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万葉うたいびと風香®’s ブログ

万葉うたいびと風香®のブログです。

沖つ藻の名張

2014年11月25日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
名張にかかる枕詞、沖つ藻(おきつも)。

大和から東国へと向かう際、宇陀の山間を抜けて名張の山(名張の山々の意)を越える。ここまでは畿内の東限となり、名張を過ぎるといよいよ伊賀の国。
そして、伊勢、東海へとつながっていく。

名張(なばり)は、古語、隠(なば)るを語源とし、隠(なば)る=奥深く隠れること。

沖つ藻は、その「名張」の言葉を導き出し、更に強めるように、沖の奥深く波に隠れ、海の底深くある藻のようにという意となる。

だから、沖深く、波に隠れる藻のように、山深く隠れる名張ということになるのだろう。

その名張に、今年5月のコンサート以来となる、名張再訪&打合せと相成った。

この日は快晴。万葉びとが味方してくれているようなお天気。

打合せの前に、私を気遣って名張歴史読書会の皆様から町中をご案内頂けた。

まずは、藤堂家邸へ2回目の訪問。





現存する文書も史料的価値が高いものばかりで、目を見張るばかりだ。
5月にもお世話になった米澤氏より、文書をはじめ軸や邸宅内の説明を丁寧にして頂いた。
この方、読売新聞 伊賀版において「いが地名考」にも寄稿されている方である。
貴重な資料もありがとうございました。

それにしても、一番いい季節での再訪となったのは、ありがたい。



名張の路地空間、「ひやわい」


名張では、和菓子食べ歩きができる。駅前の観光案内所で1冊600円でチケットを購入。(5枚綴り)
提携店でチケットを渡すと、通常以上の商品が頂ける。
和菓子だけかと思っていたら、お肉やさんのコロッケ他提携店が増えたらしい。


これは、矢の伊老舗さんの佐伊助饅頭。通常1個相当の商品だがチケットで2つ頂けるそう。
店先で、お茶と共に頂きました。
他にも「おきつも」という銘菓もあったので、次回は是非購入してみたいと思う。
風土のお菓子から、万葉の言霊を感じられるってなんて素敵なんだろう。




こちらは、宇流富志禰神社。

宮司様より説明を受けたところによると、藤堂家に伝わる能面45面を譲り受けられ、以来大切に守っていらっしゃるそうだ。


そして、一番行きたかった場所。
「横河」推定地である、名張川と宇陀川の合流地点。
というのも、壬申の乱においての名張における1つの舞台である。
地元の方々のご案内は、名張に限らずどこの万葉故地を伺ってもそうなのだが、土着の人にしかわからない場所や地名、小字名まで瞬時にして教えて頂ける。ありがたいことです。


文化庁有形文化財に指定されている建物続きで、食事&打合せをして、丸1日お世話になった沖つ藻の名張をあとにしました。

改めて「万葉の風土を歩く」ことの大切さと万葉の里に生きる人々との温かい交流に感謝した私です。

名張歴史読書会の皆様、大変お世話になりました。
深謝。

河の上の ゆつ磐群に 草生さず 常にもがもな とこおとめにて

2014年11月23日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時に、波多の横山の巌を見て、吹黄刀自の作る歌と万葉集巻1−22にある。

歌の意味。

風香意訳
清らかな河の流れ、その河の上の神聖な岩々に草が生えないように、どうかいつまでも清純な、永遠(とわ)の乙女でいてください。

この歌の詠まれた波多は、現 三重県津市一志町八太。

波多の横山については、どこを指しているのか学説も分かれるところで定まらず、大きく4説に分けられる。

この歌への私の思いは、相当なもので一種、あこがれにも近いものがあるのかもしれない。

さて、今回、この波多の横山の風土を一志町歴史語り部の会にも所属される地元の方々のご案内を頂いて、訪ねることができた。

まず、ここ波多の地域は、先土器時代以降の遺跡が分布しており、微高地を利用した雲出川水系に古代寺院等が開かれた風土にある。

(雲出川)

大和は藤原京から桜井を経て、名張、青山越えで、波多から伊勢へと通じていくことを考えると、ここ波多は交通の要所であったと推測され、聖武天皇の時代には、関の宮の地名にも名残のみえる、川口頓宮も置かれていた。

白鳳期の伽藍跡とされる八太山大誓院(現:班光寺)は、文書によると七堂伽藍が造立されていたとされ、一志町教育委員会による埋蔵文化財調査報告書によると、遺構の出土状況からも塔が建立されていたことが推定される。
この班光寺跡は、現在JR名松線 伊勢八太駅の南側辺りに位置し、残念ながら礎石なども移動されているので、遺跡の特定は、地元の方々にご案内を頂くか地図をもって辿る事しかできない。
しかしながら、礎石そのものは、波多神社をはじめ区内あちらこちらに分散、保管されているようだ。

今回は、この波多横山の推定地を巡る旅。

川合高岡駅から出発。
私の一志訪問を知った知人の方が、駆けつけて下さり5年ぶりの再会と、嬉しい出来事も。
Rさん、ありがとうございました。

まずは、雲出川を上がって推定地の1つである大仰へ。



歌のイメージだけでいうと、雲出川は川幅がかなり広く、流れも早い。


こちらは安政の大地震によって、逆さまになったとされる逆さ地蔵もある地。
(先日、笠着地蔵とお伝えしておりましたが、巨石の反対側にあるのが笠着地蔵で、この写真は逆さ地蔵と、教えて頂きましたので訂正させていただきます)

ちなみに、笠着地蔵はこちら



河原は独特の地形をなし、長年の浸食を経たのか砂地でなく石が削られた河原となっていたのも、歴史の重みを感じる。

次に向かったのは、川口頓宮跡。


こちらは、聖武天皇、伊勢行幸の折のものであり、付近には家持の万葉歌碑もあった。

次に向かったのは、2つ目推定地、波瀬清水橋。


こちらは、川幅といい、清らかな水面といい、何ともいえない雰囲気のあるところだ。


ゆつ磐群の意は、斎み浄められた神霊の宿る岩々という意となり、この歌が呪歌だといわれている由縁でもあろうが、まさにそうした清純さを思わせる川の流れであった。
ただ、横山の意をどうくみ取るのか疑問が残る。

次に訪ねたのは3つめ、井関地区。
雲出川支流にあたる。

こちらは、人工的な堰でありながらも自然な景観を極力保っている、見事な堰である。

この日は、秋風が吹き、木の葉が舞い落ちる見事な景観を織りなしてもくれた。ラッキー。

そして、いよいよ白鳳伽藍のあった4つ目の推定地、八太地区へ。
こちらは、既に曲作りの渦中に一人で数度歩かせて頂いている地。



山号にも八太山とついているのも興味深いが、まだまだ勉強不足。

(波多の横山周辺の遠景)

道中、地元の方々をご紹介頂きながらの訪問となった波多の横山、万葉の旅。

心身共々満喫できた旅となったのも、一重にご案内頂いた地元の方々のおかげとただただ感謝申し上げます。
ありがとうございました。


こちらで皆様とご一緒にランチ。


日本庭園も見事に手入れされており、落ち着いた空間に心和む。

私はたまたま万葉歌を歌っているだけであるが、皆さん、地元の歴史風土を語り継ぐべく日々ご尽力していらっしゃる方ばかり。
そんなご多忙な日々をお過ごしの方々が、こうして時間を作って下さることがただただありがたい。
万葉の風土に暮らす人々との交流は、万葉歌を歌っている私にとっては何よりもかけがえのない時間(とき)。

大変お世話になりました。ありがとうございました。
次回は、歌が詠まれた如月にお邪魔したいと思っております。

深謝。 

名張から波多の横山へ

2014年01月25日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
河の上の ゆつ磐群(いはむら)に 草生(む)さず 常にもがもな とこおとめにて
                         万葉集巻1-22 吹黄刀自

この歌は、伊勢神宮へと向かう十市皇女、阿閉皇女、そして皇女たちに従った吹黄刀自が、途中波多横山の巌(いわお)をみて、十市を思い詠んだのではとされている歌です。

最初のユニット名の「とこおとめ」は、この歌からつけた程に、歌への思い入れは相当なものをもっており、今回イベントにからめていよいよこの曲にも取り組むことに。

歌詞の部分でどうしてもこの目で確認したくなり、先日名張から波多の横山を歩いてきました。

まずは名古屋から一路名張へ。



今回は2回目の再訪となる夏見廃寺へ。






(馬酔木の花のつぼみがふくらみはじめていました。万葉集にある如く2月初旬開花でしょうか。思いが募ります)

夏見廃寺では、夏見廃寺展示館が併設されており今回はこの中の展示遺物と復元金堂を前に思いを馳せてきました。

母がデーサービスから帰ってくる前に自宅に戻らねばならない為、後ろ髪を引かれるもいそいそと次の目的地、波多の横山へ移動。

波多の横山は、現三重県津市一志町八太と言われています。

最寄り駅は、JRでもいいのですが、やはり乗りなれている近鉄電車で移動し、川合高岡で下車。
伊勢中川駅の次の駅です。


駅で降りたのは、私1人。嬉しくなります(笑)

いきなり、運命の分かれ道!?


左は国道。これをいけば近道は間違いないのですが、、、あえて右の道、初瀬街道へと歩む事を決めてきました。
目的地の波多神社は国道の更に左側の為、大廻りです。

泊瀬にご縁を頂いた私が、今、八太で初瀬街道を歩いている。
なんだかいにしえ人になった気分でした。


しばらくすると初瀬街道の右手に山の山容を捉えました。

ピン!ときました!
これだな、波多の横山は。

「横山」と万葉集題詞に残されている通り、低い山が横に連なっているまさに「波多の横山」

さらに歩くと、今度は川が見えてきました。

橋にはなんと「波瀬川」はせがわって読むのかしら!これにもびっくり。
奈良県桜井市を流れるのは、泊瀬川(はつせがわ。現 はせがわ)

町並みの雰囲気もどこか似ています。




八太の七曲がりを遊んで歩き楽しんだ後に小学校を過ぎると、ようやく元の国道(近鉄も沿っています)にでました。


そして、横切るとこんもりした森が波多神社。



この付近には白鳳時代の寺院があったようで、私の下調べ不足。次回再訪の折の課題となりました。


(石灯籠には、元禄の文字が。もう1つは稲垣八兵衛と献灯者の名前が刻んであった)

(波多神社付近から見る波多の横山)

歌の風土を十分感じる事ができ、大満足の旅となったのは嬉しいが、波多の横山を歩いて知ったことで更に知りたくなってしまったのは、もしかしたら私は万葉びとの生き残りなのかもしれないと自分に笑って帰路についた私です。




万葉は青春のいのち。

犬養先生の言葉を胸に。




























                           

参河行幸。

2013年06月23日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
二年壬寅(みづのえとら)に、太上天皇、参河国に幸(いでま)す時の歌

引馬野(ひくまの)に にほふ榛原(はりはら)入り乱れ 衣(ころも)にほはせ 旅のしるしに(万1-57)

いづくにか 舟泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻み行きし 棚なし小舟(をぶね)(万1-58)


引馬野に色づいている榛(ハンの木)の原、その中に入り乱れて衣を染めていきましょう、旅のしるしに。。。
今頃、どこに舟泊まりしているのでしょうか、、安礼の崎を漕ぎ進めて行ったあの横板もない小さな舟は。


大宝2年(702年)に、持統天皇、三河国行幸の歌で万葉集に残され、引馬野、安礼の崎ともに、愛知県宝飯郡御津町御馬のあたりとされています。

愛知県の万葉故地は数える程しか知りませんが、この行幸の時に持統天皇が植えたと伝承の残る桜の古木があるというので、友人たちに誘われていってきました!

奈良の万葉故地は何カ所か訪ねていますが、なんと愛知県は初!

場所は岡崎市奥山田町。

持統桜といわれるこの桜は、1300年前、第41代持統天皇が「三河富士」の異名をとる村積山を行幸された際に植えたと地元では伝承が残っているようです。桜はエドヒガンの仲間で樹高17メートル、枝張りは東西15メートル、南北17メートル。


想像以上の迫力に圧倒。




伝承の域は脱し得ないものの、地域で守り続けてみえる真心と歴史の重みを感じた古木に心動かされた時間となりました。
来年は満開のしだれ桜の時期に是非!そう誓った3人でした!

欲張りな女3人旅ですので、楽しみは1つだけでは満足できないっ!ということで彼女おすすめのコーヒー店「豆蔵」へも花見前に立寄り。



ラテアート日本一のお店だそうで、最近はまっているカプチーノをオーダー。



コーヒーのお味は全く鈍感な私ですが、今迄飲んだコーヒーの中で一番美味しかった!
コクはあるんだけど、後味が残らないっ!

こちらはモーニングについたクロワッサンとコーヒーゼリー、そしてフレッシュオレンジ。
モーニングは愛知県では当たり前なんです。飲み物のお値段でこんなについちゃう!

花見を堪能した私たちは、お昼に予約していた和食やさん「匠ya」さんで和食ランチを頂き、帰路につきました。



お膝元、愛知(あゆち)と万葉集。

紐解けば、奥深いものなんだろうなあ、、、。

でも、奈良が私を呼んでいる、、、気がしてなりません(笑)




  

第6回万葉歌で綴る万葉の旅~風早の浦(広島県)~

2010年08月31日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
「嘆きの霧」が完成したのが、今年の4月。
以降、風早への思いが日に日にふくらみ、どうしてもこの目で遣新羅使人が船泊まりした風早を感じたくなってしまった私はついに初夏に訪れることができた。
風早は現、広島県東広島市安芸津町風早である。
深い入り江となっているここ風早は、往時、大和で妻に別れを告げ難波津を出向した使人たちが瀬戸内海沿岸に何度か船を止めながら寄港した場所である。
今に生きる私たち、特に内陸に暮らす私にとっては、瀬戸内海というと穏やかな海を想像しがちだが、過去の楽曲「妹が結びし」の時代において瀬戸内といえば、海路の難所がいくつもあり、潮流の早いことでも有名だったようだ。
数年前、岡山から対岸香川県に船で渡ったことがある。
その折にはまさに潮目が浮き立ち、渦巻くまさに神の渡りを何カ所も目にしたことが思い返される。
フェリーも無い時代の船旅。
それは手漕ぎの船でただひたすら目的地目指して荒波の中を突き進んでいくしかないのであった。

さて、風早を訪れた私がまず向かったのが、風早の高台で風早の浦を見下ろす位置にある祝詞山八幡神社である。
ここの境内には風早で歌われた万葉集をモチーフにした障壁画がそびえ立っているのだ。
大和で夫を立ち尽くし見送る妻、新羅へとむかった夫が風早で妻の嘆きの息を、そして嘆きの霧を感じる瞬間が見事に障壁画となって表されている。
何でも還暦を向かえた地元の有志によって建立されたそうだ。
その発案者が祝詞山八幡神社の宮司、富永氏であった。
今回の旅でどうしてもこの富永氏からお話がきけないものかと事前に役場に問い合わせてみたところ、この5月に逝去されたことがわかった時は言葉にならず、あふれる涙を必死になってこらえ御礼をいって電話を切るのがのが精一杯だった。
文献に言葉として残ると富永氏の風早の風土を説いてみえる文言は、万葉を愛し、風早を愛して止まない富永氏の心そのものであったことを付け加えておくことにしよう。
さて、その障壁画の隣には万葉歌碑が佇む。

風早の浦に船泊りせし夜に作る歌二首
『わが故に 妹嘆くらし風早の浦の沖辺に 霧たなびけり(3615)』

『沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が嘆きの霧に 飽かましものを(3616)』

揮毫は地元の書家によるもので、中学生にも読めるようにとわかりやすい書体で丁寧に書かれていることが、万葉の心が風早に溶けていると感じた瞬間でもあった。
ここ祝詞山八幡神社には神楽殿がある。
風早の浦が一望できるすばらしいものである。
あたりを見渡してみたが、誰もいない。私だけ。
こんなすばらしいシュチュエーション。
靴を脱いで•••••歌いました。風早の浦を遥か眼下に眺めながら。
もう途中は感無量で声にならず。
まさしく自己満足に浸っておりました。はい。
風土を感じ、そこで声に出して歌う。
歌い方は違えど犬養万葉の世界そのものだったように思います。
さて、祝詞山八幡神社を後にした私は次に、富永氏の文献に書かれていた風早の浦を一望できるビュースポットを探しに。
急な坂道を登ってく左右はみかんやビワ畑が広がっている。
ずいぶん登り、ほぼ頂上まできた時、ふりかえってみたらそこには、なんと、風早の浦が見事に広がっていた。
あの感動は今でも心に焼き付いている。
思わず「うわ~~~~~っ」と声を上げた私だった。
そこから山側の中腹に目をやると、大の字焼きでなく「万」の字焼きの痕跡が。
しっかりと「万」が読める。万葉集が詠まれた地だから「万」。
歴史は浅く平成2年にはじまったようだが、万葉の町としての町民の心意気が形となったことを知り、地元民にこれだけ大切にされている万葉故地、「風早」の現代に生きる万葉の心を感じることができ、どこかセンチメンタルになっている私であった。
宿泊先を安芸津にとった私は、早めの夕食を済ませいよいよ夜霧を待つ事にする。天気は晴れ。対岸の島影もよくみえる。
水平線に沈む美しすぎる夕日を見送り、こんな調子良く霧がでるはずもないかとあきらめていた。
ついに落日。
だんだんあたりは暮れなずむ。
すると、今迄見えていた島影だったが、だんだん下の方から白い霧に包まれているではないか!
まさか!
すると時間の経過とともにあっと言う間に島影は山の稜線がかすかに見える程度で霧に包まれていった。
まさに
「我が故(ゆえ)に妹嘆くらし 風早の浦の沖辺に 霧たなびけり」(万巻十五 三六一五)
を見た瞬間であった。

こうしてすばらしい感動に包まれ、歌を感じ、風土を感じ、遣新羅使人の心を感じた私は無事に翌日帰途についたのであった。

後日ここで詠まれた歌について語りたいと思います。


  







第5回万葉歌で綴る万葉の旅 ~玉の浦(岡山県)~

2010年07月12日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
「玉の浦」の地名を聞いて和歌山県を思い浮かべた方は、きっとずいぶんと万葉集を読んでみえるに違いないのだが、今回は岡山県の玉の浦を訪ねた。
玉の浦の所在については、岡山県の中でも玉野市であるという見方もあるのだが、万葉集の前後の並びから考察すると、ここはやはり岡山県倉敷市玉島をいうのがベストであろうと思う。
ここは瀬戸内海でも入江に位置し、背後には2~300M程の山々がそびえ深い入江となっているまさに舟泊まりには最適の場所だったに違いない。高台から玉の浦を一望すれば、往時の景色が浮かび上がってくる万葉故地である。
その舟泊まりしたであろう場所を推察してみる。
ある文献によれば柏島にある八幡神社(柏島神社)辺りを玉の浦と推定しており、ここは往時名前の如く島であった場所。
瀬戸内は大小さまざまな島が浮かび、ここ玉島も例外ではなかった。
古代の海岸線は地元の人に聞くと、現バイパスの走る辺りだったとか。
柏島には興味深い字名が残り、船宮というそうだ。
そこは現海岸線から少し入った場所。
船泊まりした場所と断定するのは尚早だが、そうした観点から故地を見つめてみるとなかなか面白い。
さて、八幡神社に登ってみる。
神社境内には木が生い茂り、残念ながら玉の浦一望とはいかなかったが、頂上にある境内までの参道にはところどころに自由句の歌碑が並び、文学の小道といったところだろうか。
遅咲きの紫陽花が彩りを沿え、梅雨に濡れた参道がまた一層初夏の雰囲気を醸し出していた。
一望できなかったからではないが、次に円通寺へと向かう。
ここは犬養孝先生が著書「万葉の旅」で写真を撮影された場所であり、どうしてもその場所が今回確認したかった。
きっと先生の「想い」を自分自身が共有したかったにちがいない。
休憩所の真下に、ちょっとした空スペースがあり、そこに立つと眼下には玉の浦が一望できる。  
「ぬばたまの 夜は明けぬらし玉の浦に あさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり」
                          巻15-3598
「玉の浦の 奥つ白玉拾へれど またそ置きつる見る人をなみ」
                          巻15-3628
「秋さらば 我が舟泊てむ忘れ貝 寄せ来て置けれ沖つ白波」
                          巻15-3629

写真の場所を探すべく、休憩所にみえた地元の方に写真を見てもらうと様々な意見がある中でお一方がきっとあちらでは・・・と教えて下さった。
その場所に立ち、約50年前の写真の中にある巨石を探してみると・・・確かにあったのである。その場所にその石が。
まさに犬養先生が立った場所であった。
巨石にそっと手を触れておいた。

古代日本各地では鶴が飛来していたであろうが、今は歌にみるような光景はもちろん見られない。
ここ玉島も干拓が進み、10年前と比べるとずいぶん海岸線を侵食して更に埋め立て用地が増えているように思う。
その上を飛んでいくアオサギを鶴に見立て、左手に見える水島工業地帯を目の中で焼き尽くせばそこには1300年前の心が甦ってくる素晴らしい万葉故地となるのである。







第4回 万葉歌で綴る万葉の旅 ~吉野・宮滝~

2010年06月09日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
AM7時に近鉄名古屋駅を出発。
途中 三重県津駅で乗り換え大和八木駅へと向かう。
集合時間の9時30分にメンバーと合流して一路吉野へ。

途中やまとびとの粋な計らいで思いがけず本薬師寺跡をみることができた。
本薬師寺といえば680年。時の天皇である天武天皇(大海人皇子)が奥さんの持統天皇の病気平癒のため発願された寺院で、今は西の京にある薬師寺の前身である。
6~7年前に一度訪れたことがあるのだが、残念ながら東西両塔の礎石と土壇を残すのみ。
しかしその整然と並べられた礎石を人目見れば誰しもが往時の薬師寺の大きさを想像できるであろう。
いつ頃からか周囲を取り囲むようにホテイアオイが楽しめ開花の時期には多くの人が訪れるそうだ。(ホテイアオイの咲く頃に一度訪れてみたいものだ)
天武・持統両天皇二人の思い出の地、宮滝へと向かう私たちにとって、この本薬師寺跡が見れたことはとても意義深いものだった。
今回の旅をプロデュースしてくれたT氏は、あえて口にはされなかったが、ホテイアオイといいつつきっとこうした筋書きを準備してくれていたんだと今になって感じている。
さて、景色はあっという間に1300年前と変わらない天の香具山を左手に、少し行くと雷丘(いかづちのおか)、甘樫丘(あまかしのおか)を右手に見る。
地名の看板を見つけ、風景が目に入ると、ここは1300年前に一気にタイムスリップ。
ああ、飛鳥だ。
久しぶりに見るその光景に、何だか懐かしさと、そして一種違った空気を感じ、独り物思いにふけってしまいそうだった。
するとすぐに左手に大好きな川原寺跡が見えてきた。
何度となく見たことのある風景。
変わらぬ景色。
新緑の飛鳥。そうだ。この季節に飛鳥を訪ねるのは初めてかもしれない。
そして更に近年、大変お世話になっているあすか風舞台が右手にみえてきた。
今年の秋はご縁があるのだろうか。そんな不安な気持ちも払拭できるほどに緑が眩しい。
いつもなら石舞台を過ぎると、飛鳥の賑わいは全く感じなくなり人影がまばらなのだが、今日は違っていた。
この日は二十四節気の芒種。
その名の如く、稲渕の棚田では飛鳥人による田植えが行われていた。
昨年音楽祭の副賞で頂いた明日香米は、ここから始まっていたんだなあ。
そんなことを思いながら、いよいよ芋峠へ。
この日は更にマラソン大会の練習を芋峠でしてみえて、普段は人っ子独り通らなさそうな狭い道路はランナーであふれかえっている。
さて、往時の歴代天皇が行幸したという吉野へはどういった道順を行ったかといろんな説があるのだが、やはりこの飛鳥を越え、芋峠越えで吉野へ直接入る経路だっただろうと思う。アップダウンと急カーブの激しい山道であるが直線距離にして500Mと最短距離である。

「み吉野の 耳我の嶺に時じくぞ 雪は降りける間なくぞ 雨は降りけるその雪の 時なきがごとその雨の 間なきがごと隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を」万葉集 巻1-25 天武天皇

訳:ここみ吉野の山に、時となく雪は降るという。絶え間なく雨は降るという。その雪の時とてないように。その雨の絶え間もないように、長い道中ずっと物思いに沈みながらやってきた。ああその山道を。

(この耳我の嶺は所在不詳となっているが、ある本にはこの耳我の嶺は芋峠を越えていく途中の山であったのではとも言われている。)

芋峠にいる自分の中でこの句がぐるぐると頭を渦巻く。天武・持統さんたちもこの地面を踏み締めながら通ったかと思うだけで、わずかに残る古道から往時の足音が聴こえてきそうだ。

途中清流が芋峠を流れ、役行者の石仏があったりと時代の移り変わりも感じながら一気に吉野へと向かった。

あっという間に吉野へ入る。
まさに1300年前には、大海人皇子(天武天皇)と鸕野讃良皇女(持統天皇)も数少ない身内のみをつれて一旦避難した宮滝へと向かう。
そして石碑「宮滝遺跡」が目の前に。
こちらも数年前に一度だけ訪れたことのある地。
足早に当時は廻ってしまったため、こんなにじっくりと行くのは格別な想いがこみ上げてくる。
斎明天皇から持統天皇、そして聖武天皇が行幸した吉野離宮。
中でも持統天皇は在位中31回と群を抜いている。
その理由はいろいろ考えられるが、今でいう桜の吉野でなく、川の吉野、山の吉野の渓谷美に中国の神仙思想を見て、神聖な聖域で降雨、止雨の祈りを捧げた場であったこと、壬申の乱を中心とした天武天皇との二人のかけがえのない思い出の場所であったことなどが何度も宮滝へ行幸した理由に考えられるようだ。私、女性の立場からすると、やはり天皇という立場であるがゆえ、壬申の乱直前に夫、天武天皇とただ二人共有できた時間を宮滝に足を運ぶことによって、唯一鸕野讃良皇女個人に戻れる空間であったのではと思うのは、ロマンチックすぎるだろうか。

さて、宮滝遺跡。
石碑から程近いところに柴橋がかかる。
ここからの景観美はまさに1300年前と同じだ。
万葉集にも何首も詠まれている吉野万葉の中心といっても過言ではないだろう。

万葉集巻6は、吉野万葉の歌から始まる。その内の反歌より。

「山高み 白木綿花に落ち激つ 滝の河内は見れど飽かぬかも」巻6-909

訳:山が高いので、白く清い木綿花となってほとばしり落ちる滝、この滝の渦巻く河内は見ても見ても見飽きることがない

「落ち激ち 流るる水の磐に触り 淀める淀に月の影見ゆ」巻9-1714

訳:落ちたぎって逆巻き流れる水が岩にあたってせき止められ、淀んでいる淀みに月の影がくっきりと映っている

今回のメンバーならきっとこれを読みながら、すぐに情景が浮かんでいると思うのだが、それくらいに今も1300年前も変わらぬ心が風景の中に生きているのが宮滝でもあった。

柴橋の袂から象山と御船山との間、いわゆる象山の際(ま)=象の中山を少しあがったところの櫻木神社に案内していただいた。
ここでは思いがけないサプライズが待っていたのだが、ここでは万葉集についてのみ述べておこう。
象の小川を隔てたところに朱塗りの本殿がある。その象の小川を渡る屋形の橋、右手に「象の小川」左手に「こぬれ橋」と書かれた石碑が。

歌のままだ。といいたいところだがまさにそれだと知ったのは帰宅途中の私だった(笑)

「み吉野の 象山の際の木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ鳥の声かも」巻6-924

木末は木の枝先のこと。訳の説明がいらない位に、律動感あふれた歌であり、その場所はこの歌の通り、鳥のさえずり、象の小川の清らかな水音だけが響き渡る素晴らしい場所であった。

「昔見し 象の小川を今見れば いよよさやけくなりにけるかも」巻3-316

訳 :昔見た象の小川を今再び見ると、流れはいよいよますますさわやかになっている(きれいな音を立てて流れているな)

犬養先生は著書(犬養孝 私の万葉百首より)の中でこの句について以下のように述べてみえる。

「皆さんが仮に吉野の象の小川のところを渡ってごらんなさい。~中略~ いよいよさやけくなりにけるかもです。~中略~ そうして思ったわれわれもこの世から消えるようでしょう。みんないなくなっちゃう。また何百年後の人も吉野へきて、やっぱり 『いよよさやけくなりにけるかも』を感じるでしょう。」と。
                          
いにしえ人もみた象の小川。ここに書かれている何百年後の人がまさに私たちだったのだ。そして同じ時を一緒に過ごし象の小川を感じたメンバーたちも自分もいつかこの世を去る。そしてまた数百年後の人が、同じ想いでここに立ち、歌を、万葉集を、いにしえ人の心を感じる。そう思えた帰路の電車の中で独り物思いにふけって、涙をこらえきれなかった。

そして次に吉野郡大淀町六田にある「柳の渡し」へとむかった。近世においては名の如く、北と南をつなぐ渡しであった場所である。六田の川、六田の淀という名で万葉集にも数首詠まれている。とある本によると、ここに弓絃葉の茂るコンコンと涌き出る泉があったという口承があるそうだ。
「いにしえに 恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡り行く」万葉集巻2-111
(意訳:昔を懐かしがって、あの弓絃葉の茂る井戸(泉)の上を鳴いていくあの鳥の名はなんというのだろうか)
この御井こそが、弓削皇子が吉野で額田王にあてて詠んだ御井(泉)と考えれるのではとあった。
そしてその反歌として額田王がこう答えている。
「いにしえに 恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし吾が念へる如」
(意訳:昔を懐かしがって鳴いていくその鳥の名はほととぎす。まるで私の心の内のように何度も何度も鳴いているわ)

吉野川沿いに走る伊勢街道の車の往来が激しいその脇で、近世建立された常夜燈が揺れる柳の下でひっそりと佇んでいる。1300年前の景色を心の中で思い浮かべると、この歌のように昔を懐かしがっているのではと思うだけで、そこには弓削皇子の心が、額田王の心が一瞬にして甦ってきた。

こうして今回の万葉の旅は、あっという間に終わりを向かえ、心とは裏腹に愛知へと帰途についた私であったことはいうまでもない。

ご一緒できた皆様に感謝申し上げます。そして今回の旅をプロデュースして下さったT氏に改めて御礼申し上げます。

吉野は私の想像を遥かに超えた万葉の心が、いにしえ人の心が根付き生きている素晴らしい故地でした。
全ての出来事に感謝。


                                  写真は「象の小川」






第3回 万葉歌で綴る万葉の旅 ~吉隠・初瀬~

2010年03月29日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
2010年3月28日。
朝7時10分、近鉄名古屋駅を出発。
途中、伊勢中川で乗り換え、一路集合場所の榛原駅に。
今回の旅もプロデュースは奈良県人であり、某会の旅。
万葉の旅と綴るのにはいささか心許無いが、みなさん心の広い方ばかりなので許していただくこととしよう。
さて、閑話休題。
榛原駅で集合した私たち一行はまず西峠古墳へ。
この古墳は宇陀地域に見られる磚槨式古墳のひとつで、7世紀中期のもの。
この宇陀地方は、万葉の時代を考える上でもその地域性に特色があり、東は名張を越えて伊勢へと繋がるいわゆる伊勢街道、東は初瀬を過ぎて難波へと、また南は宇陀を越え吉野へとつながるいわゆる八十のちまたであった交通の要所であった。
大和のみに限らず外部も意識したであろうこの磚槨式古墳の被葬者の姿をも伝わってくるようである。
西峠古墳をあとにした私たちは、吉隠陵へと向う。
いや、登る。
国道165号沿いにうっかりしていると見落としてしまいそうな看板があり、そこが入陵口となっている。
ものの1分も歩かないところから、山登りにぴったりの山道が待っていた。
周囲は誰もいないその空間は、スギ木立の中をゆっくりと歩みを進めていくと、あっという間に下界との距離を感じる。
しばらくすると道案内があり、右方向に折れるとそこに200数段ある階段が待っていた。
数日前に雨が降ったこともあり、足元は決していい状態でないところを命からがら!?登った先に階段。
こうした場所にあることが吉隠という響きと不思議としっくりくる気もした。
そんな悠長なことを考えながら、階段を登りきったところに陵墓があった。
春日宮天皇妃(志貴皇子=贈名(亡くなってから贈られた名です)春日宮天皇の妻)の陵墓とされているが、一説に奈良県宇陀郡榛原町大字角柄にあるこの吉隠陵あたりを但馬皇女墓と考えるとあり、この地を訪問することに至った。
静かに手を合わせ陵墓外域を1周したあと、下山。
時間にすれば1時間位だったんだろうか。
足元の悪い中での下りは特に大変だったが、何とか全員ケガすることなく下山できたのにはただただ感謝するのみである。
書ききれないので大変と一言で片付けてしまったが、ある意味ドラマになりそうであった(笑)
さて、吉隠陵をあとにし次は万葉歌碑探しへと向う。
隠口の泊瀬と呼ばれたこの地域は、その名の通り、「こもりく」という言葉の響きがよく似合う場所だ。
吉隠公民館とあった場所には、吉隠テレビ共同事業組合の看板が掲げられており、その前の広場、満開の桜の木の下にその歌碑はあった。
そう、ひっそりと。

「降る雪は あはにな降リそ吉隠の 猪養の岡の寒からまくに」

正面には近鉄電車が走っていくのがみえる小高い場所であった。
その後、猪養の岡と思われるところを探しに吉隠を散策。
途中、集落に住む地元の人と出会った。
何でも集落は50数件から成っているとの事。
畑のゆずも水仙もとっていって下さいね、と、気さくにそして自然に言葉を交わして下さる。心が留まる。
やまとびとって素晴らしい。
心からそう思った瞬間でもあった。
川のせせらぎ、水脈の流れを感じながら、吉隠の猪養の岡を堪能。
ずっとずっと心に描いていた吉隠。
ここで最近完成した「寒からまくに」をアカペラで歌う。
何年越かに描いていた吉隠が自分の中に広がっていった。
もう、すっかり心の隅々まで吉隠色に染まる。
ありがとう。
吉隠をあとにした私たちは、泊瀬川沿いにある万葉歌碑を訪ねる。

「人言を繁み言痛み己が世に いまだ渡らぬ朝川渡る」

探して探してようやく見つかった歌碑であった。
更に桜井方面に足を運び、万葉集発祥の地の石碑のある白山神社へ。
雄略天皇の歌碑がある。

「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子家聞かな 名告らさね そらみつ大和の国は おしなべて 我れこそ居れしきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも」

万葉集巻一の1である。

こうして今回の万葉の旅は巻一の1を持って終わりをむかえたのであった。
帰路は桜井駅から乗車した私が目にしたものは、今日訪ねた万葉故地全てといっても過言でない位に車窓から見え、またじっくりと見ることができなかった忍阪山もしっかりと目の前に飛び込んできてくれたのである。

帰り際に下さった小冊子の題名は・・・、「やまとびと」であったことを付け加えておく。







第2回 万葉歌で綴る万葉の旅 ~忍阪再訪~

2009年12月09日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
鏡王女の眠る忍坂への想い。
10月の音楽祭、11月の忍阪訪問、と自分の中での更なる忍阪への想いが募っていた。友人から頂いた入江泰吉さんの写真展のチケットも手元にあることもあり、冬が間近に迫る12月にもう一度忍阪訪問を決めてしまった。
早朝、日の出を待たず家を出発し近鉄名古屋駅を6時30分の特急電車に乗り込む。
奈良行きには定番となったこのダイヤ。
木曽三川の橋桁を超えると、伊勢湾に上る朝日が柔らかい。
今日の奈良はどんなお天気が待ってくれているんだろうか。
早くもそんなことを想いながら一路奈良へ。
まずは、入江泰吉記念奈良市写真美術館のある高畑町へ向うべく近鉄奈良駅へ。
2系統の循環バスに乗り込む。
いつも思うのだが、駅を降りてわずか5分足らずの場所に鳴鹿がいて、国宝と出会える場所って日本全国広しといえども奈良だけではないだろうか。
バスや車の姿を心の中で焼き尽くすとそこは1300年前の姿そのものだ。
そんなことを描きながら興福寺、東大寺、そして飛火野の景色を車窓から楽しんだのもつかの間、あっという間に破石町へ。
市内の地図を握り締め、高畑町の町並みを美術館に向けて歩く。
奈良格子、土塀のある町。その中に息づいている暮らし。今日はゴミの日らしい。
ここは奈良だ。
そんなことを一歩一歩踏みしめながら歩いていくと、あっという間に美術館に到着。
前を歩いたことはあったが、もちろん入館するのははじめて。
洗練された建物の中に入江さんの作品はあった。
「万葉恋文」と題した企画展。
万葉集と入江さんの写真との融合。
100点くらいだっただろうか。
その中ほど過ぎたところに鏡王女墓の写真をみつけた。
朝霧のかかるこもりくの泊瀬にひっそりとたたずむ鏡王女墓。
まるでそこに自分が立っているような感じで引き込まれる。
しばしその前から動けないでいた。

「秋山の樹の下隠り逝く水の 吾こそ益さめ御念ひよりは」

チケットを頂いた知人に心から感謝した瞬間でもあった。
左横の作品は満月の作品。そして通路隔てた右横の作品は、天平美人の眉掻の句が添えられた三日月の作品があったのも印象的だった。

「春日山 おして照らせるこの月は 妹が庭にも清(さや)けかりけり」巻7-1074
「月立ちて ただ三日月の眉根掻き 日長く恋ひし君に逢へるかも」巻6-993

開館と同時の訪問とあってさぞかし静かな館内とおもいきや、受付の方たちの雑談が館内に響き渡っていたことがただひとつ残念だった。
でも秋山の作品と出会い、そして入江さんの数々の作品と出会って後ろ髪引かれる中美術館をあとにした私は、以前に歩いたことのある新薬師寺あたりの風景がどうしてもまた見たくってあえて遠回りすることにした。
春日山だろうか、山並みに映える落葉間近の深まった色合いが奈良の景色に溶け込んでいる。
新薬師寺の鬼瓦、土塀、赤や緑、黄といった色だけの表現ではもったいない位の濡れ落ち葉、すべてが心に留まる。
途中赤穂神社の文字が。
十市皇女の葬られた地との一説がある場所だ!
「ご自由にお入り下さい」の小さな看板に引き寄せられるように木戸を開けて参拝。
実際は桜井だと思っているが、何かしらのご縁はあった地かもしれないと思うだけで遠回りしてみたことに不思議なご縁を勝手に感じてしまった。
万葉集、日本書記に読まれた場所がそこかしらにある。
ここは奈良だ。そして今自分が歩いている。そう思っただけで嬉しかった。
入江さんの見た鏡王女墓をその日の内に自分で確かめてみるべく忍阪へと向う。
そこでJR桜井線に万葉列車なるものが11月29日から走りだしたというニュースを桜井在住の知人が号外を送ってくださったので、あえてJR奈良駅へと向う。
事前に問い合わせたが1編成しかなくダイヤの確約はできなく運がよければとの事。
宝くじよりはましかなと微かな期待をかけて320円の乗車券を購入。
11時15分発の桜井行きの電車は・・・はい、通勤電車でした。
乗車後、妙なアナウンスが。
「この電車は前よりのドアしか開きません。お降りの際は・・・。」
2両編成でワンマンと書いてある。
そして私の座席横には赤い運賃箱のようなものがある。
あたりの様子を伺っていたら皆さん乗りなれているようで、降車時は前の車両に移動していった。なるほど。
ある意味いい体験となった。
更に近鉄より三輪山麓に近いところを走っていくJR線は車窓の風景も楽しめて念願の万葉列車乗車は夢と化したが、2倍のお得感があった。
鏡王女墓も一人で歩いて行く予定にしていたが、古墳の専門家である知人が急な旅であったにも関わらず午後からご一緒してくださることになり、桜井駅で待ち合わせ。正倉院展に先月行った後に持病の腰痛が悪化し激痛が走り、歩くのがやっとだった私を心配してくれて言葉にはされなかったが万障繰り合わせて下さったんだと思う。
さり気ない、そしてその深い想いにただただ頭が下がる。
そうした気遣いのできる人間になりたい。
人としての触れ合い、気遣いを大和人から教わっている。
こうして桜井駅で再会を果たした私たちは以前にその存在を教えて頂いた忍阪古墳群に向う。
向う途中、橋桁の上で車を止められた。
すると、眼下に泊瀬川の流れが。
ゆったりと流れる水脈がバックに控えるこもりくの泊瀬の山々に溶け込んでいる。
万葉集に何首と読まれている泊瀬川がそこにあった。
車を止めてくださったことに感謝。
さて、忍阪8号墳について、素人の私がここで詳細について述べるすべはないが何かしら私の好きな時代背景とかかわりのある古墳であることは間違いなさそうだ。
六角墳ならぬ六角石室を持つものはここだけだということにも特別な古墳であったことを感じる。
その痕跡である石室の一部が表面に見えており実際に触ってみると以外に温かい石だった。1300年以上も前の石。いししえ人が手に持ち想いと願いを込めて作った石室である石を自分が触れている。
まさにただの石でない「玉」となった瞬間であった。
「ここから忍阪山がよくみえますよ」の言葉に顔を上げた瞬間、「わあ~!」思わず声を上げてしまった。
見事な黄葉、紅葉。
間近に迫りくる感じすらした。
「♪こもりくの泊瀬の山 青旗の忍阪山は 走り出のよろしき山の 出で立ちのくわしき山ぞ あたらしき山の荒れまく惜しも♪」
前回の万葉の旅を終えて作ったこの曲を8号墳の上の丘陵頂上から歌わせてもらった。
感無量。
こんな旅が準備されていただなんて!
歌い終わったあとにこの場所でランチをすることにした。
8号墳横の階段に腰掛けて、黄葉のざぶとんにBGMは鳥のさえずりと木の実がコトッと落ちる音だけ。
そして、ヤマトの柿の葉寿し。古墳専門家の心配り。
また桜井のヤマトのもの。
私は7種類の味三昧(!?)という柿の葉寿しを頂き、古墳博士はさば寿しを。
この場所で柿の葉寿しだなんて。前方には多武峰の山々、少し視線を左にやると忍阪山。なんて贅沢な空間なんでしょう。
おなかも心も大満足。
そしていよいよ鏡王女墓へ。
今日は真っ先に万葉歌碑、そして王女墓へ。
王女墓へと続く緩やかな坂道には誰もいない。
2~3日前に雨が降ったのだろうか。山清水の水量が想像通り。
そして万葉歌碑にふり積もった黄葉が数枚。
その内の1枚をそっとかばんの中へ。
今日の記念、そして今年の記念に。
鏡王女、犬養先生からのプレゼントだと思っている。
山清水。かばんの中から朝自宅で入れた水道水を斜面にかけ空にしたペットボトルに汲んでみた。
手にその冷たさが伝わる。
この清水が絶ゆることなく万葉歌碑に注いでいるのだ。
ずっとこの清水をとっておこう。
この場所ではそう思っていた。
そしていよいよ鏡王女さんと再会だ。
先回同様、ひっそりと静かに佇んでいた。
今回は周囲をゆっくりと見渡すと、ここは秋も深まったこもりくの初瀬。そう思っただけで心が震えた。
鏡王女墓の前に落つる黄葉を1枚、ここでも頂いた。
一生の記念。
歌と出会い、歌われた季節に2度訪問。
こんな年は自分の中でももう出会えることのない年であろう。
そう思うと寂しくもあった。
生涯記念の年。
今年のこの歌を通じて頂いた全てのご縁に感謝したのであった。
その後、大伴皇女墓、舒明天皇陵を参拝し、大和朝倉駅をあとにしたのが14時54分。
三輪山麓の紅葉が美しかった。
榛原、名張で乗り換え特急に乗り込んだ瞬間、押さえられない気持ちが噴出した。
ペットボトルの山清水。
飲料。
甘くってちょっぴり切ない味がした。


第1回 万葉歌で綴る万葉の旅 ~山の辺の道から忍阪へ~ 後編(忍阪)

2009年11月15日 | 万葉歌で綴る万葉の旅
仏教伝来の地を後にした私たちは次の目的地、粟原寺跡へと移動。
粟原の集落へ入ったところで車を止めて徒歩にて粟原寺跡へと向かう。
集落を貫く小川のせせらぎの水は清くとても澄んでいる。
家並みも昭和の香りが残った集落が多く何とも歩いているだけで懐かしい気持ちにさせてくれる場所だ。
色づいた木々の木洩れ日の差込む坂道を登りきった小高い丘上にそれはあった。
礎石が無造作に置いてあり、伽藍配置を確認することは難しいが寺の創建は次のようである。
中臣大嶋(なかとみのおおしま)が草壁皇子(天武天皇と持統天皇の息子)の冥福を祈って寺院の建立を発願。その後、大嶋の遺志を継いだ比売朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が持続天皇8年(694年)から造営を始め、和銅8年(715)までに伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成。その後三重塔も建立されたようだ。
この比売朝臣額田こそ額田王ではないかという一説もあり、その由縁で額田王の終焉の地ではないかとも言われている。
いずれにせよこの場所は天武・持統朝抜きでは語れないことは事実のようだ。
この場所に万葉歌碑が1基。

古に恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡り行く 巻2-111 弓削皇子

古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし吾が思へる如 巻2-112 額田王

意訳:弓削皇子  昔を懐かしがってあのゆずるはの茂る井戸の上を鳴いていくあの鳥の名は何というのでしょうか。
   額田王   昔を懐かしがって鳴いているあの鳥の名はほととぎす。まるで私の心の内のように何度も何度も鳴いているわ。

この歌は弓削皇子、額田王ともに中国 蜀王の伝説に基づいた歌であるとも言われており、互いがほととぎすということを知っていて歌詠みをしたといわれている。
額田王の晩年の句といわれているので、この場所にこの句の歌碑があるというのはしっくりくる。

礎石には秋山からこぼれ落ちた色づいた葉がしっとりと降り注ぎ、礎石をあたかも隠しているようにも思え、思わず手で払ってみた。
礎石にこめられた思い。1350年前に一機にタイムスリップした瞬間でもあった。
粟原寺跡は想像以上に美しく、そして次の目的地である忍阪へいくにはここ抜きでは考えられない場所であったことがわかり、ご案内いただいたT氏にただただ感謝する私だった。
昼食は柿の葉寿しを準備して下さっていた。
いつも飛鳥から愛知へ帰る際、桜井にある「ヤマトの柿の葉寿し」で購入するものと同じ場所、同じもの。
そしてまたこのヤマトの柿の葉寿しに、とあるご縁があったことがわかり更に感動。
柿の葉寿しのお味はいつものようにとっても優しかった。
大和には不思議なご縁がたくさんある。
普段の柿の葉寿し以上にさまざまな思いを感じながら頂いた昼食は格別であった。

昼食を済ませた私たちはまず石位寺へ向かう。
予約時間に併せ更なるお仲間との合流の13時を過ぎていた私たちは足早に。
それが何だか嬉しかった。
万葉集に歌われている忍阪を今、自分が歩いている。
Tさんの背中を追いながらそんなことを考えていた。
石位寺に到着するとすでに今回ご案内頂ける地元の役員の方と、合流する予定のお仲間たちが待っていて下さった。
早速拝観へ。
石位寺にある石仏は元栗原寺にあり、栗原川氾濫で流されてここにたどりついた、白鳳時代の薬師三尊であると伝えられている。我が国に現存する最古の石仏で国の重要文化財の指定を受けている。
天蓋を持つ丸みを帯びた顔立ちである石仏は、朱がかすかに残る部分も裸眼で確認できる。
地元の方々によって現存する最古の石仏として守られるいるというところにも忍阪の思いを感じることができた。
次に向かったのは舒明天皇陵。
上八角下方墳で3段築成の方形壇の上に2段築成のわが国初の八角墳が築かれているという墳丘からなる。
古墳の専門家とご一緒だったため説明を受けその八角墳の痕跡を確認できた。
(これは自分だけの訪問ならただ手を合わせて帰っていくだけだった)
天智、天武、そして間人皇女の父である舒明天皇。
何だか日本書紀のページを開いているような気がしたのは私だけではなかったかもしれない。
その舒明天皇陵を右手にあがっていくと今回の最大の目的地、鏡王女の万葉歌碑が秋山の樹の下をひっそり静かに流れているところにあった。

「秋山の樹の下隠り逝く水の 吾こそ益さめ御思ひよりは」 巻1-92 鏡王女

意訳:秋山の樹の下を静かに深く流れる山清水の如く、あなたが思っている以上に私は深くあなたのことを思っています。この山清水は私の心そのものなのです。

今回訪れたのが11月5日。37年前のこの日、ここに犬養孝先生が立っておられた。
この万葉歌碑が建立された日である。
同じ場所に立っている。もうそう思っただけで感無量だった。
そこで「秋山の樹の下隠り」の万葉歌を同行した方から促されてアカペラで歌わせて頂いた。
この曲を作ってからずっとずっと思い描いていた日であった。
でも鏡王女は代弁ともいえるこの歌を望んでいたのだろうか。
この内容で納得していただけたんだろうか。
そんなことを帰宅してから更に自問自答しているが、いまだ答えは見つからない・・・。

そしてその左前方にみえる鏡王女墓へ。
そこはすでに松の木は立ち枯れ愛読書に掲載されていた写真のおもかげすらなかったが、この下に眠る鏡王女と会えた気がしてならなかった。
見上げてみると常緑樹から木洩れ日が差し込みひっそりとそして静かな場所であった。
万葉歌碑、鏡王女墓ともにそこはまさに鏡王女そのものであった。

こうして終わりを向えた今回の万葉の旅。
ここで終わることなく、2回、3回つなげていきたいと思っている。

今回ご一緒できたみなさまに感謝申し上げます。