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万葉うたいびと風香®’s ブログ

万葉うたいびと風香®のブログです。

淡路の野島

2010年09月15日 | 万葉集と風土
「淡路の野島の崎の濱風に 妹が結びし 紐吹き返す」(万葉集巻三 二五一 柿本人麻呂)

万葉歌を作るようになって、年々万葉故地への思いが募っている。
それは自分の中で、万葉歌と風土はきっても切り離せない関係にあると思っているからだ。

歌を作るには、句を詠まなければならない。
句を詠むには、その原文にあたり紐解いていく作業が待っている。
紐解くにあたっては、その歌が読まれた土地を知る必要がある。
その土地を知るには万葉故地に赴く。

まるでしりとり合戦のように複雑に絡み合い、決してどれをおろそかにもできないのだ。

机上で可能でないこと。
それは、現地に赴くということ。
文献史料にあたってイメージをふくらませた上で万葉故地にたどり着くと、大抵が自分の予想を遥かに超えた風土がまっている。
目の前に広がる1300年前の風が吹き抜ける万葉故地はどこをとってもそして何度訪ねても、一瞬にして1300年前にタイムスリップできる瞬間だ。
明日香はもとより、桜井市忍阪、吉野、西ノ京にある薬師寺、富山県、岡山県、広島県と今迄自分が訪ねた故地すべてに共通していえる。
さて、今迄自分が作ってきた曲の中で、唯一訪れていなかった場所がひとつだけあった。
淡路島の野島。
上記の句である。

歌を作るにあたって、ずいぶんと様々な文献を読み写真を探したが、これだと思う写真は結局犬養先生の著書にあった白黒の写真1枚だけだった。
それでも万葉の心は、自分の中にぐっと近づき歌となり形となった。

あれから約3年。
野島に対しての思いは募る一報で、いつかこの目で確かめに行きたいと心の中でずっとずっと温め続けていた。

それが思いがけず素晴らしい写真と出会う事ができた。
少し前に知人とひょんな会話から淡路の野島について言葉のやりとりがあった。
それは何気ない会話。
するとつい数日前にその方が野島に行って写真を撮って下さったのだ。
人との会話って、うっかりしてると聞き流してしまいがちな自分。
言葉を受け止めてくれていたんだと思った。

この写真を見た時、感動で胸が張り裂けそうだった。
美しすぎる野島の夕映え。
海面に映る凪の波目。
沖にある潮目。

確かに人麻呂さんが見た風景だと実感できた。
この景色を眺め、彼は妻が結んでくれた紐を、そして心をこの野島で感じていたんだ。
そう思えば思う程に涙はとめどなく出て、その夜は深い感動に包まれていた。

1300年前の景色。
そして1300年前の心。
それは万葉故地に今も生きている。

Cちゃん、ありがとう。
感謝。







万葉歌「嘆きの霧」解釈

2010年09月01日 | 万葉集と風土
「嘆きの霧」

 万葉集巻十五にある遣新羅使人の歌です。新羅使人の歌群145首の中からの4首です。
 万葉集目録の原文は次のようです。
  天平八年丙子夏六月、使を新羅の国に遣はす時に、使人等、おのもおのを別れを悲しびて贈答し、また海路の上にして旅を慟(いた)みして思ひを陳(の)べて作る歌
とあります。
今回選んだ4首は、新羅へとむかう夫と大和で待つ妻との心の嘆きを歌っているものです
 日本書紀によると、天平八年(736年)第二十三次の遣新羅使人たちは二月二十七日に拝命、四月十七日に平城宮に拝朝。そして古典全集仮定によると六月一日に難波を出立ち。六月十日頃には今回の歌がよまれた広島県の風早の浦で船泊りしたと考えられます。
 往時、大和から大阪難波津へと向かうのは、一番道が平坦であった龍田越えでした。そして難波津から新羅への海路は瀬戸内海を通ったことが、どの時代の旅の歌をとってもその歌が瀬戸内沿岸に見られることから明らかです。
 さて、拝朝後、ついに大和の妻との別れの朝を迎えます。そして妻は夫に歌を送ります。
「君が行く 海辺の宿に霧立たば 吾(あ)が立ち嘆く 息と知りませ」
 (あなたが旅行く、海辺の宿に霧が立ったなら、私が門に出て立ち出てはお慕いして嘆く息だと思って下さいね)
この句を読んで深い感動を覚えました。1300年前の言葉とは思えないほど、現代に生きる私たちにも痛いほどに心が伝わってくると思いませんか。白い霧は夫を思う妻のため息だというんです。これから夫が向かう海辺、どこにいても私を感じて下さいという妻の心そのものだと深い感銘を受けました。
その句を受けて、今度は夫が妻に送ります。
「秋さらば 相見むものを何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ」
 (秋になったら、必ず逢えるのだ。なのにどうして霧となって立ち込めるほどに嘆かれるのか)
 使節団は第23次。従来の遣新羅の通例からして最低でも往復に6~7ヶ月かかっていたことがわかっていたはず。なのに夏6月に出発してわずか2~3ヶ月(季節は秋となる)で戻れるはずがないことを承知で夫は不安な妻の心を、そして自らの恐怖を抑えるためにあえて秋になったらと安心させたようです。またこの句には夫が妻に対して敬語を使っているという万葉集中でも貴重な文例となっているところに、妻を思う夫の深い想いやりを感じずにはいられません。
 そして多くの海路の難所である神の渡りを越えて、広島県は現、安芸津町にある風早の浦までやってきました。今日はここで船泊まりです。沖に目をやると真っ白な霧がたなびいてきました。
そこで夫はまさに妻の心を感じます。
「我が故(ゆえ)に 妹嘆くらし風早の浦の沖辺に 霧たなびけり」 
 (私が元であの子がため息をついているらしい。ここ風早の浦の沖辺には霧が一面に立ち込めている)
この歌を読み解くのに、広島県にお住まいのご学友の方のお力添えを頂き、風早の霧についてお調べいただきましたところ、あたり前のようなんですが心に響く漁師さんの言葉を聞くことができ胸が高鳴りました。
「海上に霧がでたら、真っ白で何もみえないんですよ」と。
へえ、それがどうしたの?と思わないで下さいね。
これはまさに真っ白な霧に包まれるほどに他には何もみえない。心をすっぽりと包んでしまう嘆きの霧だということではないでしょうか。夫は自分自身であるがゆえに妻を嘆かせて悲しませてしまっていることを胸が張り裂けんばかりにこの霧に妻への想いを馳せていたんでしょう。更に夫はここ、風の強く早く吹く風早の風土を感じてこう続けます。
「沖つ風 いたく吹きせば吾妹子(わぎもこ)が 嘆きの霧に飽かましものを」
 (沖から吹く風、その激しい風が吹きでもしてくれたら、いとしいあの子の嘆きの霧に、心ゆくまで包まれていることができように)
妻の想いを、そして妻の嘆きを思いのままに受け止めることのできないもどかしさを嘆き、もっともっと風が吹いてくれれば、大和で別れを告げた妻の嘆きをまっ白な霧に全てを包み込んでずっとずっと感じていたいと歌い上げました。いにしえ人は全身全霊で夫を、そして妻を愛していたんですね。
 「嘆きの霧」1300年前の心がここに生きていました。            完
                                
 最後までお読み下さってありがとうございます。
 ありがとうございました。感謝。


参考文献
  万葉集全注巻十五   伊藤博他著 有閣社    1983
  万葉集全訳注原文付  中西進著  講談社    1984
  万葉の人々      犬養孝   PHP研究所  1978
  万葉の旅 上•中•下  犬養孝   社会思想社  1964
  日本書紀 全現代語訳 宇治谷孟  講談社    1988
                          他
 *尚、解説については参考文献を基にした、私自身の解釈です。真実を知りたい方は遣新羅使人に直接お聞き下さい。

飛鳥 ~八重山吹~

2009年07月31日 | 万葉集と風土
山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴  万葉集巻二 158 高市皇子

山吹きの 立ちよそひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく

風香訳:山吹が寄り添うようにある山清水。汲みに行こうにも黄泉の国への道を知らない。現身(うつそみ)の私はどうすることもできない・・・。君に会いたい。



天武天皇と胸形尼子娘との間の子、高市皇子が十市皇女のために詠んだ句である。

十市皇女は、天武天皇と額田王との間にできた一人娘。
高市とは異母兄弟であった。
今では考えられない恋愛であるが、当時にはよくあったことである。

十市は天智天皇の皇子、大友皇子と政略結婚していたが壬申の乱により大友は自害。
後、父の天武天皇に伊勢神宮の斎宮に仕えるよう命じられる。
斎宮へ旅立つ日の朝、十市は不慮の事故で亡くなるが、万葉集、日本書記とも詳細については述べられていない。
そのことが自殺であった可能性を否定できなくしている。

この事件を踏まえた上で高市皇子が十市皇女に挽歌として3首万葉集に残している。
あとにも先にも高市皇子が残している句はこの3首のみであることは、十市皇女への思いが特別なものだったことを想像できるであろう。

万葉集には、紀に曰はく、「七年戊寅の夏四月丁亥の朔の葵巳、十市皇女卒然(にわか)に病発りて宮の中に薨りましき」といへり とある。

山吹は、一般的によくみるのが園芸種の八重山吹。
一方この歌に歌われた山吹は山の裾野によく自生している一重の山吹であろう。
万葉歌ではあえて八重山吹として
花が咲いても実がならない悲しさ、切なさを高市の思いと重ねてみた。

明日香あたりは四方、山に囲まれていたであろうから5月あたりあちらこちらで自生の山吹が咲いていたに違いない。



 




淡路島 野島の崎 ~妹が結びし~

2009年02月21日 | 万葉集と風土
淡路島の北端にある野島の崎。
現代には阪神淡路大震災の爪痕、野島断層が残る場所である。

柿本人麻呂が生きた600年後半から700年の時代の船旅を想像しよう。
当時の政権を握っていたのは持統天皇。
人麻呂に命じたのは九州は太宰府の国守への下見かと思われるが、実際の年代確定には至っていないのが現状であるようだ。

奈良の都(藤原京かと思われる)をあとにした人麻呂は大阪は難波津を出て海の難所『神の渡り』である明石海峡を渡る。
そこは潮流が早く、いつ潮の流れに巻き込まれるかもしれない死との恐怖と背中合わせの場所でもあった。
当時の船旅は今のような安全な船旅ではなく、手漕ぎの舟で進み行く旅。
無事に帰れる保証は何一つない船旅であった。
明石海峡を命がけで渡った人麻呂は対岸の淡路島は野島で舟を休める。
その野島の崎にただ一人立ち、大和に残してきた妻を思ったのである。

『淡路の野島の崎の浜風に 妹が結びし紐吹き返す』

風香訳:淡路の野島の崎に吹く冷たい浜風に 大和で別れを告げた妻が強く、深く結んでくれた腰紐がひるがえっている。妻はどんな思いでいるのだろうか。

古代、旅に出る前、夫婦は互いの着物の交換をするという祈りを込めた習俗があった。
そして最期に結ぶ腰紐は、互いが結び合うことで結び目に霊魂を込めるという祈祷に似た一種の儀式があったようだ。
腰紐に込められた夫婦の思い。
それは現代人が想像する以上の深い思いと、生涯の別れになるかもしれないという悲痛な叫びにも似た行為であったことだろう。

大和をあとにする人麻呂。
そして大和に残された妻。

現代に生きる私たちの想像をはるかに越える夫婦の強い『心の絆』が培われていたのであろう。