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著者:夏目漱石
僕と本書の出会いは、遠く中学の頃、国語の教科書に載っていた
ところから始まる。
教科書で、どの部分が引用されていたのか、また、何年生の時の
ものだったのか等、細かい部分は記憶の海に沈んでしまい、浮上の
兆しすらない。
それでも、本書はなんだかずっと頭の片隅に残っていて、いつか
全部読んでみたいと思っていた。
そう思って幾星霜(笑)、先日、とある古書店の書棚で本書を
見つけたのも何かの縁と、手にとってしまった次第。
あまり近代文学には手を出してこなかったので、夏目漱石といえど
読んでいたのは精々が「ぼっちゃん」や「我輩は猫である」くらいな
ものである。
それら、コミカルな中にもシニカルなニュアンスを湛(たた)えていた
作品群と比べて、本書では全編が行間から、云々という全ての
登場人物の呻き声が聞こえてきそうな、それでいて、読むのが苦に
なるどころか、これら登場人物を乗せた物語という船が、どこに
流れ着くのかを見届けたい思いで、ページを繰る手を止めること無く
最後まで一気に読みきってしまった。
それは、漱石の自然、かつ流麗な文体によるところも大きいが、
何よりも登場人物の持つ苦悩が、明治から遠く離れた平成の今と
なっても尚、身近に感じられるものであったからに他ならないだろう。
本書は、三部から構成されている。
第一章 先生と私
第二章 両親と私
第三章 先生の遺書
その第一章から第二章までのモノローグを勤める「私」であるが、
あくまで読者と先生とを繋ぎ止める糊代として配置されている
ような気がして、物語の中で大きい立ち位置を占めている割には
特筆すべきカラーが見出せない。
結局、彼は先生から何を学んだのか。
本書が、今一つすっきりとしないのは、畢竟その部分が明確に
されていないからではないか、と思っている。
ただ、それを補って余りある、先生の胸中に渦巻く思いの葛藤が
読者を引き込み、物語から目を話させない力を有しているので
あるが。
もっと言ってしまえば、「私」は第三章の先生の述懐=遺書を
際立たせるためにのみ配置された存在である。
それが故、「私」が「私」でなければならない必然性も乏しく、
無個性感が際立っている。
勿論、第二章で両親(特に、死病を得た父親)への接し方を
通じて、死というものを考えるきっかけを与えてくれはするが、
それが「私」である必要があるのかといえば、否と言わざるを
得ないだろう。
畢竟、これまで第三者の目を通して、いわばフィルター越しに
提供されていた先生という人物像が、一挙にモノローグとなる
ことで、その内面が読者の前に突きつけられる、そのからくり
作りのためにのみ、「私」は存在しているとさえ思える。
このことは、先生の妻についても言える。
先生とKが、共に好きになってしまった下宿先のお嬢さん。
あれほどの思いと代償を経て先生が手に入れたお嬢さん
ではあるが、作中ではその内面を殆ど晒け出さない。
結局、Kの死後は生ける屍のような余生(敢えて、人生では
なく余生と言おう)を生きる先生と夫婦でいるからには、
相当に彼女にも相克は有った筈なのだし、そうした愚痴を確かに
「私」にこぼしたりもしているのだが、作品上ではそれ以上の言及は
なし。かといって、夫婦関係に諦観しているかといえば、そうでもなさ
そうだ。
それほどまでに鈍感な女性なのか?
或いは、理解できないながらも、その存在の全てを受け入れ
ようとして、先生に接していた女性なのか?
そうした点が全く不明のまま、彼女は妻となり、そして未亡人
となってしまった。
そのことが、先生の妻の作品への関与度合いを著しく低い
ものとしてしまっている。
彼女を争った挙句の親友の自死という話の流れからすると、
もっとドロドロの愛憎の只中に彼女を叩き込むことも出来た
筈なのに、恐らく漱石は敢えて「私」も彼女も、オブラートで
包んだような書き方をしていると思わせる節がある。
そうなれば結局、この物語の中で血肉を得ていた人物といえば、
先生とKだけだったのではないか、という気すらしてくる。
それでは、その二人の間にあった相克とは、果たして二人を
持って自死へと導かざるを得なかったほどのものであったのか?
(この稿、続く)
僕と本書の出会いは、遠く中学の頃、国語の教科書に載っていた
ところから始まる。
教科書で、どの部分が引用されていたのか、また、何年生の時の
ものだったのか等、細かい部分は記憶の海に沈んでしまい、浮上の
兆しすらない。
それでも、本書はなんだかずっと頭の片隅に残っていて、いつか
全部読んでみたいと思っていた。
そう思って幾星霜(笑)、先日、とある古書店の書棚で本書を
見つけたのも何かの縁と、手にとってしまった次第。
あまり近代文学には手を出してこなかったので、夏目漱石といえど
読んでいたのは精々が「ぼっちゃん」や「我輩は猫である」くらいな
ものである。
それら、コミカルな中にもシニカルなニュアンスを湛(たた)えていた
作品群と比べて、本書では全編が行間から、云々という全ての
登場人物の呻き声が聞こえてきそうな、それでいて、読むのが苦に
なるどころか、これら登場人物を乗せた物語という船が、どこに
流れ着くのかを見届けたい思いで、ページを繰る手を止めること無く
最後まで一気に読みきってしまった。
それは、漱石の自然、かつ流麗な文体によるところも大きいが、
何よりも登場人物の持つ苦悩が、明治から遠く離れた平成の今と
なっても尚、身近に感じられるものであったからに他ならないだろう。
本書は、三部から構成されている。
第一章 先生と私
第二章 両親と私
第三章 先生の遺書
その第一章から第二章までのモノローグを勤める「私」であるが、
あくまで読者と先生とを繋ぎ止める糊代として配置されている
ような気がして、物語の中で大きい立ち位置を占めている割には
特筆すべきカラーが見出せない。
結局、彼は先生から何を学んだのか。
本書が、今一つすっきりとしないのは、畢竟その部分が明確に
されていないからではないか、と思っている。
ただ、それを補って余りある、先生の胸中に渦巻く思いの葛藤が
読者を引き込み、物語から目を話させない力を有しているので
あるが。
もっと言ってしまえば、「私」は第三章の先生の述懐=遺書を
際立たせるためにのみ配置された存在である。
それが故、「私」が「私」でなければならない必然性も乏しく、
無個性感が際立っている。
勿論、第二章で両親(特に、死病を得た父親)への接し方を
通じて、死というものを考えるきっかけを与えてくれはするが、
それが「私」である必要があるのかといえば、否と言わざるを
得ないだろう。
畢竟、これまで第三者の目を通して、いわばフィルター越しに
提供されていた先生という人物像が、一挙にモノローグとなる
ことで、その内面が読者の前に突きつけられる、そのからくり
作りのためにのみ、「私」は存在しているとさえ思える。
このことは、先生の妻についても言える。
先生とKが、共に好きになってしまった下宿先のお嬢さん。
あれほどの思いと代償を経て先生が手に入れたお嬢さん
ではあるが、作中ではその内面を殆ど晒け出さない。
結局、Kの死後は生ける屍のような余生(敢えて、人生では
なく余生と言おう)を生きる先生と夫婦でいるからには、
相当に彼女にも相克は有った筈なのだし、そうした愚痴を確かに
「私」にこぼしたりもしているのだが、作品上ではそれ以上の言及は
なし。かといって、夫婦関係に諦観しているかといえば、そうでもなさ
そうだ。
それほどまでに鈍感な女性なのか?
或いは、理解できないながらも、その存在の全てを受け入れ
ようとして、先生に接していた女性なのか?
そうした点が全く不明のまま、彼女は妻となり、そして未亡人
となってしまった。
そのことが、先生の妻の作品への関与度合いを著しく低い
ものとしてしまっている。
彼女を争った挙句の親友の自死という話の流れからすると、
もっとドロドロの愛憎の只中に彼女を叩き込むことも出来た
筈なのに、恐らく漱石は敢えて「私」も彼女も、オブラートで
包んだような書き方をしていると思わせる節がある。
そうなれば結局、この物語の中で血肉を得ていた人物といえば、
先生とKだけだったのではないか、という気すらしてくる。
それでは、その二人の間にあった相克とは、果たして二人を
持って自死へと導かざるを得なかったほどのものであったのか?
(この稿、続く)
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