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生かせ いのち  お大師さまの お師匠さま

2012-06-11 20:33:00 | 高野山
 

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お大師さまの お師匠さま

  天野 高雄

  高野山は平成二十七年に開創千二百年記念法会を行います。お大師さまが唐から法を持ち帰られ、高野山をお開きになってから千二百年になります。

  毎日、南無大師遍照金剛と拝ませていただき、今何を伝えなくてはいけないかということをよく考えます。あまりに偉大で当たり前になりすぎたお大師さまのご遺徳を、どのようにお話しすればよいかと思い、今一度、開創ということを考えてみました。お山を開かれたときの情熱、またどのような決意を持って中国へ渡られ、最大のお師匠さまである恵果和尚(けいかかしょう)に出会われ戻ってこられた部分を、もう一度若い僧侶の立場で見つめなおしたいと思い、いろいろな資料に目を通させていただきました。

  恵果和尚は中国の方で、当時真言宗の法を持っておられた最大の僧でした。お大師さまは、この法が今の日本には必要だからぜひ現地へ行って学びたいという指針を立てられ、遣唐使船に乗り込みます。遣唐使船での航海は本当に命がけでしたが、お大師さまは決意を秘めて、苦労のもと赤岸鎮に着きました。そして二千四百キロ歩いて西安に到着します。

  会えるかどうかわからない恵果和尚のもとを訪ね門を叩くと、和尚は一目でお大師さまのすばらしさを見抜かれて灌頂の壇へ案内します。それから誠心誠意を尽くされて何カ月もかかってすべての大法を授けました。そして、早く帰って東の国へこの法を広めるよう伝えると、精根尽き果てて永眠されました。

 一番弟子となったお大師さまは残ってすべてのことをやっていかなければなりません。いろいろな悩みを持ちながら、恵果和尚が亡くなられた夜に瞑想にふけります。そしてこのとき、うかつにもうとうとしてしまいました。その夢枕に恵果和尚が現れます。「あなたと私は永遠に繋がれた鎖を持ってここまで来ました。何度も出会い、離れてはまた出会いを繰り返し、今最高の出会いがあるのです。この別れをそんなに悲しまなくてもよろしい。私は今あなたの師匠です。しかし、今度は私が東の国に先に戻って、生まれ変わってあなたの弟子となります」と言って姿を消しました。

  そのときお大師さまは心を決めて最後の船に乗ります。その後しばらくして遣唐使の廃止が決まりますから、その船に乗っていなければ今の我々の貴いみ教えはなかったのです。

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  そして気付かなければならないのは、師匠が弟子に向かって「あなたの弟子になる」と言うことです。これは親子においても、教師と生徒においても言えることではないかと思います。生んでやった、してやったという次元ではありません。

 今日の前にいる子や孫は自分の父母だったかもしれない、師匠だったかもしれない、そう思って誠心誠意子どもたちを尊敬して接したならば、教育の状態も少し良くなるのではないでしょうか。学校の先生たちが、この子の生徒、この子の子になるという気持ちで思いを注がれたら、きっと良くなると思うのです。

 ▽筆者は岡山県倉敷市 高蔵寺の住職です。

本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 




いのり ― 生かせいのち ―

2012-06-11 17:22:36 | 高野山 座主
 

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いのりー生かせいのち

 

高野山真言宗管長

 総本山金剛峯寺座主 松長有慶

 三、現世の御利益(その2

  知識人はややもすれば、現世利益の信仰を軽蔑したり、椰揄したりしがちです。知識人といわれる方々は、どちらかといえば合理的なものしか認めようとしません。

  福島の原発事故以来、パワー・スポットという言葉は放射能の残存値の高い地域を指すようになりました。でもそれまでは、何かご利益のありそうな気配のする土地という意味を持った流行語でした。

  このパワー・スポットブームは、大勢の人びとが集まるから、自分も後れじとそこに出かけて癒されたいという虫のよい願望でもあります。自分は努力せずに、他からパワーだけを頂戴して、ご利益を得たいというパワー・スポット現象は、心が貧しくなるプワー・スポットだと椰揄する漫画(久米田康治『さよなら絶望先生』)も現れました。

  確かに流行のパワー・スポットブームは神仏に対する真剣な祈りというよりも、あまり努力をせずに濡れ手に粟をつかむように、自分だけ幸福になりたいと願う現代の若者の遊びの一種ともいえましょう。

  お大師さまにある時、地方のある高官から、自分の治める国が栄え、人々が幸せに暮らせるようにお祈りしていただきたいという依頼があったようです。それに対してお大師さまがどのように返事されたか、その内容を知ることができます(『定本弘法大師全集』第七巻 二四八-二五一頁)。

  それを要約すれば「よろしい。お引きうけしましょう。だが頼みっぱなしでは駄目ですよ。来月の二日から八日までの一週間、私は息災の法を修します。その間あなたは勿論あなたの治める国の役人もみんな精進潔斎して、国内の殺生を一切禁止して諸仏に対して一心に祈ってください。あなたの祈りの心と私の祈りが一つになった時に初めてあなたの願いが叶えられるでしょう。そうでなければ、いたずらにお金を使ってご祈祷しても、なんら御利益を得られませんよ。」と書かれてあります。

  その他にもお大師さまが同じような考えを述べられ文章や手紙がいくつか残されています。

  祈りというものは、いくらお金を積んでも、お坊さんに頼みっぱなしにして、ご本人は知らぬ顔をしていては駄目で、自分が身を引きしめ、行動を正し、ともに神仏に祈らねば効果はないと、お大師さまが考えておられたとみていいでしょう。

  現世利益のお祈りであっても、祈る人が自分の行動を慎み、必死になって祈り続けるその真摯な心が、やがて大宇宙のエネルギーを動かし、神さまや仏さまの心に届いて、願った結果を招来することは当然のことです。

  何がしかのお賽銭を投げ入れて、形式的に手を合わせたり、拍手を打っただけで、あれもこれもと願い事をするのは、たしかに厚かまし過ぎます。このような祈りは知識人から軽蔑されても、当然のことと言っていいでしょう。

   本多碩峯 参与 77001-0042288-000