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病・痛みには信心は通用せぬか?

2021年12月03日 | 仏法
「痛みはすべてを奪う」・・・という言葉に釘付けとなる。
ある人のブログの言葉です。かれは念仏者です。「なむあみだぶつ」の行者です。
信心にては、病の苦しみ痛みを取り除くことはできません。「信心を揺るがすほどの<痛み>が起きることも事実である」・・・「痛みはすべてを奪うゆえに私は「病床六尺」の子規のようにとにかく痛みを除いてほしいと泣き言ばかりになっていく・・・南無阿弥陀仏」と。

子規は結核を病み、脊髄カリエスとなり晩年は床に就いてその痛みに呻吟しました。
ブログの人は老年となり背に激痛が走るようになりキーボドも打てないようになっての思いです。
念仏しても痛みを除いてくれない・・・だからなむあみだぶつに意味がない・・・ということでは断然ありません。
子規はまた「悟るとは平気で死んでいくことではない。平気で生きていくことだ」とも言っている。お念仏の教えはこれとも違います。平気で死んでいくことは如来に背いているのでは・・・という。病に泣いて痛みにうめく。そして死にたくないと言って死んでいったらよい。阿弥陀様に自分丸出しの煩悩で{南無}(おまかせします)していけばよい。こんな「ひと」を目当てに願を立て、摂取して救ってくださるのだから。なむあみだぶつ