。ありがたいことです。
更に、あみの浜に係留してある舟の持ち主の方にも写真撮影の許可をとりつけて下さり、当日は岸から見守って下さったのは、小浜に暮らす人々の懐広きお人柄にも触れることができたことは、何とも嬉しい。

春霞漂うあみの浦。

歌の季節そのままに、志摩の情景が再現できた日となりました。


(モデルはかわいい姪っ子)











                   

嗚呼見の浦(あみのうら)

2015年02月28日 | 万葉集と風土
伊勢の国に幸しし時に 京に留まれる柿本人麻呂の作れる歌

嗚呼見の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 珠裳の裾に 潮満つらむか(万1−40)

釧着く 手節の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ(1−41)

潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を(1−42)
                                   柿本人麻呂



嗚呼見の浦=「あみのうら」と読みます。

風香意訳:
あみの浦で 舟遊びをしている乙女たち、そのきらめくスカートの裾に満ち潮が寄せているだろうか。(40)

釧(くしろ)を着けるその手。その手節(現 答志島)の崎で、今日あたりは、都に仕える人たちが玉藻を刈って楽しんでいるだろうか。(41)

潮騒の伊良湖の島あたりを漕いでいる舟に乗っているのは、僕の愛しい人だろうか。あの荒く潮流の早い島の辺りを。(42)

3首ともに、持統六年(692年3月)伊勢行幸の折に柿本人麻呂が都に留まって作った歌とあります。
この歌の舞台が、あみの浦。
あみの浦に関しては、諸説あるものの小浜在住だった故佐久間弥之祐氏が関西大学時代の卒論にて提唱された三重県鳥羽市小浜の「あみの浜」が有力とされているところです。

歌が自分の中で近づいてくるにつれ、どうしてもこのあみの浜からの人麻呂のみた志摩の遠景をこの眼で確かめたく思い馳せるも、なかなか気象条件と鳥羽訪問が合致せず。

今回ご縁あって、鳥羽郷土史会 会長様にあみの浜をご案内頂けることになり行って来ました。

この日は快晴とまではいかないも春霞漂うまずまずのお天気。



今回訪問の目的は、あみの浜の所在確認と、あみの浦、答志島、伊良湖と遠景の広がる景色。

まずは、この歌のよみどころを。

1首目 あみの浦に対して乙女。

2首目 答志(島)の崎に対して大宮人。(大宮人=宮中に仕える女性)

3首目 伊良湖の島辺に対して妹(妹=愛しい人)

あみの浦に立ってみると、答志の崎、神島、そして伊良湖の順にその景色が一直線上にみえます。その景色はどんどんと広がり遠ざかっていくのに対して、女性については、漠然とした乙女から宮中に仕えている人に集約し、3首目で、その大宮人の中にいたのは、自分の愛しい人であったとぐぐっと距離感を縮めていっているところに、この歌群の素晴らしさが光ります。さすがは人麻呂ですね。

とある学者の先生いはく、
人麻呂の技巧的な表現は、古代において現在のように深い文学的な見地から発せられたものではないと思うが、彼はごくごく自然にこうした歌が詠めるほどの知識と教養を兼ね備えていたのでは、、、というようなことを書いてみえたのに深く納得です。

当日は、鳥羽駅から程近い鳥羽歴史文化ガイドセンターで待ち合わせ。


簡単な自己紹介と今回の訪問目的をお伝えし、レクチャーを受けたところでいよいよ出発です。

バスでの移動手段しかないとの事でしたが、ありがたいことにお車を手配下さり、
ほどなくあみの浦に到着しました。
ありがたい事です。

到着した場所は、おおよそ見当つけて訪問していた場所と合致しておりました。
最近はどこにいっても万葉の匂いがする!?動物的感覚が備わってきたようです(笑)

あみの浜一帯は、現在、波除けのテトラが広がるも、心の中でそのテトラポットを消せば、1300年前の光景が広がります。

小浜港。


たこつぼ〜。 


こちらはワカメの天日干し。美味しそう〜!


そして高台に移動。

旧小浜小学校。現在は公民館として利用されているそう。

立派な建物です。
そのグランドで、地元の方々から貴重なお話をお聞かせ頂く事ができました。


小浜は、北組、中組、南組、東組と分かれる。
その中で、北組、中組、南組には、神社、仏閣を有している事等から「サト」と呼ばれてきた。
そして東組を「あみの浜」と呼ぶと教えて下さった。
民俗学的考察の入り口とでもいっておこう。
思わず時間をかけて追求したくなるようなお話が伺えたのも、郷土史会会長さんのご案内だったからこそ。
ありがたいことです。

更に歩みを高台へと進むと、鯛取りの餌となった螠虫(ゆむし)と、ボラの供養塔のあるお寺、済度院へ。



供養塔。


よくみると、ボラと漢字表記。

こちらは、ゆむしと同じく漢字表記されている。
きっと、漁獲量がすごくあったんだろうなあ。

鳥羽郷土史会発刊の『鳥羽郷土史考 第三集』によると、ここは「唐人お吉」の映画のロケ地だったとか。

そして、そこから程近い土宮神社へ。

地図をみて、その名称から気になっていた場所。
なんでも膨大な古文書を有していたとか。
とても気になりますが。
いかん、まずは7月7月と。。。。


境内にあるナギの木。

何でも、海の凪ぎ(なぎ)に通じるとか、また、葉が固くちぎれないことから夫婦円満の意もあると教えていただいた。
なるほど〜。

そして、あみの浜からみる景色、、、、。

テトラ奥にあるのが答志島。
そのむこうは、、、一直線上のうえ、春霞が。。。

それでも、さすが郷土史会の方々。
お迎えにきて下さった車で、なんとか見える場所はと探して下さって、、、。
見えました!
イメージ通りです。

答志島の向こうに、神島が、そしてその向こうの春霞の中にぼんやりと、伊良湖岬がみえました!


(手前にみえるのが、答志島の先端部分あたり、正面の三角山は神島、そしてうっすらその背後にみえるのが、伊良湖。)


こうして、漁村にお暮らしの人たちの開放的なお人柄に触れながらお聞かせ頂けたあみの浜の風土は、想像以上に古代の情景をみせてくれ、小字名として残る1300年前そのままの風土は、そこにお暮らしの皆さんの中に、ずっしりと根づいておりました。

お世話になった皆様、ありがとうございました。


旅の仕上げは焼き牡蠣〜!


ゆつ磐群

2015年02月15日 | 万葉集と風土
十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まいで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て吹黄刀自(ふきのとじ)の作れる歌
河の上(へ)の ゆつ磐群(いはむら)に 草生(む)さず 常にもがもな とこおとめにて
                            万葉集1−22 吹黄刀自

吹黄刀自はいまだ詳(つばひ)らかにあらず。ただし、紀には「天皇の四年乙亥の春の二月、乙亥の朔(つきたち)の丁亥に、十市皇女、阿閉皇女、伊勢神宮に参赴ます」といふ。

現=三重県津市一志町八太(はた)付近と思われ、その訪問が如月であったことがわかる。

この波多に、一際思い入れがある私は、この如月にどうしても再度その風土を確かめたく首を長くしてハレの日を待っていた。
望むは、青い空の快晴日。
2月1日からは、天気予報とにらめっこ。
そして、いよいよその日がやってきたのです。

波多再訪。

旧暦の如月であるがゆえ、暦を合わせるのなら来月となるのであるが、昨今温暖化が進んでいるので、ここは季節を合わせることにこだわって、あえて現暦での訪問とし、万葉の風を感じてきました。

春というには、まだまだ寒い如月の波多。

今回の目的の1つは、ゆつ磐群。

「ゆ」は、斎み浄められた(神聖な)という意味。
「つ」は、「の」の意味の古語となり、連体助詞。
「磐群」は、ゆつ磐群をある一定の地域にみる古い文献もあったが、そうでなくあくまで岩々の意。

神聖な岩々が群がっている様子、、、ゆつ磐群を求め、そして広義には万葉を求めて、波多再訪問と相成りました。
風土を知れば知る程に、自分の目で確認したくなるのは、近年の曲作りの基本で、自分スタイル。
といっても、既に「とこおとめにて」の楽曲は完成済。
音楽は完成していますが、私の万葉歌としては、まだまだ未完成といったところでしょう。

いつもなら、近鉄大阪線川合高岡駅で下車しておりましたが、今回はJR名松線に乗ってみる事に。
名古屋から近鉄で松阪駅で下車。
一端、近鉄出口を出て、JRの切符を購入。ICカードは使えません。
同じ改札から再入場。






松阪側から眺める波多方面の景色。


白鳳時代の伽藍跡付近の伊勢八太駅付近。開けた場所に位置します。


そして井関駅。ワンマン列車が嬉しい〜。

1両編成でした。乗客は、5名程。ローカル線がいいなあ。

そしてここからは地元の語り部会所属の方々がご案内下さいました。
どこの万葉故地もそうですが、風土にお暮らしの方々と交流させて頂けることは、万葉うたいびと冥利に尽きます。
そして、何より文献に載っていないその土地ならではのお話を伺える事もありがたい事です。


この雑木林の下にみえるのが、波瀬川。
通り易いようにと、道を作りながら河原への道筋を作って下さいました。また近隣への配慮も忘れずに事前にご連絡をして下さったりと、一介のうたいびとにすぎないにも関わらず、ただただ頭が下がります。
それにしてもすごい人脈をお持ちです。

さあ、いよいよゆつ磐群を目にすることに。





そこには想像以上の万葉の原風景が広がっていました。

素晴らしい風土。

7月の名張公演の中で、映像でお伝えしたいと思っております。

今回は、お天気と相談しての急な訪問。
波多再訪は、まだまだ続きそうです。

お世話になりました。ありがとうございました。




















迹太川の辺

2015年01月14日 | 万葉集と風土
「とほ川」と読みます。

丙戌(へいしゅつ)に、旦(あした)に、朝明郡の迹太川辺(とほかわのへ)に、天照太神を望拝みたまふ。

日本書紀、天武紀にみえる記述です。
天武元年6月26日朝、天皇は朝明郡の迹太川のほとりで、天照大神を望拝されたとある。

今年、7月に名張市で行なわれるイベントに出演させて頂けることになりました。
(詳細はHPをご覧下さい)

既に、昨秋より準備をすすめております。

記述の詳しい考察につきましては、学者でもなんでもない万葉うたいびとですので、万葉歌コンサートをもってあきらかにしたいと思っておりますが、今回は、この迹太川がどういった風土にあるのか自分の目で確かめるべく、いざ出陣!

まず、現在において、迹太川なる川は存在しておらず、朝明郡(現、四日市市北部、三重郡菰野町、朝日町、川越町からなる)とあることから、現在の朝明川(あさけがわ)が有力説となっている。

遥拝所の石碑が、四日市市大矢知町1714に所在する。
但し、この場所から朝明川までは2キロ以上と離れており、立派な石碑が建立されているも学者さんたちの間では否定的な見地であるのが実情だ。

そこで、壬申の乱ルートを確認して、ルート上から遠ざからない程度で、自身の腰の具合と相談しながら、しかも駅から程近いのを条件にあげ事前に探してみることにした。
そんな調子のいいところは、、、と思いきや、選んだ場所は、三重県四日市市にある平津(へいづ)駅付近の朝明川のほとり。

名古屋から近鉄名古屋線で近鉄富田駅(桑名と四日市の間)で三岐鉄道に乗り換え、2つ目の駅である。
今迄何気に乗っていた近鉄特急から見えていた川が朝明川だったとは、無知である。



あこがれの三岐鉄道。特急車窓越しにローカル線の雰囲気漂うこの車両に乗ってみたかった私、こんな形で乗車できる日がくるなんて。

その三岐鉄道への乗り換え方がわからない。
駅員さんにきいてみたら、一旦改札を出て、窓口で切符を買い求め、再度近鉄の改札から乗車できるとの事。
なるほどね。


帰りの切符も不安だったので往復買ってみた。嬉しい紙切符。
ふふふ。

いざ、単線ワンマンの三岐鉄道に乗車〜。


正面には鈴鹿山脈が一望できる素晴らしいパノラマ。


単線なので、電車との行き交えは駅〜。


へいづに到着。


駅を下りて地元の郷土資料館発行の資料をゲット。地元の情報はありがたい。程なく旧道に出る。


なんでも、三重県四日市市富田一色から鈴鹿山脈を越えて滋賀県へ行くルートで、八風(はっぷう)街道と言うと、駅員のおばさまと乗客の地元の人が親切に教えて下さった。
万葉故地を訪ねる度、やはり地元の方と会話を交わせるのが嬉しい。
その土地の雰囲気が、会話の中から伝わるというと大げさかもしれないが、なにかしら感じるものを大切にしたいと思っている。


店の名前も「あさけ」とある。ほっこりする瞬間だ。

この旧道が、朝明川沿いを沿っているのもいい。


上流方向にみえる雪山は、1000m級の鈴鹿山系の一部にあたる山々。
晴天を狙って、でかけたのは、ナイス選択!


いよいよ朝明川である。

下流方向はいうまでもなく伊勢湾、上流方向は、鈴鹿山脈、そして南の方向が伊勢あたりになるかと思われる場所である。

川の辺をどこに求めるかということであるが、やはり万葉うたいびとたるもの、何としてでもこの川岸に下りてみなければならぬ。
ということで、近所の方に下りられそうな場所を尋ねてみると、階段はないものの、護岸工事でコンクリートが組んであるあたりなら頑張れば下りられるのではないか、、、疑心暗鬼なおじさんの表情とはうらはらに耳寄りな!?情報を得、いざゆかん。

12月は、もう歩けなくなるかと思っていた腰痛が、正月明けから何かが落ちたように調子がいいのも手伝ってくれて、、、、


何とか命がけで迹太川の辺を歩く事ができた。
ちなみに人間の足跡は、私のものだけ。
これがまた嬉し。

綺麗な川である。昔は鮎もいたと駅で出会った方が話してみえたのもうなづける。



撮影を終え、行きはよいよいである。

下りた堤防を上がらねば、、、草につかまり、滑り落ちそうなコンクリートを這い上がり、、、、あとは想像にお任せします。
上りきった後は、ひっつき虫まみれでした。

前回近鉄特急で、近鉄富田駅付近にあがる太陽の時間と方向を確認した上での迹太川の辺は、ほぼイメージ通りの感触を得ることができた。

ここまできたので、やはり遥拝所も訪ねてみようと、今度は富田駅に戻り、徒歩にて移動。


ところがである。
迷子になりました。

地元の人、数人に聞くも、わからないとの返答やら、見当つけてきた方向と逆方向を示され不安が。

今どきスマホを持ち歩けば、こんな手間はかからないのだが、不便なことが楽しい。

仕事中の妹に、調べてもらって再度仕切り直し。迷惑な姉である。


十四川沿いを歩く。

近く迄きたら、斎宮橋とやらが。


ようやく到着。住宅街の一画。立派な石碑であった。


さあ、富田駅に帰らねば。


ええ〜!遥か向こうに駅が。
帰宅したのは、予定時刻を3時間以上も過ぎていた。

今朝は、腰が痛い、、、。

養生の一日。。。

迹太川の辺の続きは、7月4日、名張市での上演で。
是非、お越し下さいませ。







万葉故地「忍阪」への想い

2011年04月27日 | 万葉集と風土
万葉故地「忍阪」。



「秋山の樹の下隠り」の楽曲が完成したのが2009年。
この曲を作ることになったきっかけは、犬養孝先生の著書を読み、心の琴線に触れたからだった。
以降、歌詞を作る過程において、この鏡王女さんが眠る忍阪とはどういった風土の中にあるのかいろんな本から得る情報しか知るすべがなかった。

「秋山の樹の下隠り 行く水の 吾こそ益さめ 御念(みおも)ひよりは」

まず、鏡王女さまがこの歌に詠まれている秋山の樹の下の古代における風景をどう見つめていたのだろうというところから想いを募らせていった。
秋の山。万葉集において「もみじ」は紅葉でなく「黄葉」である。
山の全景をイメージするところから入っていった。
そしてだんだん山の奥深いところへと。
そしていよいよ、この秋山の樹の下を流れる山清水とは、どういった流れの中で音を奏でているのだろうと。

愛知での日常生活の中で、ある時は近くの排水溝を流れる水音に耳をすませてみたり、またある時は田んぼに注ぐ水音に耳を澄ませてみたりと水音にこだわっていた。

こうして紆余曲折しながらも完成したのである。

そして季節は秋。
地元にお住まいのTさんが「いつでも案内しますから是非この歌の歌碑のある忍阪へ来て下さい」と言って下さった事、またこの年に出場した音楽祭で、万葉協会の会長さんが「風香さん、あなた忍阪へ行かれたの?あなたの歌の通りのところよ。是非行って確かめてらっしゃい」そんなお言葉も頂けたおかげでついにこの年の11月に忍阪へ初めて足を踏み入れることになった。
そこには1300年前と何ら変わらぬ風景が目の前に広がっていったことを今でも鮮明に覚えている。
また奇しくも37年前のこの日にこの秋山の万葉歌碑が犬養先生の揮毫で桜井市によって建立されたと知ったのは、愛知に戻ってからであった。
そして今。
2009年のこの日の足跡(詳しくはこちら→http://blog.goo.ne.jp/taketi2tag3/e/672456fb408f7a5f128ca820e286629c)をまるで追うかのごとく夢のような現実が忍阪の人たちの手により奇跡として起こっている。
万葉故地「忍阪」へ、1年に2度いくことができた年は二度とやってこないかもと二年前に書いた日記が微笑んでいる気がする(笑)

こうして結ばれた万葉故地「忍阪」では、今回の「祈り」のDVDが本日より各町ともに1戸1枚、全戸配布となるそうです。
いつか忍阪にお住まいの方お一人だけにでも万葉歌に触れて頂ければと思っていましたが、忍阪の方々によって夢が叶えられた瞬間でもありました。
この場を借りて改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

尚、祈りの歌詞を作る過程において、石仏さまの姿を言葉に、そして石仏さまとその風土を守る忍阪の方々の姿を言葉に込めました。
そして、レコーディングの過程においては、DVDにも収められている石仏さまにお参りされる住民の方々のお姿に心打たれ、力を頂き、歌わせて頂く事ができました。
不思議な出会いから歌をお届けし、その歌がまた忍阪の人々の手によって息が吹き込まれたんですから。
つながっていることを肌で感じています。

万葉故地「忍阪」。
そこには今も変わらずに1300年前の風土が、そしていにしえ人の心が息づく素晴らしい場所であり、そこに暮らす人々によって今日も大切に守り続られています。

ありがとうございます。

日々感謝。



追伸
こうして書いていたら、また無性に行きたくなってきました(笑)
次回はふら~っと立ち寄るかもしれませんが、ありがたいことに忍阪街道沿いに関所がだんだん多くなっていますね(笑)









万葉故地「風早」

2010年11月30日 | 万葉集と風土
風早で詠まれた万葉集の句と出会ったのは、2年前。
以降ずっとずっと思い描いてきた万葉故地「風早」。
そして念願叶い、初めて訪れたのは今年の7月。
そして2回目が過日のライブの時。

ライブ前日に広島入りした私は、その日一人で万葉故地巡りをすることができた。

まずは素晴らしい万葉歌碑と障壁画のある祝詞山八幡神社へと向かう。2回目の訪問。
万葉歌碑は、風早で詠まれた歌、2首を地元の書家の先生が中学生でも読める揮毫をという思いも込めて、わかりやすい揮毫で書かれたものである。

風早の浦に船泊(ふなどま)りする夜に作る歌二首
「我がゆえに 妹嘆くらし風早の浦の沖辺に 霧たなびけり」 万十五 三六一五
「沖つ風 いたく吹きせば我妹子が 嘆きの霧に飽かましものを」 万十五 三六一六

風早の万葉歌碑はこの二首であるが、万葉集遣新羅使人の歌は巻十五に一四五首収められている。
私がこの句と出会ったのも、実は元はこの新羅使人の別の句である万葉故地「玉の浦」(岡山県倉敷市)で歌われた歌を作ろうと調べた先に、更に紐解いて辿り着いたのが風早の歌であったのだ。

そして上記二首の前にはこの歌との関連を思わせる二首が一連の贈答歌十一首の中に歌われていた。

遣新羅使人(けんしらぎしじん)等、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情(こころ)を慟(いた)みして思いを陳(の)べ、併せて所に当りて誦(うた)ふ古歌

「君が行く 海辺の宿に霧立たば 我(あ)が立ち嘆く 息と知りませ」万十五 三五八〇
「秋去らば 相見むものを何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ」万十五 三五八一

尚、目録には更に詳しく、
天平八年丙子夏六月、使を新羅の国に遣(つか)はす時に、使人等、おのもおのも別れを悲しびて贈答し、また海路の上にして旅を慟(いた)みして思いを陳べて作る歌(以下略)

とある。
天平八年は736年。
その年の6月に遣新羅使が派遣されたことが明確になっている貴重な文献史料である。
とある文献によると6月1日に大阪難波津を出港したと仮定し、新羅使人の足取りを追っている。
それによると、10日後の6月10日に風早の浦に到着したことになる。

(参考)
 6月 1日 難波津出港(大阪)
 6月 2日 大輪田(兵庫)
 6月 3日 明石(兵庫)
 6月 4日 飾磨(兵庫)
 6月 5日 室津(兵庫)
 6月 6日 牛窓(岡山)
 6月 7日 玉の浦(岡山)
 6月 8日 神島(広島)
 6月 9日 長井の浦(広島)
 6月10日 風早の浦(広島)

そこで、もう一度この万葉歌碑に戻ると、歌碑の裏側をみると昭和四十七年六月十一日に建立されたとある。
いわゆる遣新羅使人がここ風早を旅立った日であるのだ。
ここに、私はこの歌碑建立を発案された祝詞山八幡神社の元宮司である故富永氏の思い、また地元民の方々の思いを深く感じずにはいられなかった。
初めての訪問の折にこれを見つけた時もそうだったが、そう感じただけで、もうそこは万葉の世界と現代が時空を超えて繋がる空間となるのであった。

更にその隣のそびえ立つのは障壁画である。
縦3.6メートル、横5.4メートルに及ぶ障壁画には、歌の内容が、そして風早の風土が見事に描き出されており、作者はやはり地元の有名な画家さんで日展にも入賞された方の作品であるらしい。
描き出された大和で待つ妻、そして新羅へと向かっていく夫の夫々の表情には物悲しささえ感じる。
そしてここ祝詞山八幡神社の境内から遥かに見下ろす風早の浦の景色には、心打たれしばし立ち尽くす私であった。

その景色をすっぽりと心の中に焼き付けた私は風早の浦が見渡せる絶好のビュースポットと言われる場所へと向かうことにした。
7月に訪れた場所とは今回はまた違った場所を探し出す楽しみも見つけた。
ちょうど風早駅の裏手あたりだろうか。
急な坂道を駆け上がり(実際はゆったりと歩き)、振り返ってみると見事な風早の浦が一望できる。
そこは平成の世にありながら、うっすらと沖にかかる霧が見られ、まさに1274年前の景色と同じであることを実感できる場所であった。

この後、風早駅へと向かい、JR呉線に初乗車し隣の安芸津駅へと向かい、海辺の宿である富楽さんへと帰途についた私であったのだが、なんとこの風早駅が素晴らしい。
風早の浦が一望できる場所にあるこの駅からの景観の素晴らしさ。
そしてその裏手には、年に1度の秋祭り「火とグルメの祭典 あきつフェスティバル」のメインイベントである「万の字焼き」が点される保野山がみえるのだ。
何でも正月等はLEDライトで点灯され、このフェスティバルの時だけ地元ボランティアの手による松明を上げ頂上付近迄のぼり、点火されるというのだ。
まさに万葉の心が、万葉の火となり、いにしえ人の心と現代に生きる人々の心が一つとなって夜空に描き出される瞬間でもあり、それを実際にあの日、目の当たりにした私が深い感動に包まれたことはいうまでもない。

万葉故地「風早」は、現代においても万葉集の風土といにしえ人の心が、現代の人々によって大切に受け継がれ、守られているすばらしい町であり、そこに生きる安芸津の人々に宿る1274年前の温かく深い心に触れることができたことが何より嬉しく、そこで歌われた万葉歌を聴いて下さった安芸津の皆様に改めて御礼申し上げます。そしてその機会を与えて下さった安芸津の実行委員会の皆様、そして安芸津のY氏に改めまして深く深く御礼申し上げます。

今回、風早のライブに足を運んで映像関係を一手に引き受けて下さった奈良県在住のTさんが、今ここに描いた風土をご自身が撮った写真と私が1回目2回目の訪問で撮った写真を構成してすばらしい「嘆きの霧」ムービーを作って下さいました。
風早には行った事がない方が少しでも万葉集の風土を感じて頂ける機会になれば幸いです。

そして、安芸津にお住まいの方がもし一人でもこれを見て頂ければ歌の作り手である私たちはもちろん、ムービーの作り手であるTさんにとりましてもこれ以上の幸せはありません。

今日もつたないブログですが、最後まで読んで下さってありがとうございました。感謝。


嘆きの霧 / とこおとめ (スタジオ録音盤)