木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

守山崩れ

2008年09月19日 | 戦国時代
守山区は、名古屋のチベットとも呼ばれることのある秘境(?)である。
名古屋ドームを眺める位置にありながら、奥へ行くと、古墳発掘で有名な志段味地区などを持ち、宅地化が進む中にも「昔」を強く持ち続ける区である。
名古屋でも一番の繁華街である栄と、瀬戸物で有名な瀬戸市を結ぶのは、名鉄瀬戸線である。
名古屋ドームの最寄り駅といってもいい矢田駅は、規模の大きい大曽根駅の一つ先。
矢田川のすぐ手前に位置する。
矢田駅から徒歩10分。矢田川を山田北町方面に歩いたところに、市場という町がある。その市場町に宝勝寺という寺があり、その辺りが守山城のあった辺りとされる。
住宅地の波が押し寄せているとは言うが、宝勝寺の裏にはこんもりとした林が広がり、開発化の波を押しとどめている。
ここに守山城の立て看板だけがポツンと建てられている。
守山城は、守山崩れと言われる事件で有名になった。
時は天文四年(一五三五年)。
織田信長の父である信秀は、古渡城、那古野城、守山城の三城を中心とし、今川勢と対峙していた。
守山城を守るのは信長の叔父にあたる信光。
信光の誘いを請け、松平清康が岡崎を後にした。
清康は、家康の祖父に当たる。このとき、弱冠二五歳。若い藩主であったが、武力に優れ、三河平定に迫るほどの勢いであった。
清康が守山城に入り、今川勢と対峙した朝。
清康は、部下の勘違いにより殺害されてしまう。まだ、下克上の世の中である。
大将の思いがけない死により、松平家は大幅な弱体化を余儀なくされた。
これが、世に言う「守山崩れ」である。
あまり知られていない史実であるが、この事件がなければ、徳川幕府は生まれていたかどうか分からない。少なくとも、家康が今川家に人質に取られるなどということは起こらなかったであろう。
守山崩れで、清康が斬られたのが、村正であるといわれ、村正の妖刀伝説へと繋がっていく。


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今は、こんな簡単な立看板しか残っていない。地元に人に守山城址を聞いても、ほとんどの人がどこにあるか知らない。


奥に見えるのが宝勝寺の林。この林のおかげで、この辺りは随分と昔の面影を残している。


この辺りは標高25mの岡だと言う。確かに、視線を変えると、坂の上にいるのが分かる。

東海の城物語 中日新聞社
葵のふる里の歴史(中根大)松平の里観光協会
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