竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

馬といて炭馬のこと語るもよし   兜太

2018-07-08 | 金子兜太鑑賞
馬といて炭馬のこと語るもよし   兜太




平成13年、「東国抄」より。

蛇笏賞の「東国抄」より。
あとがきに、じぶんのいのちの原点である秩父の山河、
その産土の時空を、
心身込めて受け止めようと努めるようになった・・・とある。
みやびより大地にどっしり根ざしたものをと言うのが
兜太さんの作句姿勢なのである。
季語は「炭馬」の炭から、冬であろう。
それにしても、「馬といて炭馬のこと語るもよし」とは、
読んで、なんと力みのない、
大かさであろうか。味わい深い。
「馬といて」の馬とは、今日では競走馬とか、観光馬なのかもしれない。
馬の傍で、昔の炭馬の話をしようというもの。
炭馬とは炭を運ぶ馬のこと、
人がその馬の手綱を引き、馬と共に歩くのである。
人間と馬の、素朴な心通わせる関係があり、
それを思い出して「語るもよし」という、
そこには穏やかな産土の時空がある。しみじみとする句である。
「炭馬」という澄んだ響きも良いなあって思う。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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谷間谷間に万作が咲く荒凡夫  兜太

2018-07-07 | 金子兜太鑑賞
谷間谷間に万作が咲く荒凡夫  兜太



昭和56年、「遊牧集」より。

兜太さんは49年に日銀を退職され、その後熊谷に居を構えておられます。
そして、もっとも秩父の山深いところに山荘を持っておられます。
長年海程の俳句練成は、
その山荘の近くにある民宿を借りて行われてきました。
初めて俳句練成句会に(海程では俳句道場と言っています)行きまして、
兜太さんの山荘を見た時、私は大変感銘しました。
山道を歩いていてその前を通っていたのに
山荘があると分ららず後で人に聞き見上げたら山荘があった。
山の斜面に寄り添うように、溶け込むように、
その小さな山荘は秩父の山に渾然と建っていました
土着性を大切にされる兜太さんらしい山荘でした。

さて、掲句ですが、秩父はまことに山深い。
山と山の襞、谷間谷間に村落がある。
そして、山の春は満作の咲くことから始まるのである。
飯田蛇笏さんの住まわれた甲斐の国も熱さ寒さの厳しい所であるが、
秩父も甲斐に負け天候の厳しい所である。
「荒凡夫」は「あらぼんぷ」と読む。
凡夫とは字の如く普通の人間という意味。
親に「与太」って言われている自分でも、
俳句のこととなると血気があがる、荒々しいと自認するのであろう、
よく自分は荒凡夫だと、兜太さんは言われる。
掲句は早春の万作の咲くのを眺めながら、
まこと自分は荒凡夫だなあと思う、というものだろう。
「万作」に作者のどんな思いが込められているのであろうか。
万作は梅や桜のように香しく華やかな花ではない。
べろべろと噴出したような黄色い花らしくない花である
しかし、その万作が咲くと春がやってくる、
春を告げる花なのである。
そして「豊年満作」という言葉があるように、
豊かな実りへの祈りのような、そんな万作の、
荒凡夫でありたいと作者は思っているのではなかろうか。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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食べ残された西瓜の赤さ蜻蛉の谷   兜太

2018-07-06 | 金子兜太鑑賞
食べ残された西瓜の赤さ蜻蛉の谷   兜太




昭和57年、「猪羊集」より。

「食べ残された西瓜の赤さ」から
人はどんなことを思うのだろうか? 
わたしは、すぐに贅沢な食べ方って思う。
真ん中の甘いところだけ食べるのだから。
西瓜は中心ほど甘く、周りに行くほど水っぽくなる。
そのことと「蜻蛉の谷」の配合である。
子どもが小さい頃は
毎年のように8月は尾瀬に出かけていた。
尾瀬にも蜻蛉を見かけるが、
尾瀬を出て片品村の渓谷に見る蜻蛉の群れは
まことに美しく今でも鮮明に思い出す。
特に、日の出後のまだ日が高く上がらない頃の、
朝日に、羽根を透かせる蜻蛉の群れは
きらきらとまことに美しい。
句の景は、食べ残されたまだ赤いところのある西瓜を
脇に蜻蛉の群れる渓谷の村に作者は座しているのであろう。
眼前の美しい、渓谷の蜻蛉の群れを作者は贅沢に思ったのではないだろうか。
その贅沢感も「食べ残しの西瓜の赤さ」というのが
兜太さんらしい、生活感にあふれた言葉である。
晩夏の、濃い緑と赤のコントラストが、くっきりとこころに残る、
色彩の効いた句である。
ちなみに私は西瓜は赤い所がなくなるまできれいに食べます。
甘いところから、
だんだん水っぽくなってさっぱりと食べ終われるので、
甘いところだけ
ですと口に甘さが残る感じで好きではない。
さっぱり食べ終わりたいので、最後まで食べます。


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遠い日向を妻が横切りわれ眠る   兜太

2018-07-05 | 金子兜太鑑賞
 遠い日向を妻が横切りわれ眠る   兜太

昭和36年、「金子兜太句集」より



作者が目覚めた時は日がすでに高く上って、
妻が明るい日差しの中で立ち働いているのが
襖の少し開いた隙間から見えたのではないだろうか、
そんな景がまず浮かんでくる。
その景を描いた上に、もう一度この句を読んでみると、
「遠い」「横切る」という言葉が
どういう心象で使われたのか考えてしまう。
そこには、作者の妻に対するものや、家庭、家族というものに、
対する視線というか関係が伺えるように思う。
昭和36年と言えば作者が俳句結社「海程」を創刊した年である。
そして、現代俳句協会が分列して俳人協会が発足したのもこの頃である。
前衛俳句の旗幟として、
多くの俳人と俳句論を夜を徹して話し合うことも度々であったことだろう。
日中に眠っている、頭の中は俳句のことでいっぱいなのである。
「遠い日向を妻が横切り」からして、
作者の頭には、妻や家庭はいま遠いのかもしれない、
でも、全く離れて断絶しているのではない関係が
「横切る」から伺うことができる。
どんなに俳句にのめり込んでも、作者にとって、
妻のいる家庭は「日向」なのである。
その日向を懐に抱いて作者は眠り、俳句にのめりこむのである。



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桐の花遺偈に粥の染みすこし   兜太

2018-07-04 | 金子兜太鑑賞
桐の花遺偈(ゆいげ)に粥の染みすこし   兜太




昭和61年、「皆之」より

間もなく桐の花が咲くであろう、
私の好きで憬れる花である。
「遺偈に粥の染みすこし」に
「桐の花」という季語をを配合したという、
兜太さんにはめずらしいオーソドックスな作りである。
こうした場合、その季語の働きが問題である。
読み手が、桐の花の季語によって
一層「遺偈に粥の染みすこし」という感受を大きくしている
とき季語が働いていることになる。
「遺偈に粥の染みすこし」とは故人となった人の、
般若心経の経文に粥のあとがすこし残っている、
それを詠んでいるのだと思う。
遺偈は般若心経であろうと解釈した。
粥は故人がどのくらい患ったか知れないが、
病気で療養していたのであろう。
桐の木は高木である。
そしてその花は、初夏の爽やかな空に映え、
紫の花房は新緑の山にも映えて眩しい。
私は、桐の花で、遺偈の粥の染みというものが昇華されて
季語として働いているように思う。
「遺偈」ゆいげという言葉のひびきに
兜太さんらしい太い響きがあるように思うが、
一句としては静かなオーソドックスな抒情の句で、
こいう句も兜太さんにあることに
私としては一層信頼ができる感じです。


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乳房四房がいかにも不思議乳牛諸姉  兜太

2018-07-03 | 金子兜太鑑賞
 
乳房四房がいかにも不思議乳牛諸姉  兜太




昭和61年、「皆之」より。

これは搾乳の様子を見て作られたのであろう。
兜太さんの山小屋のある近くにはたしか牧場があったと思う。
一頭の乳牛にいくらぐらい乳が摂れるのであろうか?
本当に勢いよく乳が搾られているのを見たことがある。
その搾乳を「いかにも不思議」とは、まったくその通りで、
ここには詩的操作が施されていない。
「乳房四房がいかにも不思議」というフレーズからは、
乳牛に対するそこはかとした哀切感がある。
下五に、「乳牛諸姉」という、
私はここに惹かれた。
作者は乳牛に諸姉といかにも親しく人間の尊称で、
呼びかけているのである。
そこには乳牛に対する作者の温かい眼差しがある。
その温かさは「いかにも不思議」という
生な言葉からも醸し出されてくる。
この句には季語が無い。
しかし、一句から私は、早春のつんと立ち上がってくる感じ、
乳房感があるように思う。
産土の乳牛の豊かな温みと早春の感傷を感じさせてくれる。



参照  http://www.shuu.org/newpage24.htm
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砂漠かなコンサートホールにかなかな 兜太

2018-07-02 | 金子兜太鑑賞
砂漠かなコンサートホールにかなかな 兜太




昭和61年、「皆之」より

砂漠、コンサートホール、かなかな、
まったく異質なものが並んでいる。
砂漠といえば、植物の生えてない、
文明社会の入れない砂と空と星と月と太陽の世界。
作者はコンサートへ出かけたのではないか。
開演前、席に着いて待っているのであろう。
薄暗く、天井に小さな照明が星のようで、
消音の効いた、コンサートホールは、
どこか砂漠感があるのだと思う。
間もなく、弦楽器の調律で音が聞こえてきた、まるでかなかなと、
ヒグラシを聞くようだ。
っという景をこの句から描いた。
下の「かなかな」が楽しい。開演前の気分の高揚もあるだろうが、
「砂漠かな・・・かなかな」というところなど、
ちょっとふざけているのかもしれない。
しかし、大変感覚のきいた句である。
生き様を句にしたものではない、だが、
作者の研ぎ澄まされた感性がとてもよく出ているのではないか。
兜太さんの句は重く深く大きくという感じで、
太い神経を思ってしまうが、それは違うのであろう。
掲句は、繊細な感覚の句でありながら、滑稽な面もある、
面白い句だと思いました。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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富士二日見えず遠流の富士おもう   兜太

2018-07-01 | 金子兜太鑑賞
 
富士二日見えず遠流の富士おもう   兜太




昭和56年、「遊牧集」より

富士二日見えず、とは、富士山の見えるところに来ていて、
二日目になっても富士山が見えないというのであろうか。
雨天なのか、富士五湖あたりでは
雨でなくても霧が出れば富士山は見えない。
日本人にとって富士山とは何であろうか、
雪を頂きに被り雄大な、裾広がりの山容はいつ、どこで見ても、
ああと溜息が出るほどに、
いつ見ても感動するものである。
日本人の心栄え、精神のようなものだとおもう。
富士山の見えるところで富士山が見えない。
遠流とは重い流罪のことである。
遠流の人もこの富士を見ることを夢見たのであろう。
自分も見たかったなあ・・・
二日間も見えないと、
こんな霧深く思想の闇に入って、
作者自身が遠流しいるような、
それに同情するような気持ちになっているのであろうか。
あまり、よく分からない句であった。

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樫の木の真顔と冬の光かな  兜太

2018-06-30 | 金子兜太鑑賞
樫の木の真顔と冬の光かな  兜太




平成13年、「東国抄」より。

樫の木は高い、
どんぐりでも落ちていなければ、
ふつう見上げることも無い、
古風な地味な木である。
樫の木に冬日が当っている、
その前に作者は立っている。
樫木は冬の厳しさに耐えているんだろう、真顔をしているなあ、
と作者は思っている、
その樫木に暖かな冬日が降り注いでいる。
その冬日の有難さよと、
樫の木と作者と冬日の交感、
そしてこの句を読む私もそこに加わって、
すこし厳かな気分を享受する。



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夏の山国母老いてわれを与太と言う 兜太

2018-06-29 | 金子兜太鑑賞
夏の山国母老いてわれを与太と言う 兜太




昭和61年、「皆之(みなの)」より

与太というのは愚か者と言う意味。
兜太さんの父君は医者でありながら
伊昔紅という俳人でもあった。
碧梧桐系に属していたと聞く。
幼少の頃に家で村人を集めて、よく句会が開かれたらしい。
そして、句会のあとはきまって酒を飲み、
句をだしに喧嘩になったと聞く。
幼少のその頃から、
お母さんに「俳句だけはやってはダメだ、
あれは与太のやることだからね」と言われていたと言う。

(「二度生きる」より)
兜太さんの母君はいまもご健在と聞いている。
兜太さんが82歳でいらっしゃるから、
母君では、すでに100歳を越えられていることであろう。
この句を作られた時でも、
80歳は越えていられたと思う。
そのお母さんが兜太さんへ「与太、与太」と呼ぶと言うのだから
まったく愉快、豪快な話である。
それをまた、こうして一句にする、作者も豪快である。
「われを与太と言う」には
母君の、歳をとっても子どもに負けていない、自尊がある。
その元気のいい母君が
与太」と呼ぶのを、
兜太さんはとても爽快に思っているのである。
それが「夏の山国」によく出てい

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http://www.shuu.org/newpage24.htm
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鮎食うて旅の終わりの日向ある  兜太

2018-06-28 | 金子兜太鑑賞
鮎食うて旅の終わりの日向ある  兜太





昭和57年、「猪羊集」より。

鮎は清流に住む魚なので、
ここの旅というのは、山に深く入っていたのであろう。
その旅の終わりの一句なのである。
鮎は、その旅先を暗示するものであるだけでなくて
その旅の心象すらもうまく託してあるように思う。
鮎はマグロなどと違って白身の魚であり
淡白で、
そして香りのある魚である。
とてもいい旅だったのではないだろうか。
鮎は夏の魚であるから、その日向はくっきりと濃い日差しである。
兜太さんは、心地よいいい旅をした果てに鮎を食べながら、
日向のくっきとした自分の影を見ながら、憮然としているのである。
ただ、ふつう、こうした場合「
鮎食うて旅の終わりの日向かな」となるのではないだろうか。
「日向ある」とはちょっと奇妙な締めようである。
「る」の発音は内にこもり、外に発散しない。
そこに、私は、旅の終わりの「ああ、
終わってしまったなあ」という作者の鬱を読む。
俳句は一句屹立、
自分から切り離して句にするのが従来の
作法であるかも知れないけれど、
兜太さんの場合は個のありようをそのまま、
ありのまま句に放下して、
それを読んでくれる人と共有するのである。
「旅の終わりはそんなもんだ、
同情するよ」と言ってもらいたいのである。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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廃墟という空き地に出ればみな和らぐ 兜太

2018-06-27 | 金子兜太鑑賞
廃墟という空き地に出ればみな和らぐ 兜太



昭和52年、「旅次抄録」より。

ニューヨークのテロ、9.11で起きた廃墟を思って、
この句を取り上げてみた。
その一区画は大きな空き地になっているようだ。
さて、掲句では、「みな和らぐ」とある、
これはどういうことであろうか???

ニューヨークの廃墟はまだ生々しい空き地のようだが、
そうした、廃墟の跡に立った時、
人間は何を考えるのであろうか。
ニューヨークの崩壊はテロのよってなされたので、
許すまじテロの声が湧き上がったようだけれど、
それだけだろうか?

ちょっと冷静になった時に、
この廃墟へ突っ走ったその衝動というか時代の流れから、
少し身を逸らして原点と言うか、
古き良きものを思うのではないだろうか。
いま、アメリカでもそんな動きがあると「新日曜美術館」で、
古きよき時代のアメリカの日常生活を絵にした、
ノーマン・ロックウェル展がとても人気だと、
静かなブームになっている、と報じていた。
ブッシュ大統領のアフガン報復戦争は
多くのアメリカ人の声ではないのではないだろうか。
多くのアメリカ人はちょっと古い、
素朴な生活を思い出して、
ある一面は和らいでいるのではないだろうか。
第二次世界大戦のあと、
日本でも、国中、廃墟の空き地になったわけだけれど、
みんなある面、和らいだのではないか。
軍事社会の抑圧から放たれてやっと自由になったと、
ほっとしたのではないだろうか。
「みな和らぐ」に一瞬戸惑ってしまったが、
こうして考えてみると、なるほ
どと納得します。

参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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死火山に煙なく不思議なき入浴 兜太

2018-06-24 | 金子兜太鑑賞
 
死火山に煙なく不思議なき入浴 兜太




昭和47年、「暗緑地誌」より

これは無季の句ですね。
どこで詠まれたのか分らないが、
「死火山に煙なく」というのだからどこか
温泉に来ているのではないか。
露天風呂に入っての感慨のように思う。
無季だが、死火山という荒涼とした言葉の景から、
木々は落葉し裸木を想像します。
冬季ではないか、荒涼とした露天風呂に入りながら、
ふと、戦地の露天風呂を思い出しているのではないだろうか。
「煙なく」は、戦場の合図の「狼煙」をふと思い出しているのだと思う。
「不思議なき入浴」が意味が深い。
「不思議な入浴」であれば、戦時中をまだ引きずっていることになる。
「不思議なき」では、すでにその記憶は生々しいせん痛ではないが、
疼痛のようにじわじわ想い出すのであろう。
「不思議なき」に戦後27年間が込められているように思う。
温泉に来て、露天風呂に入ってもそれにどこか酔いきれない、
兜太さんの悲しみが伝わってくる句である。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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れんぎょうに巨鯨の影の月日かな 兜太

2018-06-23 | 金子兜太鑑賞
れんぎょうに巨鯨の影の月日かな 兜太





昭和61年、「皆野」から。

京都旅行の最後に京都現代美術館の山口薫の絵を見てきた。
その中に「廃船と菜の花畑」という絵があった。
大きなキャンバスはほとんど黒に塗りつぶされていた。
その絵の脇に山口薫の言葉かな?詩かな?があった。

  なぜか泣きたいような日がある
  私は生きているということがかなしくなる
  それにもかかわらず
  私は生きている中は
  生きなければならない
  何故

兜太さんの掲句を読んで、
山口薫の絵と言葉をなぜか思い出した。
山口は菜の花にあのむせかえる薫りからだろうか、
生きていくことの息苦しさを感じたのであろう。

一方、兜太さんはれんぎょうに何を感じるのであろうか。
連翹も菜の花と変わらぬ鮮烈な黄色の花だ。
「れんぎょう」と「巨鯨の影」の配合からは
山口の絵とは反対に、ひどく生々しい揺らぎをわたしは感じる。
れんぎょうの燃える黄色に巨鯨の影とは鮮やかである。

れんぎょうは大地性、
巨鯨は理想を求めるというとこのメタファーなのではないか。
兜太さんは大正8年生まれだから、この歳、67歳である。

この句は兜太さんの半生の境涯句なのかもしれない。
生きて戦後を迎え、日銀で労組に燃え、
潜心し、前衛俳句の旗頭となり、
それに挫折し、そしてみごとに再生した。
れんぎょうの眩しみのなかに
その歳月を生々しく思いだしているのではないか。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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大頭の黒蟻西行の野糞 兜太

2018-06-22 | 金子兜太鑑賞
 
大頭の黒蟻西行の野糞 兜太




昭和52年、「旅次抄録」より

前書きに「河内弘川寺」とある。
弘川寺のある葛城山は西行の領地であり、
弘川寺は西行ゆかりの寺として有名である。
そこに吟行にでも行かれたのでしょうか。
黒蟻が大きな塊になって、
真っ黒くて、まるで大きな頭のようになって群れているのを
作者は見たのでしょう。
その黒蟻が群れているのは、
西行が垂れた野糞に群れているのだ言っている。
野糞は必然的な排泄物であり、どこかユーモラスで温かい。
そこには兜太さん流の西行への親しみ、
蟻への温かくてユーモラスな眼差しがあると思うのです。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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