活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

零式戦闘機

2009-12-02 04:19:42 | 活字の海(読了編)
著者:吉村昭 新潮文庫刊 定価:476円(税別)
初版刊行 :昭和53年3月30日
23刷改版:昭和63年7月25日
45刷刊行:平成19年8月 5日(入手版)



吉村昭氏といえば。
「戦艦武蔵」を始めとする、一連の戦争記録小説でもって世に
出た作家である。

その後、第二次大戦の歴史証人が多く鬼籍に入ったことを受け、
歴史小説等へと活躍のフィールドを広げていったことは、
既に過去のレビューでも紹介した通りである。


だが。
今夏の黒部ダム訪問の際に、「高熱隋道」の文庫を手にした
ことが氏との出会いであった僕としては、氏の戦争記録小説を
手にしたのは実は本書が初めてであった。



零式艦上戦闘機。
所謂、ゼロ戦。


三菱重工業の手になる、この戦闘機は。


96式艦上戦闘機と並んで、それまで欧米の後塵を排すしか
なかった日本の航空機設計技術を、一躍世界のトップレベル
にまで高めた名機であった。


そして、その特性は…。

・欧米のデッドコピーから脱却した高い独創性を発揮した設計
・流麗にして軽量な機体による高速、高機動性
・攻撃は最大の防御の思想の元、皆無に等しい防弾性能
・後発機の開発が間に合わず、引き際を得られなかった悲劇性
・陸海軍が各々に別機体の開発を進めていった不合理性


等など。

日本人そのものとしか言えないような性格を、有していた。


(ちなみに、陸軍の名機「隼」は、日本ロケットの父であり、
 小惑星イトカワの命名の由来ともなった故・糸川英夫博士が
 開発に参加している。

 小惑星イトカワを訪れた探査機「はやぶさ」は、正に生みの
 親の元を訪ねていったとも言えるのだ)




本書のあとがきにおいて、吉村氏は。

「零式戦闘機の誕生からその末路までの経過をたどることは、
 日本の行った戦争の姿そのものをたどることになる」

そ、本書執筆の思いを語っているが。


戦争の姿そのもの、という表現に更に籠められた真意として、
吉村氏がこの作品で零式戦闘機に仮託して描きたかったものは。

恐らく、そうした日本人そのものだったのではないだろうか…。



そうしたゼロ戦の特性をよく表すエピソードとして、本書の
冒頭で紹介されているのが、ゼロ戦の出荷に関するものである。


三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所で製作された機体は。

そこから空を飛ぶ翼を得て、それぞれの配属先へ飛び立って
いった訳ではない。

機体は、工場では主翼、胴体前部、胴体後部、エンジンの
4つのパートに分割されており、それを2台の牛車に分乗
させて、岐阜県にある各務原(かかみがはら)飛行場まで
約24時間かけて運ばれていくのだ。


最高時速500キロを越える機体が、僅か48キロを時速
2キロで運ばれていく、このアンビバレンツ。


なぜ、牛車か。

この48キロの道程が、未舗装路であった故である。

トラックや馬車では速度が出過ぎて路面の反動で機体に損傷が
生じてしまう。

牛車の時速2キロという低速度でのみ、無傷で機体を運搬する
ことが適うのだ。


これほどの機体を生み出す技術力を持ちながら、重要施設間を
結ぶ僅か48キロを舗装する国力さえ有しない国。


その国が、どういう経緯と目算でアメリカと言う超大国との
戦争に踏み込んでいったのかを。

氏は、ゼロ戦の開発史と重ね合わせて照射していく。

彼我の戦力差は、比べるも愚かなほどだ。

本書165ページの比較によれば。

・造艦能力から見た兵力比率

   開戦時    日本7.5 対 アメリカ10
   昭和18年  日本7.5 隊 アメリカ15
   昭和19年  日本7.5 対 アメリカ22.5

・海軍航空機生産能力

   昭和17年  日本4千機 対 アメリカ4万8千機
   昭和18年  日本8千機 対 アメリカ8万5千機
   昭和19年  日本1万機 対 アメリカ10万機


これらの諸数値は当時の軍部中枢部にとっても知見されたもの
であった。

にも関わらず、当時の日本は開戦を選択した。
というよりも、せざるを得なかった。

そのことを、なんと愚かなと嘲笑するのは容易い。



だが、
当時の日本には、どれほどの選択肢があったというのか。

そして、その選択を行う判断材料として、ゼロ戦が果たした役割は、
果たして如何なるものだったのか。


ゼロ戦さえ無ければ。
あそこまで無謀な戦争を決意することは、無かったのかも知れない。

それ程までに、開発当時におけるゼロ戦の優位性は際立っていたのだ。


もとより、技術そのものに是非がある訳ではない。

全ての是非の責務は、それを統べる人間に委ねられるべきものである。


その鮮烈にして華麗な登場から。

敗戦末期。
もはや部品も人員も、牛に与える飼い葉すら底をつき。
アバラを浮き出させふらつく足取りの牛によって、細々と運ばれていく
ゼロ戦の姿を。


すべての日本人は、心しなければならないだろう。


そして、それは。
戦後の経済戦争においても、そのまま当てはまる縮図となるのだから。




零式艦上戦闘機。
その開発に、運用に、生産に。そして、操縦に。

当時の日本人は、その総力を挙げて取り組んでいった。
そのことは、歴然とした事実である。


今も、国内、あるいは海外に数機実存するゼロ戦。
その流麗なシルエットは、そうした秘話を永劫に黙して語らない。

だからこそ。

もう一度だけ、言うが。


すべての日本人は。
その機体に秘められた歴史を、心しなければならないと思うのだ。


(この稿、了)










零式戦闘機 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社

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12 コメント

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Unknown (宇宙ハンター55)
2009-12-02 20:19:18
>僅か48キロを舗装する国力さえ有しない国

当時の日本は、ドイツ、フランス、イタリア並みの国力を有しています。

輸送の主力は鉄道であり、自動車の数が少なかったので、舗装に力をいれていなかったと思われます。
返信する
Unknown (シャドー81)
2009-12-02 22:38:55
各務原から飛んだの?小牧からじゃなく?その当時は、小牧に飛行場なかったのかなぁ。または、その逆か?いまじゃ、目の前が飛行場なのに。

確かに零戦は装甲が薄いですねぇ・・・後にヘルキャット、P38にいいようにやれれていたからなぁ・・・アリューシャンに墜落してなかったら、弱点もわからず、まだまだやれたような・・・

でも、最大の資源、優秀なパイロットがそのせいでいなくなったことが、後に零戦が撃墜される最大の要因だけど・・・
返信する
Unknown (MOLTA)
2009-12-03 02:18:10
>宇宙ハンター55さん

開戦時の国力比率は、色々な切り口から行うことができますが、以下のサイト等ではかなりわかりやすくまとめてくれています。
http://www17.ocn.ne.jp/~senshi/detafile1.html

その中で見ると、確かに国力としては開戦時はアメリカ以外ではある程度近しいところもありますが、当のアメリカとは国力、更には生産力に圧倒的な差異があったことがよく分かります。

また、各務原飛行場までが未舗装だった件についても、確かに鉄道主体の要素は有りますが、航空機生産が急務となった開戦後においてさえ、敗戦まで未舗装のままであった(軍部も、当然その実態を理解はしていましたが、牛よりも耐久力のあるペルシュロン馬の手配に留まっていた)ことが、当時の日本の国力の限界をよく表していると思っています。
返信する
Unknown (MOLTA)
2009-12-03 02:20:51
>シャドー81さん

小牧飛行場は、昭和19年に開港されましたが、悲しいかな陸軍管轄でした。

航空機開発は、コラム中にも書いたとおり(大戦末期を除いて)陸海軍別個に行われていたので、空港の相互利用等と言う融通性も無かったのでしょう。

そうした下らないテリトリー問題もまた、日本らしいのかもしれませんが…。
返信する
Unknown (宇宙ハンター55)
2009-12-03 08:50:18
>48キロを舗装する国力さえ有しない国

読者には舗装する財力もなかったとの説明にとれます。

開戦当時、満州、朝鮮などに大規模に投資している実態からも、大量に兵器を生産していることからも、舗装するぐらいの財力は十分にあったと思います。つまり、舗装する必要性があまりなかったということだと思います。

開戦後以降は、本当にお金がなかったのでしょう。
返信する
Unknown (シャドー81)
2009-12-03 21:41:19
ありがとう。

逆でした、小牧飛行場が、昭和19年に開港していても、小牧工場が出来たのは、昭和27年でした。

てっきり、零戦は小牧工場で作った物と思ってました。
返信する
Unknown (MOLTA)
2009-12-05 01:36:33
>宇宙ハンター55さん
う~ん。
どうでしょう。
確かに、開戦当時に日本は満州、朝鮮、あと台湾にも相当のインフラ投資をしていました。
そうした意味での国力はあったと思います。

但し、国内の社会インフラの整備状況は自動車の普及率も低く、(これもご指摘のとおり)鉄道が高速大量移動手段の主役だったこともあって、道路の舗装状況はお寒いものでした。
(東京市は、1931年に50%を超えていたというデータもありますが、これは例外中の例外。昭和30年でも日本全体での国道舗装率は25%でした)

これを必要が無かったから低かったとみるか、そこまで投資に手が回らなかったとみるかによって、答えは変わってくると思います。

確かに、自動車普及率が低い状態では必要が無かったとする見解もありますが、軍事施設間の道路という社会情勢を考慮すると最優先されるはずの区間が開戦前から敗戦まで未着手だったことを考えると、僕としては社会資本の投資先を先鋭化するを得なかった当時の日本の国力の無さが透けて見えると思っているのですが。
返信する
Unknown (宇宙ハンター55)
2009-12-05 08:35:15
だから、私は開戦前で定義して説明しているんですけど…

>その国が、どういう経緯と目算でアメリカと言う超大国との
戦争に踏み込んでいったのかを

MOLTAさんも開戦前で定義しているでしょ。

開戦前は舗装しようと思えばできたけど、していなかっただけではないですかといっているんです。

開戦前は計画的にゼロ戦の生産を進めればよく、牛での輸送で生産ペースが合っていたのではないかと思っています。

開戦後の話とアメリカとの国力差の話を抜きにして、開戦前は舗装できないほど国力がなかったかのご回答をお願いいたします。






返信する
Unknown (MOLTA)
2009-12-05 09:37:23
>開戦前は舗装しようと思えばできたけど、していなかっただけではないですかといっているんです。

という問いについては、

>これを必要が無かったから低かったとみるか、そこまで投資に手が回らなかったとみるかによって、答えは変わってくると思います。

確かに、自動車普及率が低い状態では必要が無かったとする見解もありますが、軍事施設間の道路という社会情勢を考慮すると最優先されるはずの区間が開戦前から敗戦まで未着手だったことを考えると、僕としては社会資本の投資先を先鋭化するを得なかった当時の日本の国力の無さが透けて見えると思っているのですが。


と回答した積もりなんですが…。


国力をなんと定義するかですが。

・舗装する技術力は、当然有った
・金も、出そうと思えば出せた
・でも、植民地経営等の他の社会インフラに手を出しすぎて、国内インフラ投資に手を出す余裕は無かった
・モータリゼーションの普及も甘く考えていた
・開戦に向けた諸準備を進める中でも、ハードの製造には血道を挙げても、軍事施設間の舗装というバックヤード系の重要性をきちんと判断出来る人材がいなかった


これらの結果、かの区間は舗装されなかったのだと思っています。

勿論、この区間の舗装の要否を考えれば、その優先度は極めて高かったと言えるでしょう。


それでも。

1939年時の各国の主要幹線の道路舗装率
国名
舗装率
日本0.9%
アメリカ39%
イギリス44%
ドイツ36%
フランス31%
イタリア28%

というデータがあります。
(2chからなので、出典が無いのが残念ですが)

この数値からも。
既に先行して植民地経営を行っていた他の列強に比べて、後発先進国であった当時の日本の国力では。国内社会インフラに手を出す余裕は無かったと僕は判断した次第です。

返信する
Unknown (Unknown)
2009-12-05 13:28:52
>軍事施設間の道路という社会情勢を考慮すると最優先されるはずの区間が開戦前から敗戦まで未着手だったことを考えると、

開戦後の話は無しでとお願いしますと申し上げたはずです。

>既に先行して植民地経営を行っていた他の列強に比べて、後発先進国であった当時の日本の国力では。国内社会インフラに手を出す余裕は無かったと僕は判断した次第です。

欧米が道路整備に力を入れていた時、日本は鉄道による国内社会インフラ整備に力を入れていたのです。石炭の輸送や物資の移動に使う鉄道はどんどん整備されています。インフラを整備する余裕はあったと私は判断する次第です。

主要幹線の舗装率の低さは、日本が山地が多い地形のため鉄道に力を入れたからであり、舗装率で国力をはかるのは無理があると思います。

現代の常識で歴史を判断するのではなく、当時の視点で判断していただきたいと思います。






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