木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

玉屋と鍵屋①

2008年09月02日 | 江戸の花火
残暑はまだ厳しいが、8月が終わると、やはり秋が近づいてきた気がする。
昼の蝉の声に代わり、夜のこおろぎの声が耳につくようになる。
今年は、暑かった。
さて、去り行く夏を惜しむお題として、花火を取り上げたい。
花火が上がった時の掛け声「玉屋、鍵屋」の由来というのは、有名である。
「鍵屋」は、万治二年(1659年)に、篠原村の弥兵衛が江戸に出てきて、一躍幕府御用達の花火師となり、輝ける花火師の総本山とも言える鍵屋の歴史を始める。
「玉屋」は、文化七年(1810年)に鍵屋の手代であった清七が優れた腕を買われ、特別に暖簾分けを許され、独立したとされる。
鍵屋に飾ってあった稲荷が鍵を持っていたので、鍵屋の屋号としたが、もう一方では玉を持っていたため、分家は「玉屋」を屋号とした、云々。
どこの本を見ても、この説が採用されているが、実は、この説は非常に疑わしい。
疑わしい点を下記に書き出してみる。

①文化七年以前に、「玉屋」は存在していた。
②いくら腕がよくても、手代から独立する例はほとんどない。
③大川で「玉屋が上流、鍵屋が下流の花火を担当した」とあるが本家、分家であれば順序が逆ではないか。


このうち、①であるが、1777年発行の「中州雀」という書物の中には「玉屋玉屋と喝采するも、鍵屋と誉むるを知らず」という文句が見える。浮世絵の中を見ても、1810年以前に描かれた絵の中に玉屋の屋号がいくつも描かれている。
②については、清七の役職を番頭としているものもあるが、多くは手代となっている。いくら技術集団の中でも、江戸が身分社会であることを考えると、手代から独立することと言うのは、ほとんどあり得ない。では、番頭だったとすると、清七が独立した時、何歳だったんだ、という疑問が残る。
③は、少し蛇足で、切絵図を見ると、玉屋上流、鍵屋下流であっても、店のあった位置を考えると自然に思える。もっとも、上流、下流を交互に担当した、という説もあり、必ずしも玉屋上流、鍵屋下流ではなかったようである。

では、事実はどうであったか。
個人的な解釈は、明日に書かせてもらいます。

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