吉武 隆善(大分県中津市弘法寺住職)
思いやりには二通りあると思います。一つは意識を持ってやる思いやり、もう一つは無意識のうちに出る無条件の思いやりです。私たちは大人になって、その無意識の思いやりを忘れかけているかもしれません。
数年前、電車に乗って出かけたときのことです。私は始発から乗ったのでゆっくりと座れましたが、駅に止まれるにつれて立つ人が増えてきました。そのとき一組の老夫婦が乗ってこられました。すぐにでも代わってあげたいと思ったのですが、その老夫婦から私の座席まで少し距離があり、電車の揺れでここまで来るのは大変だろうと思って、なかなか声を掛けられずにいました。
そんな折、一人の人が「ここに座ってください」と座席を空けられました。声を掛けられたのは私より後ろの席の方でした。老夫婦は人ごみをかけ分けて、私の座席の横を通って、声を掛けてくださった方の座席へと嬉しそうに行かれたのでした。私は何とも恥ずかしい気持ちで一杯でした。何も考えず「こちらへどうぞ」となぜ言えなかったのか、後悔ばかりが後を絶ちませんでした。
私たちは何かするにあたって、頭の中で考えて気構えてしまうところがあります。そして、それがかえって仇になってしまう場合があります。良いと思ったことをすぐに行動に移せなくなってきました。困っている人がいれば、さっと手を差し伸べられる行動、誰かのために無意識に出るやさしさ、それが仏教でいう「慈悲の心」なのです。
入院している友達のお見舞いに行った帰りのことです。友達の病室を後にし、エレベーターに乗り込みました。途中の階でエレベーターが止まると数人が待っていて、その中に、三歳ぐらいの子供を抱いたお父さんらしき人とパジャマを着たお母さんらしき人が仲睦ましく話をしていました。入院しているお母さんを、お父さんと子どもがお見舞いに来たのでしょう。子どもは、「ニコニコ」してお母さんの言うことを聞いています。
みんながエレベーターに乗り込み、その子もかわいい笑顔で「また来るね」と言いながらお母さんに手を振り、最後に乗り込みました。そしてエレベーターのドアが閉まるや否や、男の子はお父さんの胸に顔を埋めて「お母さん」と泣き出したのです。今まで笑顔だった子どもが、母の姿が見えなくなったことを確認すると同時に、「ワァーワァー」と泣きだしたのです。
我慢していたのでしょう。母の前で泣けば母が悲しい思いをします。それを知ってか知らずか、我慢していたものを吐き出すように泣いたのです。お父さんは「また来ような」と言いながらわが子の頭を撫ぜていました。わずか三歳の子どもが母のことを思ってしたこの行動に何の策略もありません。これこそが無意識に出た無条件の思いやりだと思いました。
般若心経の中に無意識界という部分が出てきます。これは、意識で見る世界ではないということです。意識せずに、ただ本心のまま出てくるやさしさこそ、本来の仏の心であります。日々の生活のなかで無意識に出るやさしさ、慈しみの心を磨いていきたいものです。
参与770001-4228(本多碩峯)