お大師さまの お師匠さま
天野 高雄
高野山は平成二十七年に開創千二百年記念法会を行います。お大師さまが唐から法を持ち帰られ、高野山をお開きになってから千二百年になります。
毎日、南無大師遍照金剛と拝ませていただき、今何を伝えなくてはいけないかということをよく考えます。あまりに偉大で当たり前になりすぎたお大師さまのご遺徳を、どのようにお話しすればよいかと思い、今一度、開創ということを考えてみました。お山を開かれたときの情熱、またどのような決意を持って中国へ渡られ、最大のお師匠さまである恵果和尚(けいかかしょう)に出会われ戻ってこられた部分を、もう一度若い僧侶の立場で見つめなおしたいと思い、いろいろな資料に目を通させていただきました。
恵果和尚は中国の方で、当時真言宗の法を持っておられた最大の僧でした。お大師さまは、この法が今の日本には必要だからぜひ現地へ行って学びたいという指針を立てられ、遣唐使船に乗り込みます。遣唐使船での航海は本当に命がけでしたが、お大師さまは決意を秘めて、苦労のもと赤岸鎮に着きました。そして二千四百キロ歩いて西安に到着します。
会えるかどうかわからない恵果和尚のもとを訪ね門を叩くと、和尚は一目でお大師さまのすばらしさを見抜かれて灌頂の壇へ案内します。それから誠心誠意を尽くされて何カ月もかかってすべての大法を授けました。そして、早く帰って東の国へこの法を広めるよう伝えると、精根尽き果てて永眠されました。
一番弟子となったお大師さまは残ってすべてのことをやっていかなければなりません。いろいろな悩みを持ちながら、恵果和尚が亡くなられた夜に瞑想にふけります。そしてこのとき、うかつにもうとうとしてしまいました。その夢枕に恵果和尚が現れます。「あなたと私は永遠に繋がれた鎖を持ってここまで来ました。何度も出会い、離れてはまた出会いを繰り返し、今最高の出会いがあるのです。この別れをそんなに悲しまなくてもよろしい。私は今あなたの師匠です。しかし、今度は私が東の国に先に戻って、生まれ変わってあなたの弟子となります」と言って姿を消しました。
そのときお大師さまは心を決めて最後の船に乗ります。その後しばらくして遣唐使の廃止が決まりますから、その船に乗っていなければ今の我々の貴いみ教えはなかったのです。
そして気付かなければならないのは、師匠が弟子に向かって「あなたの弟子になる」と言うことです。これは親子においても、教師と生徒においても言えることではないかと思います。生んでやった、してやったという次元ではありません。
今日の前にいる子や孫は自分の父母だったかもしれない、師匠だったかもしれない、そう思って誠心誠意子どもたちを尊敬して接したならば、教育の状態も少し良くなるのではないでしょうか。学校の先生たちが、この子の生徒、この子の子になるという気持ちで思いを注がれたら、きっと良くなると思うのです。
▽筆者は岡山県倉敷市 高蔵寺の住職です。
本多碩峯 参与 77001-0042288-000